助けあいジャパン

September 13, 2010

内田さんの視点

超忙しかった月曜日。夕方は横浜で定例の経営会議。車中で話題の新書「街場のメディア論」内田樹。小説やら新書やらエッセイやらクロスオヴァーしながら読む。この人のユニークな視点と深い思索は、僕のような凡人からは「目からウロコ」的な発見があり、知的な刺戟を受け「ううむ」「なーるほど」と唸りつつ、ページを繰った。「書いてある言葉を味わいつつ、ページを繰る」という行為って、電子図書では絶対に味わえない快楽だと思う。

以下、この本でアンダーラインした至言のいくつか(要約):

キャリア教育とは、与えられた条件のもとで最高のパフォーマンスを発揮するように自分自身の潜在能力を「選択的に開花させること」。潜在能力というものは、その能力が必要とされたときにはじめて発動するものなのだ。天才的な素質に生まれついた人は、それが周囲の人から見てどれほど例外的に卓越した能力であっても、自分ではそれを「あまりたいしたことないものだ」と思っている。生まれた時から「あたりまえ」だったから。

「世論」の定義: 揺るがぬ真理であるのだが、自分の生身を差し出してまで主張しなければならないほど切実な真実ではない。

「社会的共通資本」(医療や教育も当然含まれる)は、政治にも市場にも委ねられてはならない。わずかな入力差が大きな出力差を生み出すような種類のシステム(つまり経済的利潤を生むべく機能するような市場主義)は、本質的に不安定なものなのだ。社会的共通資本は、職業的専門家によって、専門的知見に基づき、職業的規範に従って管理・維持されなければならない(宇沢弘文)。

つまり、世の中には変わるべきものと、簡単に変わってはいけないものがある。すべての市場原理で動かせば、現状より良くなるはずだという考え方は明らかに誤りである。

メディアはもともと「弱者と強者の利害的対立」に際して、弱者に「推定正義」を適用するという原則がある。それは間違っていない。しかし、マニュアル化されたメディア(えせ正義の味方)が定型化した言葉を「匿名」で無責任に煽り立てることが当たり前になっているのが問題。さらに、その是非の検証はほとんどされていないのでは、メディアの暴走を止められない。「とりあえず(弱者にみえるほうに加担する)正義の味方」という狡さ(注;医療や教育に対する「とりあえず批判」的な言論がどれだけ現場を混乱させたか!)。

例証:「患者様」と呼ばれた瞬間から、患者は消費者に代わる。消費者は、最低限の代価で最大限の医療サービスを要求することを「義務づけられて」しまう。「批判すればするほど、医療の水準は上がり、医療の質はよくなる」という幻想の信憑性/そして、その態度を「定型」化したメディアの功罪。

知性の質の総量はいつの時代でも変わらなく「同じ」である(村上春樹)。すなわち、現代も未来も「知性の劣化は起こらない」のだ。

電子図書の真の功績は、「読者に対するレスペクト」という視点を喚起したことにある。

書き手から読み手への「贈与」のスムーズな遂行を妨げるすべてのことは作物の「価値」を減じる方向に作用する。すなわち、読みたい本をすぐに読むという願いの実現を妨害するすべての社会的要因は出版文化にとってマイナスである。

書棚の愉悦についての視点(全く同意!)。読書人(消費者ではない:注)は「今ここにある欠如を満たすために本を選ぶ訳でなく、まだここにない欠如を基準に本を選ぶ」。この読書人の間口を広げる事がポイントであると。

じゃ、どーするべきなのか?については、さまざまな傍証や例証を示し、あとは自分たちで考えましょう。
Sauve qui peut (ソープ・キ・プ):「生き延びるものは生き延べよ」 だと。

カッコよすぎますぜ、内田先輩(笑)/
「日本辺境論」を読み直してみよう。
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