正直に言うと、誰でも自分は老醜を晒したくはないと思っている(と思う)。
自分だけは違う、なんでも自分でできるし、まだまだ若いもんには負けないというお年寄りは多い。それはそれで立派なことだと思う。生活が完全でなくてもそれは仕方ないことだ。だから、それをサポートしてあげるのが健全な社会だろう。
桜のように散る美学
眠るような穏やかな最期
美しいうちに死ねる幸せ(とくに女性ならばその思いは強いだろう)
人生の最高潮で死ねるとすれば、ある意味で最高の幸せだろう
患者が一刻一秒でも長く生きていて欲しいというのは、自然な感情だが、実際の生物学的な死は連続性のあるもので、小説やドラマのように「うっ!」と一瞬苦しそうにしてガクッとなる…みたいなものではない。臨終に際して、セレモニーとして死の宣告はするけれど、多くの場合には、まだかなりの数の細胞は生きているし、「はっきり判るような生体反応」が不可逆になったということなのだ。つまり「僕が僕じゃなくなった」というのが現在の医学の定義する「死ぬ」ことなのだ。一般の人には解りづらいかもしれない。
さて、ぴんぴんコロリと死ねれば本望だということ。これはある程度の人生経験を積んだ人ならば解る感覚だろう。しかし実際には一般の人が思っているほど簡単なものではない。昨今の考え方でLiving Willを尊重することが当たり前になってきたが、様々な予想外想定外のことが起きるのが医療の(というか、これは人生の)世界なのだ。現場では、ad libの部分も大きいのだ。だから僕ら医師は、患者の快癒に向けて努力するのはあたりまえとしても、いかにスムーズにタッチダウンするか?ということも、常日頃考えている。けっして落ちかけた飛行機を無理やりパワーを上げて「危機を回避する」なんてことはしない。ある時点からは、let it beがコンセンサスとなる。
長期間の療養生活となった場合、本人も家族も疲弊する。生きて長生きすることがストレスになるというジレンマで苦しむ人もいる。一方で、静かな落ち着いた療養生活を送る人も多い。超長期の療養となった人たち、その家族。「治る」ということや、「癒える」ということは、落ち着くこと。お穏やかな時間を手に入れることで、それがひとつの大切なゴールなのだ。
老年社会、
死をどう捉えるかということは
生をいかに捉えるか
周りが支えてあげる環境
穏やかな看取りの医療
終末期医療
延命することがベストとはいえない(いいきれない)という、これまでタブーとされた事実も、近年はずいぶん見直されるようになってきた。やはりケースバイケース。いかに医療者と家族が患者を中心にコミュニケーションをうまくとれるか?という、アタリマエのことの重要性に気づくわけだけれど。
つまり、一律一概にはいえない。だからこそ医療というのはad libの世界なのだ。
それと、センスというかセンサーの問題。その辺りは日本は「空気を読む」とか「行間の意を汲み取る」文化なので、コンセンサスさえ出来れば変えられると思う。日本の常識が世界の非常識なのに、当たり前だと思っている日本の医療者は今でもまだ多いけれど。(この辺りについては、別稿で書かないといけない)
ということで、今後は、さらに「ちゃんと準備をして安心して死ねる体制」がさらに必要とされるだろう。
それを受け入れる側(本人以外)も含めたケア体制
その一つのソルーションとしての(シンボルしての)エピタフEpitaph
そんなことを考えている春
今年の桜は早いみたいだ