1950〜60年代のテレビラマや映画のシーンで観た
アメリカ人の居間(白人中流家庭)のシーンには
フルーツバスケット、フルーツボウルが
「ごく普通に」置いてある
グレープ、ストロベリー、バナナ、チェリーetcが
てんこもりで盛っていて
居間に、来た人が勝手に
好きなだけ摘んで食べるわけだ
常時置いてあって、全部食べる事は稀。
ある程度残ったら、捨てるのがふつう
はなから「もったいないという感覚」はない。
ほとんど捨てることを前提にしている感覚/
これには驚いた
つまり果実は「消費するもの」で
季節を味わう、などという
優雅な感覚はない(今でも)。
ナッツとかポテトチップスに
近い感覚なのだ
もちろん今は違うけれど
当時は果実が贅沢品だった日本とは
全然ちがう消費生活だった
以前書いた事があるが、LA時代。
上司ご夫妻が来日することになり
宿泊中の帝国ホテルに、うちの両親が奮発して
千疋屋にウェルカムフルーツを頼んでくれた。
彼らはこんな美味しいメロンは
今まで食べた事がない!と
大感激してくれた。
そりゃ、そうだろう。
そのメロンが実は1個100ドルする事を知ったら
堅実で倹約家の(それでいて大金持ちの)ユダヤ系の上司には
絶対に日本の慣習は理解できなかったはずだ。
つまりそれは「100ドルのメロン」の意味が
贈る方も贈られる方も解っている日本の社会の
特殊性(というか洗練度)なのだ。
日本の農産物のクオリティは最高峰だ
我彼の目指すところのレベルが全然違うのだ。
経済的効率を高める(一言で言えばいかに効率よく楽して儲けるか)
ことのみを考えている他国と一緒にしてもらっては困る
水は低い方に流れるものなのだ。
いつも友人達が送ってくれる、
梨、桃、ネクタリン、葡萄
その素晴らしさに感激している
単なる農産物ではなく
「巧みの技」だ
物事を究めてゆくというDNAが
我々日本人の血に濃く受け継がれているのではないか。
昨日の「風立ちぬ」を観て感じた。
あらためてこの日本に
生まれた事を誇りに思う。