自分だけは違う、なんでも自分でできるし、まだまだ若いもんには負けないというお年寄りは多い。それはそれで立派なことだと思う。生活が完全でなくてもそれは仕方ないことだ。だから、それをサポートしてあげるのが健全な社会だろう。
桜のように散る美学
眠るような穏やかな最期
美しいうちに死ねる幸せ(とくに女性ならばその思いは強いだろう)
人生の最高潮で死ねるとすれば、ある意味で最高の幸せだろう
さて、ぴんぴんコロリと死ねれば本望だということ。これはある程度の人生経験を積んだ人ならば解る感覚だろう。しかし実際には一般の人が思っているほど簡単なものではない。昨今の考え方でLiving Willを尊重することが当たり前になってきたが、様々な予想外想定外のことが起きるのが医療の(というか、これは人生の)世界なのだ。現場では、ad libの部分も大きいのだ。だから僕ら医師は、患者の快癒に向けて努力するのはあたりまえとしても、いかにスムーズにタッチダウンするか?ということも、常日頃考えている。けっして落ちかけた飛行機を無理やりパワーを上げて「危機を回避する」なんてことはしない。ある時点からは、let it beがコンセンサスとなる。
老年社会、
死をどう捉えるかということは
生をいかに捉えるか
周りが支えてあげる環境
穏やかな看取りの医療
終末期医療
延命することがベストとはいえない(いいきれない)という、これまでタブーとされた事実も、近年はずいぶん見直されるようになってきた。やはりケースバイケース。いかに医療者と家族が患者を中心にコミュニケーションをうまくとれるか?という、アタリマエのことの重要性に気づくわけだけれど。
それと、センスというかセンサーの問題。その辺りは日本は「空気を読む」とか「行間の意を汲み取る」文化なので、コンセンサスさえ出来れば変えられると思う。日本の常識が世界の非常識なのに、当たり前だと思っている日本の医療者は今でもまだ多いけれど。(この辺りについては、別稿で書かないといけない)
ということで、今後は、さらに「ちゃんと準備をして安心して死ねる体制」がさらに必要とされるだろう。
それを受け入れる側(本人以外)も含めたケア体制
その一つのソルーションとしての(シンボルしての)エピタフEpitaph
そんなことを考えている春
今年の桜は早いみたいだ