助けあいジャパン

February 20, 2012

過去はどこにもないし、未来はだれにもわからない

確定申告の時期になって、今日こそ始めようと思っていたのだけれど、そんな状況になると全く関係ない本が読みたくなり、さらにネットでどうでも良いことを検索し始めてしまい、結局午前中は終わってしまった。知的浮遊の時間といえばカッコいいけれど、現実逃避にほかならない。午後からジムで20本1000m泳いで帰って来たら、今度は眠くなってしまい昼寝。結局全然書類の整理は出来ず、というか完全に逃避した。この「今日こそやろう!」と自分で思いつつも、まだいいや逃げちまおう!と確信犯的に思っているのは、自己防衛反応なのだ。つまり、初めからやるつもりはなかったという気持ちの後ろめたさに対して、自分へのいい訳を作っている。「ま、いっか。そのうちなんとかなるし」こういうことって割とある。学生時代には試験前にかぎってどうでもいいような小説が読みたくなったり、学会の発表準備もぎりぎりまでやらなかったりする。で、本当になんとかなってしまうのだ。

誰だって保留があるからその「ハンドルの遊び」の中で生きていける。

昨日のモリー先生の台詞の余韻に浸りながら、つらつらと考えた。
今を真摯に生きなければなりません。はい、おっしゃるとおりです。でもね、だからこそ、「ま、いっか」もアリだな、と。

誰もが未来はわからない。時間とは連続性の体験なのだ。今の自分に言い訳する事で自分に猶予を与えて安心している。

高橋秀実さんの「結論はまた来週」のなかに「来年は間違いなくよい年です」というエッセイがある。

要約すると、「我々は今より前のことを「過去」と呼んでいるが、実は過去というものはどこにもない。時間と空間は別のものなのに、我々はしばしば時間と空間を置き換えて捉えてしまう。例えば「時間が空いている」などと、連続的な時間の流れを空間的なものとして表現する。しかし、哲学者・大森荘蔵は看破している。「過去の過去たる所以は、過去形の表現である」と。過去形表現の言葉にする事によって初めて過去を体験すると。「今」という瞬間は意識したとたんに過去になってしまうので、決してそのものを表現することはできない。表現できるものは「過去形の過去」と「未来形の未来」だけなのだ。

夜はかみさんと神保町へ。新調した眼鏡を受け取りに三省堂へ。外出していた娘と落ち合って、自由が丘のトラットリア・チーボでディナーすることになった。まずい、昨日&今日とカロリー過剰だ。今週は身体を絞ろう!

未来は誰にも判らないけれど。いや、だからこそ、だ。
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