墓碑Epitaphは、人が亡くなった時に、家族か友人が故人を偲んで書き記すものだ。古代の墓から出土したものにその時代の為政者の業績を記す墓碑があるように、古来から人間の営みのひとつとして自然なことだったんだろう。もちろん近代になって現代の形式の墓地のシステムが出来上がると、一般人であっても墓碑を作ることが可能になった。これは故人のためというより、主には遺された者たちのためのものであり、オフィシャルな(対社会的な意味での)グリーフGrief行為ともいえる。
以前、「物理的メモリーの中の人生」という文章をここにも書いた。
http://sandgem.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html
生まれてから死ぬまでの「人生」の記憶を、文章や画像や動画や音声のメモリーとして残したとしたら、これを誰がどう使うか?ということについて考察すると・・・っていうことだ。
前のログではSF的な短編ストーリーが浮かんだ訳だけど、以前から僕は「墓碑」として使えるんじゃないかと思っていた。「故人に関する遺された者からの言葉」を石に刻んだものだとすれば、僕の考えているものは、そのイメージから離れていて、適切なタームがない。「墓碑」とか「墓地」とか、どうしてもネガティブなイメージ。ま、ネガティブと言い切れないまでも、少なくとも明るいイメージではないし。
適切なタームを見つけなくては。
ITの進歩に伴い、物理メモリーの個人情報は飛躍的に増え続けている。たとえば、ブログはそもそも書いている本人のためでもあるけど、これはやはり社会にオープンな情報であるから、従来の日記とは違う。人の目を意識したものにならざる得ない。つまり人生の中で出会ってきた体験は、脳の中の記憶に記録されるけど(記憶)、そこにはある種の「フィルター」を通ったものだけが残される。人は都合の悪い記憶より都合のいい記憶のほうが優位に記録されるプログラムがあって、これは基本的な自己防御・生存本能だろう。だから、「物理的メモリーの中の人生」では、「消せない記録」と「消えない記憶」の葛藤がプロットになっているわけだ。
では「未来の墓碑」を作るとすればどんなものになるのだろう?
墓碑は、その人の人生の最高のサマリーであるべきだ。アーカイブのようなものも必要だろう。遺された家族や友人達にとって使いやすい機能があることが必要だし、不特定多数の人たちからのアクササビリティも担保されなくてはならないだろう。インターネット上で、世界中の人たちの「共同墓地」がある、というイメージ。
「最後の授業」のランディ・パウシェ教授が7月25日に膵臓がんの合併症で亡くなったそうだ。彼にとってあの授業は立派な「墓碑」となった、と思う。