助けあいジャパン

May 31, 2011

「エラい人」について:メモランダム

「エラい人」といえば、先日お会いした仙石さんは官房副長官なわけで、序列上では内閣のナンバー3なわけだから文句なしにエラい。ま、でも、ごく普通のおっさんで特に意識する事なく、ふつうに「敬意を払いつつ」お話することができた。これは彼独自のキャラなのかもしれないけれど、たぶんカンさんだったりハトさんだったりしても、あまり僕的には話す内容とか対応は変わらなかったのではないか?と思う。まあ人生の折り返し地点はとうに過ぎ、自分の立ち位置がしっかりと定まったこの歳になると、自分とその「エラい」人と関係性から、だから何なのさ?という「コワいもの知らず」の感じになるのかも。若い頃とは違う。まだまだ世の中には「エラい」人がいるだけど。

「エラい」というのは、一体どういうことなんだろう?

まず、社会的ポジションの高位、という意味。権力を持っているということ。「権力」とは「自分で決められる裁量の大きさ」ともいえる。自分以外の人や社会への「影響力の大きさ」という意味もある。その裏返しとして「責任」も大きくなる。この場合の「エラさ」には、社会的なラダーがあって、スゴくエラい人、次にえらい人、そのつぎにエラい人・・・と続く。つまり、人間関係の中で「相対的な」価値観ということになる。その考え方を進めれば、陰湿なイジメや差別につながる危険な考え方だろうけれど、クールにみればサル山の猿たちと同じで、社会生活を営むためにはそういうヒエラルキーはある意味必要なのかもしれない。

僕は院長という立場で今、小さいながらも組織の長として社会通念上(少しは)「エラい」とされている立場な訳だけれど、しばしば戸惑う。実は全然たいした事はなくて「エラくない」ということが自分でわかっているから。つまり、僕に何か特別な「エラいパワー」が備わっているのではなく、僕を「院長として見なしている」人たちがいて初めて僕は「院長」という立ち位置で仕事できる。つまり社会の中での「役割り分担」でたまたま僕がその「役」を演じることに「周囲がたまたま同意している」というだけのことだ。それは「社長」でも「店長」でも「部長」でも「級長」でも全く同じ。たまたま、「そうなった(させられた)」にすぎないわけだ。

「自分に対する影響力の大きい」という意味もある。
学校の先生は「エラい」か?
年長者というだけで「エラい」か?
僧侶などの聖職者は「エラい」か?

YesでもありNoでもある。

「無条件でレスペクトする(される)」価値があるかどうか?なんてわからないので、儒教的アジア的価値観ではそういう「お約束」になっているということか。

飛び抜けた才能のある人、超人的な努力をして成り上がった人も「エラい」とされる。これはたぶん「その人の代わりがいない度」なんだろう。たとえば、イチローは最高にエラい。彼の飛び抜けた天賦の才能は、彼にしかないものだからには無条件のレスペクトが向けられる。この場合のエラさは、その価値の高さが一般的にはお金で換算できることになっているので、ダントツのお金持ちであることが多い。だけれど、ふつうのお金持ちが「エラい」か?といえば、ホリエモンが「エラい」と見なされないように、多くの場合で「エラい」とは扱われない。もちろんその人に「商売」が関わる場合にはいっぱいモノを買ってくれる「エラい」人という、ちやほや扱いは受けるだろうけれど。「エラい」人と「エラそうな」人は全然ちがうもんね(笑)。賞賛と非難はコインの表裏ということもあるし、やっかみや嫉妬も尊敬と紙一重のところにある。

もちろん本来的な意味で、「偉人」としての「エラい」人というのもある。「素晴らしいことをしている」人、「常人の出来ない事をしている」人、さらには「人のやらないことを黙々としている」人とか。

もう少し考察を続けてみよう。
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