助けあいジャパン

May 10, 2011

自分の正しい立ち位置を確立するという事

前回の主張でもある「本質論から離れた知識とか自分を安易に納得させる解釈を求めるのではなく、心を正しい位置に置く」ということをもう少し考察してみたい。

インターネット時代(なんという陳腐な表現だろう!ネットコミュニケーションってのも狭義に響くし)になって、情報の質量ともに激変した事は確かだ。ここでいう激変というのは、世の中にふわりふわりと漂っているような市井の噂話から、超高速で流れる(流される)怒濤のような有象無象の情報。そこには匿名性のある無責任な個人からの情報にはじまり、いわゆる既存のマスコミュニケ−ションの情報まであるし、皆知っている常識的な情報から個人の秘密情報までをも含まれているだろう。一番の問題は、それがあまりにも膨大で「様々な」ために、僕らは豪雨の後に流れる怒濤の川の河原で呆然と立ち尽くしてしまっているみたいな状況なのだ。皆誰でも、例外なく。

そんな状況の現代人に情報リテラシーを高めましょう!という提案に反対する人はいないはずだ。そして、これらは現代に生きるための必須の個人的なcapabilityである。ちょっと逆説的に言えば、従来、情報の大きな発信源だった既存マスコミュニケーション業界の今後の大きな意義として、「膨大な情報のアーカイブ機能」があるだろう。本質論から離れて「安易な解釈」に流されてしまう僕達。ここまでは、まあ誰でも思いつくロジック。

でも・・・だとすれば、昨日の新保教授の論点が秀逸なのは、あえて「自分の心を正しい立ち位置に置くために、超アナログな読書に回帰すること」を推奨していることなんだよな。実際にできるのは、そうだな1000人に1人(確率0.1%)くらいだろうけれど。

なぜ?

僕らは、「正しい(とされる)答え=「正しい(とされる)解釈」」が既にある「問題」を出されることに馴らされて、自分の立ち位置は他人との相対的な位置関係(点数とか順位とか勝敗)からしか知る事が出来ないことに何も疑問を持たずに育ってきたし、学校教育から社会に出るに至って、減点を極力避けいい点数を採る事がいいことだという価値観を強いられてきたから。

だから今、一個人として自由にいくらでも時間をかけて古典やら宗教書や哲学書を呼んで思索を進めていいんだよ!とか言われても力なく「ふふふ」と笑うしかないのだわ。コミュニティセンターに通ったり、大学の公開講座に殺到する団塊世代の人たちの気持ちも理解できる気がする。誰かに「これが正答だよ」と言われないと不安で仕方ない身体になってしまっている。

で、結論としてはこの激動の時代に一番大切な事は、既存の価値観に囚われない自由な発想と行動力のある大人達がどれだけ日本の社会にいるのか?というのが、ポイントとなるのではないか?と、老婆心ながら(つーか、お節介なオヤジ心的に)思ったりして。でもね希望的観測だけれど「いる」と思う。それも「必要にして十分な」数と内容で。
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