March 31, 2013

休みだもの・みつをし(w)

FBで知り合った沼口光芳さんの作品(笑)。by 「みつをメーカー」
(ご本人の同意を頂いて掲載。)


空気の読めない人

日頃の生活には、
敢えて言葉にするまでもなく存在する
ルールやモラルや「しきたり」などの不文律(暗黙知)がある。
社会性のまだ未熟な子供は、
様々な痛い経験や苦労した経験を通じて、
その経験値のレベルをあげていく。

一言で云えば「皆と仲良くやっていくための能力」をつけていくのだ。

これは年齢や経験、その人のインテリジェンス等とは一切相関しない素養である。
社会性EQ(心の知能指数)などが云われた時期もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83%E3%81%AE%E7%9F%A5%E8%83%BD%E6%8C%87%E6%95%B0

ところが、いい歳をしてちゃんとしたキャリアのある人でも、EQの障害の人はたくさんいることがわかってきた。大人になっても時々刻々変化する「周囲の空気」が読めないのだ。最近マスコミなどでも注目されている、アスペルガー症候群

また、そこまではっきりと病的とまではいえないまでも、日常生活の中で空気が読めないことで、変人扱いされたり阻害されたりすることもままある。たぶん本人としては、指摘される理由が解らない。そしてその疎外感を感じ、場合によっては「苛められている」と感じることになるリスクがある。

こういうことを言えば、どういう風に人は思うか?
これは、この場で言うことにふさわしいかどうか?
人にどういう風に見られているのか?

周囲の空気を読んで、瞬時に判断すること。
そればかりでも困るけれど、
このバランス感覚は
誰かに改めて教わるものではなく
「幼稚園の砂場で教わるべき類い」のものなのだろう。
人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ-河出文庫-ロバート-フルガム

March 29, 2013

party Jokeは最低3つ

化学療法の影響だろう。このところ終日眠い。眠くて眠くて、いくらでも眠れる。ちょっと油断すると寝入ってしまう。ぼーっとしているので、何か考えていてちょっと別のことを考えるとすぐにそのことを忘れてしまう。継続的思考は難しい。脳細胞が確実に何割か無くなっているんだろう。ま、でもね、こうやって文章も書けるし凹んでも仕方ない。書けるうちは良しとしよう。

アメリカでもニュージーランドでも、パーティにしばしばお呼ばれした。ここで大事なことは「皆で会話を楽しむこと」だ。当たり前の事だけれど、日本人にとっては1−2回なら問題なくても、毎週毎週の週末いろんな家庭でパーティがあるので、それが割りと大変なことなのだ。楽しいけれど、大変。だれでもリラックスした雰囲気での仲良しの雑談ならいくらでも話せる。でも第三者(というかそこで知り合った人や知人友人たち)にも聞いてもらえるような内容の話をするのは、結構大変なのだ。

海外で生活する事になった日本人にアトバイスをするとすれば、

①誰にでも受ける「自分のネタ」を最低3つ持っていたほうがいい。いわゆるオチのある話。
②その他、会話の間に挟む、他のゲストが答えやすい質問(こちらが質問する!)を2−3個:英語、地理、方言アクセントなど。
③日本ネタ:日本についての説明。自分の知識のなさにしどろもどろになりがち。簡単なネタ本(日本語、英語、絵付き)はあったほうがいい。ネット検索の時代になって便利になったけど。

内容がだいたい固まったら練習。練習することによって笑いを取るツボもわかるしタイミングがつかめる。1回でも受けると、その後が楽になるしパーティを楽しめるようになる。お客さんのままでいるか、仲間に入れてもらうかの差は大きい。

僕は笑いをとる才能も技術もなくて、正攻法でネタ作りと練習しかなかったけれど、身体を使ったネタがあれば万国共通で最高に受けることはまちがいない。NZ人(インド人)の同僚のやる「潜水ネタ」とか毎回爆笑させられた。鉄板ネタがある人は強い。

パーティでのネタが重なってもOK。むしろお約束のジョークは安心して聞いていられる。
昔からいわれるように、政治ネタはわりと難しい。ゴシップネタはみんな大好きだけれど、かなり難しいので避けたほうが無難。せいぜいテレビ番組か映画のネタくらい。知ったかぶりしてもすぐにバレること必至。一般的な日本に関するネタは大体受ける。みんな興味津々なのだ。

ちょっとエッチなセクシーネタが最高(というかパーティジョークの最も得意とするところ)だけれど、僕には自分でやるには難しすぎた。もっぱら本で勉強するか、パーティの場で「ねえねえ、それってどういう意味?」って勉強したもんだ。

パーティではあまり英語が得意じゃないのに、尚子の周りにはいつも人がたくさんいた。彼女の性格なんだろうけれど、あちらの人たちには「可愛がられキャラ」だったんだろう。僕も彼女に随分助けられた。ああ、懐かしい日々。

March 28, 2013

ぷれぜん

1985年〜1988年のアメリカ留学時代。怒涛のごとくPCが仕事に入ってきた。

この時代にアメリカのプレゼン文化の洗礼を受けたことは、いい経験だったと思う。主張してなんぼの世界。目立つことと自分の意見を主張する事ができなければ、仕事のみならず生活さえもできない。

D−base 3, 1−2−3, その他の様々な表計算ソフトがどっと職場に広がった。1990年頃がひとつの時代だったと思う。その当時、プレゼンソフトがまだなかった。今では考えられないけれど、パワポや、パースエーション、キーノートetcなしで、プレゼン用の資料を作っていたのだ。

1985年ごろ。アメリカの学会や病院内のカンファレンスで見るカラーのスライドの美しさは、衝撃的だった。写真画像は別として、当時はブルーバックのスライドが一般的だったのだ。フォトセンターに頼めば出来たが、個別に頼むとトンデモなく高かった。

そこで僕らは「PC画面」を工夫して撮影することにした。たしか当時創刊して間もないMac Fanに出ていた方法(部屋を暗くして、モニター画面の撮影条件を決めて・・・)で撮影した。ものすごく手間がかかって、1枚のカラースライドを撮影するのに15分〜30分くらい掛かったと思う。スライドを作るのに一所懸命で、それだけで仕事が終わった位の気がしたものだ。スライドが「elegant」であるというアメリカ的な褒められ方があることとを知ったのもこの頃だ。

帰国して日本の学会でカラースライドをプレゼンをしたら、発表の内容への質問と同じくらい「どうやってスライドを作ったか?」についての質問が出たくらいだ(笑)。
その直後から、1990年にはプレゼンソフトが一般化となり、あの時代の苦労は「過去の笑い話」になる。時代は明らかに変わった。

スライドでのプレゼンは随分前になくなって、今はPCからの出力が当たり前になった。本番直前まで直せる。信じられないくらい便利になった反面、プレゼンの有り難みがなくなったかな。本来のディスカッションに集中すべきで、そんなもん、もともと要らないか(笑)。

March 27, 2013

どんどんご縁が繋がる不思議

あるお寺に伺ってきた。
姉の通っていた幼稚園の隣に、長い歴史のあるお寺さんがあった。自分のすごく古い記憶にある情景。坂道の途中にあるそのお寺の入り口に、毛筆で何か書いてあった。お寺の御詠歌か何かだと思っていたが、今日それがお寺の方の毎日のメッセージ文だと知った。当時僕は4−5歳だったはずだ。もしかしたらもっと小さかったかもしれない。あの坂の途中からお寺の入り口を何故が鮮明に覚えている。今回、新築大改装をおこない、近代的で素晴らしい施設に生まれ変わったとのこと。それを今日拝見しに伺ったのだ。

それにしてもこのご縁、本当に不思議だ。お寺の前に掲示してあった事をお話したら、お祖母様(ご健在で元気!)に喜んでいただいた。そもそも今回の出会いも不思議だ。そのお寺の住職になったKさん。信頼する友人S 君の親友というご縁。大学時代にスキーに一緒に行ったことがある。その奥さんのTさん、友人の奥さんMさん…ここに書ききれないくらい、様々なご縁があるのに驚いた。

一番(今でも)不思議だったのが、この場所にいることが、必然であるような既視感がある気がしたこと。さらにこのタイミング。これをご縁と云わずになんと表現する?

March 26, 2013

日本の近代史を勉強しておけばよかった

 歳をとるにつれて、ますます歴史の勉強をしておけば良かったと思う。歴史を知らないと厚みがないのだ。今までまともに勉強していなかったと後悔の念が募る。常識的な歴史の知識さえ、かなりアヤフヤで恥ずかしいことも多い。とくに日本近代史はひどいもんだ。教師たちがわざと避けていたとしか思えないような指導要綱だったのではないか?学校の勉強で、小学校でも中学校でも高校でも、近代史は非常に薄っぺらい。本来であれば近代史は勉強の中心になるべきなのに、日本の学校教育は自虐的な歴史観に振り回されてきたのは事実だろう。韓国や中国を非難する以上に、自分たちの受けてきたの反省があるべきだろう。今更ながら、この日本の教育の歪が、すべての問題の根本にあると思う。日教組や教師のせいだけにするのは酷だけれど。

 幕末から明治へ、御一新後の近代化の奇跡、明治時代の人々の素晴らしさ、日本人の国民の底力、近代史、特に清朝、満州の歴史、太平洋戦争、敗戦、近代現代の日本へ続く大きな時の流れ。特に市井の人々の生活に興味がある。そのどれも興味深い。今はミクロ的にもマクロ的にも様々な観点からの歴史の本をじっくり読みたいなあ…。

March 25, 2013

ウェリントン通信

ウェリントン通信+日記 1993-12 ~ 1994-12
珠玉の原稿(うそ・笑)発見!

March 24, 2013

ジオラマ制作の富澤さんから

先日大感激して、ポストした昭和39年頃の渋谷の風景ジオラマ。
ああ、甘酸っぱく懐かしい時代の空気が充満している。
素晴らしいなあ。素敵だなあ。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/130322/tky13032222420005-n1.htm

先日FBにポストした処、制作者の富澤さんから誤りを指摘頂く丁重なメールをいただき恐縮しました。お詫びをして訂正します。これからもどうぞよろしく。

March 23, 2013

気の置けない仲間たち

桜満開・春爛漫。どうしても病に倒れた去年との比較をしてしまう。桜を見ていると1年間という時間が経ったという感慨。ああ、時の流れ。
今日は昼すぎから、じょうじ君、SSU+1メンバーと久しぶりに会食。気のおけない仲間との時間を、改めて有り難く感じつつ。1970年代の「携帯電話のなかった時代」の話で盛り上がる。ライブの話も進められればいいなあ…。自由ヶ丘のハコは最高だと思う。リラックスしてユルユルでライブが出来ればいいなあ。

夕方、三重の大学同期のかおるちゃん来院。彼女からはいつもの元気をもらった。ふふふと思わず笑みが洩れてしまうおいしい見舞いも頂いた。楽しみ楽しみ(笑)。

March 22, 2013

1年、そして桜





春の風が吹き始め
桜の蕾がほっこりと膨らみ
季節の狭間の月が
中空で揺れてる

この自然の巧妙な
「理」とか「科学」の不思議

今僕らの感じている
「世界」は
ごくごく一部でしかないという
不可思議な因果律

僕らの舌足らずで
未熟な言葉は
沈黙する

みんな解ったような顔をして
訳知り顔に生きているけれど
実は誰も何にも解っていない

何を解っていないのかも
解っていない

そんなものなのだ

(original 4-6-2012, revised 3-22-2023)
昨年の桜・砧公園にて撮影。

すごく不思議なのは、
この詩を昨年4/6の桜を愛でながら書いたこと。

March 21, 2013

ケイシーのことを思い出す

http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=MQvc9RuoJCc


2009年1月に亡くなったケイシー・ランキンさん。ご縁があって医師として彼の人生の最期の時間を共有することが出来た。魅力的なおっさんだった。

毎年、この時期になり桜をみると彼のことを思い出す。彼はサムライだった。

後に起こってしまったFUKUSHIMAの現実。愚かな我々人間たちは目覚めることができるのか?ケイシーが生きていたら今何というだろう?
http://sandgem.blogspot.jp/2012/03/blog-post_23.html

排骨坦々麺だってz

ネットで見つけた都内某所のお店。銀座・新橋方面。
ここんちは「排骨麺」の「担々麺」があるらしい。
細麺であることを除けば、イメージ的にはちょっと似ていて興味がある。

朝っぱらから脂っこいボクってどーよ(笑)
(食欲は、先日までのステロイドの影響だろう)
因みに、これは渋谷の某店の排骨担々麺。「だんだんめん」というらしい。両店ともまだ行ったことはない。

March 20, 2013

王様の命令(ドラフト・メモ)要校正

SEPTEMBER 25, 2007

王様の命令;寓話 再掲載

ドラフト
2007−9オリジナル
===================

昔々のある日の午後、王様が一番信頼できる家来達に言った。

「わしは、大切な宝物が一杯ある。我が王国の賢者達よ、その宝物をわしが安心して置いておける金庫を作って欲しい。絶対に開けられない金庫じゃ」

一番賢者アーサーが言った
「恐れながら王様、{絶対に開けられない金庫}というのは矛盾しています。{王様だけが開けられる}という意味ならわかりますが。」

「うむ、その通り。アーサーの言う通りじゃ。わし以外の誰もが開けられない金庫を作って欲しい」

「御意・・・・」

賢者達は考えた。

ある天才数学者は、連続的な解答不能の問いを繰り返す迷路を考え始め
ある天才地質学者は、世界中で一番地質の安定した場所を探して、巨大な穴を掘り始め
ある天文学者は、ブラックホールの向こう側にある場所をスーパーコンピューター使い計算し始め
ある心理学者は、万人の心の奥底にある「欲望」という名の「空洞」を世界で一番深いマリアナ海溝の底まで捜しに行き
ある物理学者は、素子の「ささやき」と我々の宇宙の果てにある「時間のねじれ」の違いを考え始めた

ある医学者は、完璧な金庫を開ける権利のある王様のための不老不死の薬を研究した

そして1週間後の賢者の会議で、議長が言った

「賢者達よ、君たちの結論は出たか?」

賢者全員が大笑いをした。

「議長! 私達の求めているのは{真理}なのです。それが1週間で見つかるわけがありません!」と物理学者と医学者が言った。他の賢者達がうなづいた。

「賢者達よ、それなら、どのくらいの時間が必要なのだ?」

一番賢者のアーサーが代表して議長に答えた。

「私達にもわかりません。しかし賢者は賢者なりのベストを尽くし、年老いた{王様の生きているうち}に解を見つけるべく鋭意努力します。」

議長が言った。

「賢者達よ。汝等のベストを尽くすが良い。王様は待っておられる。」

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で、賢者達は何を見つけ何を思ったんだろう???  

メモ:
新展開(その2へ進む)

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「で、この話の教訓は?」と彼女は言った。
「何にもないさ、だたそれだけの話さ」と僕。
「えっ?そんなことないでしょう?世界中の賢者達が一所懸命考えたんでしょう?」
「そうさ、そうだよ。でも賢者達は解を見けられなかったんだ。」
「じゃあ、王様は{絶対に開けられない金庫}は得られなかったってこと?」
「そうだよ。でも、彼は意外なことにすごく身近に見つけたんだ、{絶対に開けられない金庫の鍵}を」
「そうか、そうなのね。絶対に開けられない金庫は、出来たのね!」

「違うさ、{絶対に開けられない金庫}なんて、初めから世の中に存在しないのさ。でも、王様はそれを判っていて賢者に命令したのさ。そして、彼(王様)はその鍵を見つけたのさ。」

「わからないわ、あなたの寓話は。起承転結の結が見えないわ、私には」

「鍵は開けるためにあるんだ。開けられない金庫は存在したとしたら、その金庫には鍵はないだろ。それ自体自己矛盾なんだ。そんなことはアステカのピラミッドにも書いてある。つまり{真理}なわけだ。」

「だとすれば、王様のその問い自体が意味のないことじゃない」

「もちろん、王様はわかっていたさ。その問いの意味のないことに。でも彼の素晴らしさは、その問いかけをすることで、王国のすべての人が幸せになることをわかっていたことなんだ。」

梅干し大好き!

梅干しで「パブロフの犬」にならない日本人はいないだろう。梅干しを見たり、匂いを嗅いだりするだけで、唾液がどっと出る。僕なんかこの文章を書くだけで(想像するだけで)唾液が出る。この強制的にどっと唾液が出る状態が、食欲のきっかけになる。ある意味単純で分かりやすいなのだ、人間の身体は。つまり梅干しは全然食欲がなくても、少しずつ食べられるようになる魔法、ということになる。

さてここ数ヶ月、この美しく光るお粥と梅干しの偉大さを再認識してる。もともとお粥は好きで、関西に出張した時には必ず朝粥をお願いするくらいだったけれど、最近はさらに好きになった。ふわっと優しく、柔らかで温かいお粥を食べられる幸せ。そして優しい気持ちになる。単なる「梅干し入りのPorridge」とは全然別の意味がある。欧米人のチキンスープ信仰とも異なっているし。おお、考えてみれば中国、韓国も同じかも。梅干しは日本オリジナルなのか?いずれにしろ日本人にとっては、食欲が進む組み合せ。梅干し>唾液が出てきて>反射>勘違い食欲が出る…という鉄板理論だ。

万能薬としての梅干しの子供の頃からのイメージが大きい。昔は必要以上に効能を強調されてたのは事実だ。いわく、梅干しがあればご飯が悪くならない(腐敗が予防できる)とか、クエン酸の酸っぱさは疲労回復の切り札だ、みたいなことは普通にいわれてたし。つまり、健康食品のシンボルとしての「期待値」が、他のものとはダントツに違う(んだろう)。

安心感
信頼感
潔さ
日本特有の
Get well soon!の祈りなんだと思う。

ここに来て、基本に還ってるというか、梅干し&お粥大好き。

March 19, 2013

大きな同心円環の縁

ご縁がご縁を繋ぐ
これすなわちご縁なり
(大きな同心円環になるはずだ)

人との出会いは、もちろんリアルなものから、最近のバーチャルなものまで様々だ。

テクノロジーが進化し、情報量が飛躍的に増えたことから、その入り口と間口は、たしかに広く深くなった気がする。しかし、人間の本質が変わるわけではなく「付き合える」人たちだってそんなに変えられるものではない。

要は「自分の見せ方」なのだと思う。以前どこかで書いたように、ネット上の僕のイメージはTシャツ短パン姿くらいが、自分らしくて適当だけど、中にはきっちりスーツを着ている人もいるだろうし、殆どスッポンポンの人もいるかもしれない。そこでは、みんな自由にしているとはいえ、そのまま素っ裸で路上に飛び出す人が(普通は)いないように、通常の生活と同様のモラルが保たれている。

そしてそのルールとモラル(と雰囲気、かな?)は、そこにいるネット市民(おお!ちょっと懐かしい響き!)次第なのだと思う。偉ぶるわけでなくて。

さて、FBの世界になってから、新しいご縁が広がった例は、最近枚挙にいとまがない。
今までとは人と人も繋がり方と広がり方が、明らかに変わった。以前では考えられなかった新たな繋がりを発見(あるいは再発見)したことも多い。

最近では、昨年来、幼稚園から現在までの出会いや繋がりの発見がしばしばあった。それも別のご縁で何回も。袖合う仲も多少の縁と云っていた「何か」が、突然「形」になったりする不思議もあった。今までなら諦めていた出会いの可能性とか。「奇遇」とか「特別な繋がり」不思議な出会いって本当にあるものだ。

でも、このご縁、今まで僕が気がつかなかっただけで、実は至る所にあるものなのかもしれない。FB等の今の世の中で、ちょっと以前より良く見えてきただけで、本質は変わっていないのだろう。当たり前だけど。神様仏様はすべて「わかって」るんだろうな…(笑)

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他方、リアルな繋がりサービスも再認識してる。
半年前の講演会の時、さとなおくんが
「カリフォルニアでマークさんがお世話になったドクターってこの人?」って教えてくれたことがある。ワイナー先生だった。これにはびっくりした。20年以上連絡が取れなかったアメリカ人の恩師の連絡先が見つかったのだ。これはいわゆるホワイトページのウェブ版、日本ではNTTとかマピオンなのですね。さらに、名前だけで住んでいる場所、家族構成 分かってしまう(情報開示していれば)。これにはビックリした。というか、考えてみれば昔からアメリカは電話帳ビジネス先進国で基本情報としての電話番号は情報統制されてたってことです。日本では、個人情報云々でセンシティブになっているけれど、逆にアメリカでは、オープンにする所とクローズドにする所は明確なんだろう。

以下、メモとして

http://www.whitepages.com/
いわゆる電話帳
http://www.mapion.co.jp/
いろいろありそう

March 18, 2013

無遅刻無欠席

次女は中学3年間、高校3年間の6年間無遅刻無欠席
三女は小学校6年間、中高6年間、通算12年間の皆勤  

素晴らしいことだと思う。そして彼らを誇りに思う。

入学から卒業、学校の成績どうだったとか、資格を取得したとか以上に、大切なことを学んでくれたと思う。これは、彼女ら自身、この先もずっと誇れることだ。

皆勤することは、一朝一夕で達成できることではない。途中で途切れたり、嫌になってしまったらそれでお終い、それまでの努力は水泡に化す。毎日の生活(つまり人生)は、いい時も悪い時もある。多少体調が悪くても、機嫌や気分が悪くても、とにかく学生の本分である学校に顔を出すこと。ツマラナイなあ、辛いなあと考えつつも、とにかく肯定的に捉えて動く。これを毎日毎日継続することは、楽なことではない。これを続けた達成感は、新しい未来へ続くだろう。

この体験は素晴らしいと思う。多分社会に出てからの糧になる体験になるだろう。これは、本人たちはもちろんのこと、日々の心がけと、健康や栄養管理をしてくれた尚子の力によるところが大きい(僕は何もしていない)。子育てがほぼ終わった今、有り難く懐かしく思い出してる。

因みに僕自身は高校・大学はサボりまくりで、娘たちに面目ない学生だった。偉そうなことは全く言えない(笑)

March 17, 2013

桜の季節に思うこと

正直に言うと、誰でも自分は老醜を晒したくはないと思っている(と思う)。
自分だけは違う、なんでも自分でできるし、まだまだ若いもんには負けないというお年寄りは多い。それはそれで立派なことだと思う。生活が完全でなくてもそれは仕方ないことだ。だから、それをサポートしてあげるのが健全な社会だろう。

桜のように散る美学
眠るような穏やかな最期
美しいうちに死ねる幸せ(とくに女性ならばその思いは強いだろう)
人生の最高潮で死ねるとすれば、ある意味で最高の幸せだろう

患者が一刻一秒でも長く生きていて欲しいというのは、自然な感情だが、実際の生物学的な死は連続性のあるもので、小説やドラマのように「うっ!」と一瞬苦しそうにしてガクッとなる…みたいなものではない。臨終に際して、セレモニーとして死の宣告はするけれど、多くの場合には、まだかなりの数の細胞は生きているし、「はっきり判るような生体反応」が不可逆になったということなのだ。つまり「僕が僕じゃなくなった」というのが現在の医学の定義する「死ぬ」ことなのだ。一般の人には解りづらいかもしれない。

さて、ぴんぴんコロリと死ねれば本望だということ。これはある程度の人生経験を積んだ人ならば解る感覚だろう。しかし実際には一般の人が思っているほど簡単なものではない。昨今の考え方でLiving Willを尊重することが当たり前になってきたが、様々な予想外想定外のことが起きるのが医療の(というか、これは人生の)世界なのだ。現場では、ad libの部分も大きいのだ。だから僕ら医師は、患者の快癒に向けて努力するのはあたりまえとしても、いかにスムーズにタッチダウンするか?ということも、常日頃考えている。けっして落ちかけた飛行機を無理やりパワーを上げて「危機を回避する」なんてことはしない。ある時点からは、let it beがコンセンサスとなる。

長期間の療養生活となった場合、本人も家族も疲弊する。生きて長生きすることがストレスになるというジレンマで苦しむ人もいる。一方で、静かな落ち着いた療養生活を送る人も多い。超長期の療養となった人たち、その家族。「治る」ということや、「癒える」ということは、落ち着くこと。お穏やかな時間を手に入れることで、それがひとつの大切なゴールなのだ。

老年社会、
死をどう捉えるかということは
生をいかに捉えるか
周りが支えてあげる環境
穏やかな看取りの医療
終末期医療

延命することがベストとはいえない(いいきれない)という、これまでタブーとされた事実も、近年はずいぶん見直されるようになってきた。やはりケースバイケース。いかに医療者と家族が患者を中心にコミュニケーションをうまくとれるか?という、アタリマエのことの重要性に気づくわけだけれど。

つまり、一律一概にはいえない。だからこそ医療というのはad libの世界なのだ。
それと、センスというかセンサーの問題。その辺りは日本は「空気を読む」とか「行間の意を汲み取る」文化なので、コンセンサスさえ出来れば変えられると思う。日本の常識が世界の非常識なのに、当たり前だと思っている日本の医療者は今でもまだ多いけれど。(この辺りについては、別稿で書かないといけない)

ということで、今後は、さらに「ちゃんと準備をして安心して死ねる体制」がさらに必要とされるだろう。
それを受け入れる側(本人以外)も含めたケア体制
その一つのソルーションとしての(シンボルしての)エピタフEpitaph

そんなことを考えている春
今年の桜は早いみたいだ

March 16, 2013

渋谷ジオラマ大好き

東急東横線のターミナル大改装。昨夜であの東横線ホームでの昇降は終了となった。以後は新しいターミナルに進化するとのこと。これからさらに渋谷も変わるんだろう。

自分が今まで経験した大きな変化は、やはり東京オリンピック前後か。社会生活すべてが変わったと言っても過言ではない。都電はいつの間にか無くなてしまい、バスにかわり、さらに田園都市線となった。都市の風景や空気が変わる大きな要素は、その構成物の動いているスピードなのかもしれない。テレビジョン文化、大量消費文化。

昔から新宿はダサくて田舎臭い街だった。もともと猥雑な宿場町の空気が今に至るまで続いている。つまり余所者の街であり、我々は逆に中に入れない。そういうパワーがあるのだ。渋谷は新宿とはちょっと違ってた。とはいっても、ダウンタウン渋谷(いわゆる渋谷の街、センター街とか)は、もともとはおしゃれとは程遠く、おっさんたちの飲み屋街&色街だった。これは「Time Frame」の歌詞の通り。まあ特に用事がなければ足を踏み入れない場所だった。東急本店、東急文化会館(映画、演劇たしかケロヨンとか演ってた)、プラネタリウムぐらいだろうか。戦後日本の娯楽の王道を身近に感じつつ僕らは育ったことになる。

画像は渋谷駅周辺のジオラマ 1964年(東京オリンピック)
向谷実さん監修 制作者(プロデュース)
2013-3-24 制作者の富澤瑞夫さんより連絡をいただきました。
制作されたのは、富澤さんでした。訂正しお詫びいたします。
富沢 瑞夫

http://homepage2.nifty.com/mtomisan/page046.html#brari
自分では作る能力も自信もないけれど、ジオラマって大好き。


青山、表参道、原宿辺りは当時からおしゃれで、子供を寄せ付けない気取ったことろがあった。親戚のアメリカ人一家が表参道に住んでいて(青山周辺はアメリカ軍属が多く住んでいた)あの雰囲気は好きだったけれど、やはり「余所行き」「気取った感じ」があった。僕の知っている表参道は静かで夕方になるとガキたちが缶蹴りで遊べたのどかな時代なのだ。

僕らが歩き回るようになるのは、高校生以降で、そのころから原宿・表参道独特の雰囲気があった。渋谷のパルコのオープンがひとつのキッカケっだと思う。ぼくらの高校生のころの行先は、やはり公園通りから代々木公園、そして大学生となり表参道、青山通りへと向かう。

1975年以降の変化はいうまでもない。高度成長期と相俟って、街自体が随分変わった。渋谷は懐かしい&甘酸っぱい思い出が詰まってる(これは同年代の男も女も、一緒だろう)
大感激のコンテンツを発見した。というか以前発見していたけれど失念していた。

http://homepage2.nifty.com/mtomisan/page046.html#brari
1960年代のコンテンツ
http://homepage2.nifty.com/mtomisan/
作者は少しだけ上の世代の方か?

March 15, 2013

善の力を信じよう!心新たに、今。

Learn by doing.
善の力を信じよう
http://learnbydoing.jp/2013/03/15/believeingood/

助けあいジャパン代表 の野田佑機さんのブログ


March 14, 2013

Epitaphについての考察(再)オリジナル 2008-7


墓碑Epitaphについての考察

墓碑Epitaphは、人が亡くなった時に、家族か友人が故人を偲んで書き記すものだ。古代の墓から出土したものにその時代の為政者の業績を記す墓碑があるように、古来から人間の営みのひとつとして自然なことだったんだろう。もちろん近代になって現代の形式の墓地のシステムが出来上がると、一般人であっても墓碑を作ることが可能になった。これは故人のためというより、主には遺された者たちのためのものであり、オフィシャルな(対社会的な意味での)グリーフGrief行為ともいえる。

以前、「物理的メモリーの中の人生」という文章をここにも書いた。
http://sandgem.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

生まれてから死ぬまでの「人生」の記憶を、文章や画像や動画や音声のメモリーとして残したとしたら、これを誰がどう使うか?ということについて考察すると・・・っていうことだ。

前のログではSF的な短編ストーリーが浮かんだ訳だけど、以前から僕は「墓碑」として使えるんじゃないかと思っていた。「故人に関する遺された者からの言葉」を石に刻んだものだとすれば、僕の考えているものは、そのイメージから離れていて、適切なタームがない。「墓碑」とか「墓地」とか、どうしてもネガティブなイメージ。ま、ネガティブと言い切れないまでも、少なくとも明るいイメージではないし。

適切なタームを見つけなくては。

ITの進歩に伴い、物理メモリーの個人情報は飛躍的に増え続けている。たとえば、ブログはそもそも書いている本人のためでもあるけど、これはやはり社会にオープンな情報であるから、従来の日記とは違う。人の目を意識したものにならざる得ない。つまり人生の中で出会ってきた体験は、脳の中の記憶に記録されるけど(記憶)、そこにはある種の「フィルター」を通ったものだけが残される。人は都合の悪い記憶より都合のいい記憶のほうが優位に記録されるプログラムがあって、これは基本的な自己防御・生存本能だろう。だから、「物理的メモリーの中の人生」では、「消せない記録」と「消えない記憶」の葛藤がプロットになっているわけだ。

では「未来の墓碑」を作るとすればどんなものになるのだろう?

墓碑は、その人の人生の最高のサマリーであるべきだ。アーカイブのようなものも必要だろう。遺された家族や友人達にとって使いやすい機能があることが必要だし、不特定多数の人たちからのアクササビリティも担保されなくてはならないだろう。インターネット上で、世界中の人たちの「共同墓地」がある、というイメージ。

「最後の授業」のランディ・パウシェ教授が7月25日に膵臓がんの合併症で亡くなったそうだ。彼にとってあの授業は立派な「墓碑」となった、と思う。

物理的メモリーの中の人生:原稿(2008-3)

http://sandgem.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html
http://sandgem.blogspot.jp/2008/07/blog-post_29.html

再掲載 未校正

MARCH 10, 2008


物理的メモリーの中の人生

おぎゃーと生まれたときから、親が画像をビデオを撮影していて、その人の人生で起こった出来事を克明に記録していたとする。毎日データベースを画像や動画や音声やテクストとして残してゆく。実際出来るかどうかは別問題だけど、テクニカルには今の技術を持ってすればで十分可能だ。今後ITがさらに進めば、ごく自然に無理なく記録できるようになるだろう。その子供達が育って、自分で記録が出来るようになり、今度は親から引き継いで毎日毎日自分の経験したこと、学んだこと、感動したこと、楽しかったこと、哀しかったこと、怒ったこと・・・等々を記録する、とする。小児期・思春期(冬)>青年期(春)>中壮年期(夏)>老年期(そして秋)・・・。死ぬまで毎日毎日。60秒・24時間・365日。つまり、自分の人生を「物理的メモリー」の中に記録するのだ。その時代の人達にはどんなドラマがあるんだろう?・・・というのが今日の空想&妄想。ジムで泳いだ後、サウナに入っているときに閃いた。

プロット1:
男と女が出会って恋愛関係になった。結婚を考えた二人は、お互いのことをもっと知りたくて、それぞれの今まで歩んできた人生の「物理的メモリー」を開けるための「暗証番号」を交換する。そして・・・相手の「一番お気に入りのメモリー」を閲覧した二人は・・・?そのセグメントの中で、ふたりが選んだのは偶然にも「昨日と一昨日のデータ」。唖然とする男と女。喜悲劇&どんでん返しの結末。

プロット2:
どうしても消したい(忘れたい)過去の出来事というのは誰にでもある。とんでもなく恥ずかしい体験や、涙さえ出ないくらい哀しい出来事etc. しかし、そのデータベースは国家が管理していて、自分の一存では改変できないことになっている。犯罪者のその男には、どうしても消し去らなくてはいけないメモリーがあった。その男の消したい過去とは?そしてその顛末は?

プロット3:
死を前にしたその女にとって、自分の人生の「楽しかった場面」を繰り返し眺めるのが唯一の楽しみだった。しかし、そのプログラムには「ある仕掛け」があった。最後の場面に女が観たものは?

プロット4:
それぞれが持っている「人生記録メモリー」を希望通り変更するプログラムを基にしたビジネスを発明した企業があった。しかし、その企業にとって最大の問題は・・・?対象とする顧客のプロファイル。究極のビジネスモデルの行く末は??

プロット5:
生年月日の同じ二人の男がいた。大金持ちなのに孤独で不幸せな男と、ホームレスだけど酔い友達に囲まれて幸せな男。「メモリー」の暗証番号が酷似していて、たまたまその二人が同時にアクセスしてしまった。コンピュータのバグが数億万分の一の偶然を起こした。二人の人生の分岐点にあった共通のメモリーとは?

プロット6:
美しく生まれた女。小さい頃から可愛い、美しいとチヤホヤされて育った。今はトップモデルとして世界中を飛び回る。しかし、彼女にはどうしても消してしまいたい「あるメモリー」があった。そのメモリーとは?そして彼女は・・・。



エンディング・ノート

来月で1年経つ。本当に時の経つのは早い。ずーっと懸案だったエンディグ・ノートをまた書き始めてる(当分は非公開予定)。

様々なことが解ったつもりでも、全然わかっていなかったことが判ったり、日常生活のふとしたことで様々な気づきがあって、小さな幸せがいかに大切か涙を流したり(本当です、ボクらしくないけど)。一言で言えば生きていることにセンシティブになってる。

昨年秋のパーシモンホールでの講演会ではボクの伝えたいことのほとんどは伝えられたと思う。でも時間が経過したことと、今後の新しい治療の方向性も出てきたこともあって、正直に言うと「心がわさわさした」のだ。もっとはっきり言えば「長生きしたい」というスケベ心が出てきたのだ。

そういう感情もカミングアウトしてみれば、また安寧な心境になれる。つまり人の心というものは一旦覚悟を決めたとはいえ、死ぬ瞬間まで揺れるものなのだ。

ちょっと恥ずかしくて、みっともないけれど、それも自分。この心境を記録として残しておくべきだと思った。死を前にした心情なんて、その時になってみないと誰にもわからない。偉い坊さんだろうが、聖職者だろうが、哲学者だろうが、極悪人だろうがみんなチャンスは同じだ。どんな人も必ず死ぬのだ。

医師としてのクールな見方や考え方。数年前からエンディング・ノートが流行ってるとの記事をみた。自分はどうせそんなに遠くない未来にそこに往くので、まだもう少し先でいいやと思っていてけれど、人生50年過ぎたら、エンディングを見つめるツールは持っていたほうがいいかも知れない。今更だけれど、どの人の人生でも時間は有限で、後戻りはできない。天邪鬼なので市販のものを使う気がしないけど。それから、自分が悲劇の主人公の闘病記も書く気はない。

ということで、ブログと別枠で少しずつエンディング・ノートを書き始めてます。

それから、以前から懸案のEpitaph(墓碑)プロジェクトも、今こそ進めるべきだと考えてます。(コレは業務連絡ね>笑)

March 13, 2013

バカボンパパの不思議

Wikiによると天才バカボンのヒットは1967年だ。
たしかに当時はアタリマエだったステテコ、腹巻、鉢巻、雪駄なんて人、今はいない。

ダボシャツ姿
れれれのおじさんはじめ、基本的にみんな着物だもんなあ…。
パパはステテコ姿(当時のいっぱんの職人の制服みたいなもんだろう)

着流し
ステテコ・雪駄。
鉢巻
バカボン(本来であれば主役)も浴衣

たしかに僕らの世代の親たちは、仕事から帰ってきてリラックする時は半々くらいで着物(浴衣)だった。

うなぎ犬、レレレおじさん、は明らかに昭和ギャグ。
ピストルお巡りさん。あの当時は笑っていられたが、今なら大量殺人だ。
そんなこと起こるわけ無いって信じていた時代。

みんな消えてしまった時代の風景。
白黒なんだけれど、あの明らかに極彩色の明るさはなんだろう!

みんなでわははと笑っていられる 余裕?安心感?
これがあの時代だとおもう。
お役人もお偉いさんも学者も医者も先生はみんな偉かった。
そして偉い人をレスペクトしていた。

それでいて、僕らより10年上の全共闘世代にも圧倒的支持を得ていた。反動的かもしれないけれど、漫画には解放区的な自由さがあった。あのくだらなさ、ナンセンス、わざとらしさは確信犯的とさえ思うけれど、大人も子供もわははと笑える共通項の優しさ(というか安心感か?)があった。

明らかにその後の「個人的な体験としての笑い」とは違う「共通体験」としての笑いだと思う。

だから、これでいいのだ。

March 12, 2013

繊細バカボン

この1970年代の底抜け(脱線ゲーム的)な明るさは、どうだろう。
クレージーキャッツのサラリーマンの軽さとはちょっと違う。
こども(少年たち)の笑いなのだ。
繊細なんだよね。じつは。
天才に見えないのがスゴイ天才なのだ。
ボクはおそまつくんより圧倒的に天才バカボンが好き。

March 9, 2013

2年前のあの夜のこと:

2011-3-11 あの日。僕は午後14時予定の手術が延びて、14時半からになった手術をまさに開始しようとしていた。局所麻酔で中心静脈カテーテルのポートを挿入する手術だ。手術部位を消毒しドレープをして、メスを持ち手術を開始しようとしたその時、どーんっときた。開始していなかったことは本当にラッキーだった。もしも手術が進んでいたら途中で止めるわけにはいかなかった。

どっと来てから、グラグラっと続いた。それまで今まで経験したことのない揺れ。それもかなり長く揺れた。患者さんの安全を確保したことを確認して、まず初期の揺れが収まってから1階に上がった(カテーテルは地下一階でやっていた)。

ふつうの揺れではないことはすぐにわかっていたが、まだどこで何が起こっているのかはわからない。そのうち、院内の各セクションから続々報告が上がってきた。この時点で被害状況をまだ把握できたわけでなかったが、建物の損壊や院内の人たち(入院・外来)、職員のケガや事故もなさそうだ。非常事態として入院患者の搬出はこの時点では必要が無さそうだということで、病室に戻ってもらうことにした。

揺れによるダメージはそれほどのものではなかった。その時点で僕は、正直に言えば「この程度」で良かったなあ、とさえ思っていのだ。それがとんでもない誤りであることを僕らが悟ったのはその後だった。三陸海岸を襲う大津波の映像…その後に報道される映像をみて震撼した。とんでもないことがリアルタイムで起こっている。

その後、さらにどんどん情報が入ってきて未曾有の大災害の被害状況がわかってきた。実はそれでもその時点ではこれほどの事が起こっているとは思っていなかったのだ。信じられなかったし。実態が少しづつ明らかになったのはその夜になってからだ。

その夜は病院に泊まることにした。不思議なことにその夜は救急車が1台も来ない。異様に静かな夜だった。あとで分かってことは、あの夜は大渋滞で車が動かず救急搬送も機能不全だったのだ。また、通勤難民の人たちで道路は歩行者で溢れかえり、大変だったみたいだ。

その夜のことは忘れない。一睡もせずにテレビの報道とネット情報を観ていた。徐々にわかってきた信じられない現実。さらに福島の原発事故。今考えるとあの時点で、現場で震えながら救助をまっていた被災者や必死で頑張っていた人たちもいたことだろう。それを考えると忸怩たる思いがする。医師としてすぐにでも飛んで行きたかったが、初めて被災地(岩手県山田町)に入ったのは5月の連休。被災後1ヶ月で避難所生活がやっと少し落ち着いた時期だった。

あれから2年。早いものだ。

March 8, 2013

やまもりのエスニック

1976年、2ヶ月かけて大学1年の春休みにアメリカ西海岸を旅した。アメリカは初めてで見るもの聞くものが新鮮だった。その後の人生にすごく影響のある旅となった。偶然、紹介してもらったアメリカ人の知人が、LA小児病院に勤めていた。医学生といっても、まだ海のものとも山のものともつかない時期だ。その後、医師になってから外科医の道に進み、さらにアメリカの「その病院」CHLAに留学することになるとは、思ってもいなかった。その後のアメリカやニュージーランドでのキャリアも、元はといえばそこから始まっているわけで、あの春に出会った多くのご縁が、更に更に繋がっていることになる。

さて、本題。
1975年頃のLAは、アジアン・エスニック料理がかなりの勢いで流行っていた。その後の日本食・すしブームの少し前か。その後かなり淘汰されたけど、あの当時は今以上にタイ料理屋さんがあった。ニョクナムの香り。僕もガパオにハマった。あの爽やかな辛さが癖になる。特に僕が好きだったのは、mint. chili, pork over rice「ミント、唐辛子の豚肉炒め」これに目玉焼きをつけて、途中で卵を潰して混ぜて食べると美味しい。ああ、懐かしい。

前フリが長くなった(笑)

先日「タイ・グリーンカレー」のレトルトを頂いた。見てみると三重県の日本企業「ヤマモリ」の製品。日本の技術でタイに工場を作って逆輸入して売っているみたいだ。醤油の会社として有名らしい。

さて、開封

ほほう、ほほほ~。
これは本場の味。
ドメスティックなものとは
明らかに違う。

はふ、はふ、はふ
かなり辛い。
箱に書いてあったけれど、
想像通り。
しっかりと汗をかいた。

ココナッツミルクの味がイマイチ好きじゃないのが、残念。
次はガパオ・ご飯をトライしてみよう。

March 7, 2013

フィレ・オ・フィッシュにはぶっ飛んだ

マックのフィレ・オ・フィッシュを初めて食べた時は衝撃だった。1970年ころだと思う。あのバンズの柔らかさと、タラの白身のフライ、チーズとタルタル・ソースのバランス。今までにない味と食感だった。

大好物ってわけではないんだけれど、今でもたまにどうしようもなく食べたくなる。2−3ヶ月に一度かな。

でも、これってスゴイことだと思う。世界中のオジサンたちが(オジサンとは限らないよな。女子供にもファンは居るだろう>笑)お、フィレ・オ・フィッシュを食べたい!って思うんだから。

エネルギーたんぱく質脂質炭水化物食塩相当量
356(kcal)13.7(g)14.7(g)42.3(g)1.7(g)

モスバーガーやフレッシュネスバーガーなどのチェーン店も頑張っているれど(たまに食べると満足高い)、フィレ・オ・フィッシュ、というかマックの凄さは、世界中どこに行っても「基本的に」同じことだろう。文化的背景が様々に違う世界中の人たちが、同じフィレ・オ・フィッシュを食べているのは驚異的なことだと思う。他にこんな例はないんじゃないか?ちなみに、金曜日に肉を食べないカトリック教徒むけの商品として1963年に発売されたそうな。Wikiを読んでいたら色んなエピソードが面白かった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89

March 6, 2013

凹み気味でしたが大丈夫

元気そうに見えるらしい。

実際に調子がいい時には、ばくばく食べられるし、睡眠も摂れる。一般の人にはっきりと分かるような麻痺や神経症状はないので、どこが病気なのか解らない。頭に手術の跡があるだけだ。寝込んでいる訳でもないし、痛みや不快な症状でのたうち回っているわけでもない。外出は短時間ならどこにでも行けるし、食い気満載でブログもくだらない事ばかり(笑)書く余裕はありそうだ…。つまり実際、相当元気そうに見えるらしい。

でも実際には結構凹む日もある。入院が長くなり、精神的な疲れが出ているのかもしれない。常にはなく、ふっと気がつくと、心に何かが澱のようにある。正直に告白するとカラ元気なのだ。

最近、ふと立ち止まった時に感じる
何となく落ち着かない心の奥には、
 自分はここで、こんなに元気に笑っていていいのだろうか?
 もっと辛そうにしてないと申し訳ないのではないか?
そんな屈折したネガティブな感情が
隠れている気がする。

家族に対して、同僚・友人に対して胸が苦しくなるような、
なんとも言えない「申し訳ない気持ち」になるのだ。
逆説的でヘンな話だけれど、身体の調子がいいことに、
素直に喜べない自分がいる。

今まであまり意識していなかったけれど、
病床にある人は皆、多かれ少なかれ
こういう心境があるのかもしれない。


病人の寂寥感、孤独感
「そこに」「ここに」置き去りにされる寂しさ
別離の苦しさ

影・陰・翳
 眩・輝・明
人生には明の部分と、
 同じくらいの
暗の部分があることにあらためて気づく

つまり限りなく中庸の灰色の世界が
どこまでも続いている


暗く憂鬱な気分になっているのでなない
むしろ、この色のない世界の
ほっとするような
濃淡のグラデーションの
美しさに気づいた

健康で、元気がある時は「笑い飛ばしてしまう」ような些細な事がすごく気になったり、自分が医師として患者さんに向き合っていた時には全然わからなかった事が、今になって見えてきたりしてる。

March 5, 2013

不幸せ探しゲーム

入院してから気づいたこと。

日中の民放テレビの番組(実は殆ど観ない)って、本当にツマラナイ。テレビが面白くなくなってから随分経つけど、ここまで酷いとは思っていなかった。本当にネガティブな「不幸せ探しゲーム」をしてる。それ以外では「お買得情報」か「知って得する知識」番組ばかり。あとはグルメ番組かな。

もっとも夜のゴールデンタイム(と今でも呼ぶのか?)といっても、はっきりいってどうでも良い内容ばかりだもの、テレビ離れが進むのは当然だと思う。観るに耐えるのは一部の民放の番組とNHK、ニュース番組くらい。

それにしても、自分が今いかに不幸せであるかを、話したい人がたくさんいるみたいだ。
過去も現在も(多分将来も)不幸な境遇にあって、たぶんこれからも、いかに不幸せで不遇なのか、人は誰でもいくらでも挙げられる。

良いことより悪いことのほうがウケるし、否定的立場の方が「居心地が良い」ものなのかもしれない。

世の中には自分より「さらに不幸な人」がいて、自分はまだ「まし」であると思ってる。嫌な言葉だけれど、他人の不幸は蜜の味であることは事実なのだ。

日本語に主語がなく、曖昧にすることも大きな理由のひとつだろう。
子供の頃は「幸せなら手を叩こう!」なんて無邪気にお遊戯していたのに、オトナになると不幸せさがしをする傾向がある日本人。本来は自分がいかに幸せか話して、人生に感謝するほうがずっといいと思う。

March 4, 2013

何にでも効く薬は、何も効かない

巷に溢れるいわゆる健康関連商品。まさに玉石混交だ。

栄養ドリンク、滋養強壮剤の類
さまざまな抗癌作用があるとされる食品(薬品ではない)
薬もどきのもの(アトピー関連とか体質改善とか言われる)
膨大なサプリメント
あやしいダイエット食品…etc

基盤にあるのが「科学に対する不信」だろう。
altarnative なものへの期待の大きさ

僕らの子供の頃には、まだ普通にあった仁丹(じんたん)。これは「口中清涼剤」として今でもある! http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%81%E4%B8%B9
その昔(戦前)には大人気の「どんな病気にも効く万能薬」として一世を風靡した。

そんなに「素晴らしい効果」のあるものならば、世界中の人類のためにあるべきだろう。

特別なルートでは入手できない貴重なものとか、ありえないような希少で高価のものの場合には、まず100%ニセものといえる。
アリエナイ 胡散臭さ

誰にでも効果のある素晴らしい薬は
まったく効果のないものである可能性が高い

現時点では僕はやはりサイエンスとしての医学を信じたいと思う。

March 3, 2013

栄養ドリンクの不思議

「アリ☓ミンC」とか「ユン☓ル」とか。小さな瓶に入っていて、いわゆる滋養強壮剤といわれる。あれはどういう意味なんだろう。意味不明。

科学的なエヴィデンスはないのに、これほど日本社会で認知されているのは、それなりの理由があるはずなんだけど。たぶん日本独自の歴史があるんだと思う。日本の高度成長期身体に鞭打って「頑張る」象徴だった。あの小さなボトルにも怪しい秘密がありそうだ。

おじさん達のためのいわゆるドリンク剤。あれも特有。これは毒蛇とかすっぽんとかと同じ考え方なのか。先日すっぽんは頂いた(今のところ変化なし:笑)
商業的には、物凄い市場なんだろう。
日本以外に他の例はあるのか、調べてみよう。

March 1, 2013

びんびんですが、何か?

今日、八沢川のご主人が持ってきてくれた「すっぽん」の生き血。

フレッシュで貴重なものだ。キンキンに冷やしているからか、目を閉じて飲めば色も味も全然わからない、普通のグレープジュースと同じ感じ。僕の身体を心配してくれる、お店の人たちの気持ちが嬉しい。有り難く頂きます。

ご主人曰く、一気に全部飲むと「精がつきすぎる!」ので、2−3回に分けて飲まないといけないそうな。どうなっちまうんだ?超人ハルクみたいになっちゃうのか?
なわけない。

ということで、えいっつ、と飲み込んだ。実は爬虫類苦手なのだ(笑)。
今のところ目立った「変化」はありません(笑)。

万世麺店からの返事


先日、40年来の大ファンである万世麺店の、①味が最近落ちたこと、②ザージャ・パーコー麺を復活して欲しいことなど、本部宛に要望のメールを出した。パーコー麺を愛するが故のクレーム。

以下は、万世麺店からの返事:

 拝啓 平素は肉の万世に各別のご愛顧を賜りまして誠に有難う
ございます。
この度、お寄せいただきましたメールを大変有難く、懐かしく拝見させて
いただきました。
赤坂山王ビルB1にて営業させていただいておりました時は、日比谷高校の
皆様には大変ご贔屓いただき有難うございました。
この度の貴重なご意見は、弊社関係者に申し伝え、今後尚一層の品質管理に
努めて参る所存でございます。また、肉味噌排骨ラーメンにつきましては
今後のメニュー開発の参考にさせていただく所存でございます。
私ごとでございますが、赤坂麺店で働いていた時分を思い出しております。

XX様のご健勝とご多幸をお祈り申し上げます     敬具

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僕からのお礼と返信
 
早速の返信ありがとうございました。
赤坂山王ビルの万世麺店、懐かしいですね。あの頃の麺はユニークで、コシのある白い太麺でした。あの頃は茹でた後、一旦水でヌメリを取ってから再度温める、という手間のかかる方法だったかと思います。あの麺の待望論は我々の間には根強くあります。他店との差別化を図る上で如何でしょうか。我々の世代は、多少高くなっても満足度のあるものであれば喜んでお金を払うと思います。
いろいろと勝手な意見を、失礼しました。
皆様のさらなるご発展を祈念しております。
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復活を待つ!