元気で自立していた人が歳をとって「ぴんぴんころり」と死ぬ事を望んだり、悪性腫瘍の終末期でも穏やかな眠りにつくようにフェードアウトすることを理想とすることは、僕も出来れば素晴らしいと思う。
不自然な(過度な)延命を望まない人が、その自分の「意志」を自ら元気なうちに明らかしておくことは大切なことだと思う。そしてそれが未来の高齢化社会の日本のスタンダードになる日が来ると思う。
しかしながら、そこで問題になるのは生死の瀬戸際のある患者さん(とその家族)が、追い詰められた状況で限られた情報しかない場合、どんな判断をするか?ということだ。それが昨今話題になっている「生前の意志」のことで、けっして単純に白黒はっきりと決められることではない。一般に考えられているように、単純に気管挿管するとかしないとかの単純な話ではないのだ。
救命が難しくなった時に、問題となるのは、
Withdraw 能動的(積極的な)撤退をするか?
Withhold 現状維持:新たなことは何もしないか?
という二極の議論となる。
欧米では現場ではその判断をしばしば求められる。
日本の場合には、ほとんどが後者が選択され、実際には前者を選択することは殆ど無い。
というか、そこまではっきりした判断を個々のケースに求められたら、ほぼ100%のケースは積極的な新たな治療はしない(つまりwithhold)、という話になる。
例えば、肺炎を起こした場合、何もしないとはいうものの、本当に薬剤は投与しないのか?最小限の補液をすれば多少の全身状態の改善が期待できる場合、どうするか?…何を基準にどう判断するのか?個々のケースで判断することになる。
その文脈でいえば、本人の意志をしっかり担保した上で、日本でもwithdrawが行われる日が近いのかもしれない。刻々と動く患者の病態は、経時的な流れで総合的に判断するべきだ。そして忘れてはいけないのは僕らが経験するような「奇跡的なこと」を、現場では時々経験することだ。だからいかにスムーズにタッチダウンするかも含めて、常に希望は捨ててはいけない。
FBでお知り合いになった升野龍男さんが、「彫り師になった看護師」の話を紹介していて、心底驚いた。2013年4月1日のその記事曰く、自分の意志とはかけ離れて延命治療がされる可能性がある救急の現場では、「蘇生無用」である旨を自分の身体の分かりやすい場所に彫っておくべきだ…というものだった。外科医として救急の現場に居た者として、これには考えこんでしまった。
Disclosureの方法、法的な問題、緊急時の現場の対応、Good Sanaritan Law 等の様々な問題がある…と考えていて、はたと気づいた。これってエイプリルフール?!
もしそうだとしたら、ヒューモアというよりかなりセンスの悪いジョークだと思った。負け惜しみだけど。