May 31, 2011

「エラい人」について:メモランダム

「エラい人」といえば、先日お会いした仙石さんは官房副長官なわけで、序列上では内閣のナンバー3なわけだから文句なしにエラい。ま、でも、ごく普通のおっさんで特に意識する事なく、ふつうに「敬意を払いつつ」お話することができた。これは彼独自のキャラなのかもしれないけれど、たぶんカンさんだったりハトさんだったりしても、あまり僕的には話す内容とか対応は変わらなかったのではないか?と思う。まあ人生の折り返し地点はとうに過ぎ、自分の立ち位置がしっかりと定まったこの歳になると、自分とその「エラい」人と関係性から、だから何なのさ?という「コワいもの知らず」の感じになるのかも。若い頃とは違う。まだまだ世の中には「エラい」人がいるだけど。

「エラい」というのは、一体どういうことなんだろう?

まず、社会的ポジションの高位、という意味。権力を持っているということ。「権力」とは「自分で決められる裁量の大きさ」ともいえる。自分以外の人や社会への「影響力の大きさ」という意味もある。その裏返しとして「責任」も大きくなる。この場合の「エラさ」には、社会的なラダーがあって、スゴくエラい人、次にえらい人、そのつぎにエラい人・・・と続く。つまり、人間関係の中で「相対的な」価値観ということになる。その考え方を進めれば、陰湿なイジメや差別につながる危険な考え方だろうけれど、クールにみればサル山の猿たちと同じで、社会生活を営むためにはそういうヒエラルキーはある意味必要なのかもしれない。

僕は院長という立場で今、小さいながらも組織の長として社会通念上(少しは)「エラい」とされている立場な訳だけれど、しばしば戸惑う。実は全然たいした事はなくて「エラくない」ということが自分でわかっているから。つまり、僕に何か特別な「エラいパワー」が備わっているのではなく、僕を「院長として見なしている」人たちがいて初めて僕は「院長」という立ち位置で仕事できる。つまり社会の中での「役割り分担」でたまたま僕がその「役」を演じることに「周囲がたまたま同意している」というだけのことだ。それは「社長」でも「店長」でも「部長」でも「級長」でも全く同じ。たまたま、「そうなった(させられた)」にすぎないわけだ。

「自分に対する影響力の大きい」という意味もある。
学校の先生は「エラい」か?
年長者というだけで「エラい」か?
僧侶などの聖職者は「エラい」か?

YesでもありNoでもある。

「無条件でレスペクトする(される)」価値があるかどうか?なんてわからないので、儒教的アジア的価値観ではそういう「お約束」になっているということか。

飛び抜けた才能のある人、超人的な努力をして成り上がった人も「エラい」とされる。これはたぶん「その人の代わりがいない度」なんだろう。たとえば、イチローは最高にエラい。彼の飛び抜けた天賦の才能は、彼にしかないものだからには無条件のレスペクトが向けられる。この場合のエラさは、その価値の高さが一般的にはお金で換算できることになっているので、ダントツのお金持ちであることが多い。だけれど、ふつうのお金持ちが「エラい」か?といえば、ホリエモンが「エラい」と見なされないように、多くの場合で「エラい」とは扱われない。もちろんその人に「商売」が関わる場合にはいっぱいモノを買ってくれる「エラい」人という、ちやほや扱いは受けるだろうけれど。「エラい」人と「エラそうな」人は全然ちがうもんね(笑)。賞賛と非難はコインの表裏ということもあるし、やっかみや嫉妬も尊敬と紙一重のところにある。

もちろん本来的な意味で、「偉人」としての「エラい」人というのもある。「素晴らしいことをしている」人、「常人の出来ない事をしている」人、さらには「人のやらないことを黙々としている」人とか。

もう少し考察を続けてみよう。

May 30, 2011

持つべきものは友

高校時代のクラスメートの弁護士T君と打ち合わせ。彼とは定期的に会って意見交換をしている。今回はプライベートと仕事の両方で、モロモロの相談。弁護士の友を持つというのは本当に心強いものだ。この年齢になると皆、様々な世の柵で四苦八苦しているものだけれど、やはり法的なコンサルを気楽にできる友人がいるというのは有り難い。打ち合わせを終わり、五反田の有楽街の風俗街のど真ん中(笑)にある「あのじ風」へ。途中から建築士(某有名設計事務所の役員)のY君も参加して3人でおやじ呑みの会。この3人は高校3年間一緒のクラス。気心が知れている仲間で、それぞれの専門が異なっているので、「へー、そうなんだ!」とか「ほほう、驚いた!」的な、それぞれの業界の話題でお互いインスパイアされる。いろいろと話したけれど、やはり今回の震災に関する「僕らの世代の意識」についての話題が大きかったかな。あとはJusticeの話など。今夜の肴は、鰹、新生姜のかき揚げ、塩もつ煮込み(絶品!)、ホタル烏賊の沖漬け、ジャガイモ煮付け、蛤の酒蒸しなど。肴も美味しかったし、焼酎の種類も多く、さらに安くてよろしい。〆のじゃこ飯&お吸い物も美味しかった。大満足で解散。T君&Y君ありがとう。またインスパイアしあおうね。

May 29, 2011

「やせれば美人」高橋秀実(新潮文庫)


最近ハマっている高橋秀実さんのシリーズ。この本も抱腹絶倒。著者の妻のやせるための様々な努力や日々の出来事を、どう考えても力関係が下のちょっと情けない夫の「そのまんま」目線で書き綴っていく。この夫のイメージに自分を重ねる読者(男)は多いだろうな。僕も、もちろんそうですけれど(笑)。さらに、この人の(ある意味どーでもいいことを一所懸命に)調査する能力というか、緻密に資料を集め整理して分析する労力を惜しまない姿勢が健気(けなげ)でオカシイ。この著者の独自の妙に醒めた視線も小気味いいし、ちょっと自虐的な笑いがそこここに鏤められていて、「ふふふ」とか「うんうん」とか唸りながら2時間で読んでしまった。

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妻の「自分」はスケールが大きいのであった。言い換えると、彼女はデブになることで他の欲望を抑えている。デブになったせいで他の楽しみが何も出来ないと自分に言い聞かせている。ある意味、意に添って太っているわけで、デブでいることが欲望の防波堤の役目を果たしており、それが年々厚みを増しているのであった。ダムに喩えるなら、決壊を恐れてダム堤を増設しているようなものである。
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著者の妻だけでなく様々な女性が出てくるのだけれど、「やっぱり女ってわかんねー」というのがこれを読んだ大多数の男の感想だろうな(笑)。ああ、面白かった。

ドラキュラ・ナイト2011

雨の日曜日。1年ぶりの阿川泰子さんプロデュース「ドラキュラ・ナイト」(銀座BRB)へ。1月のかぜさんのサイトのオフ会のライブ以来、久しぶり。あの後1−2月バタバタしているうちに3月に震災があって、ライブやレコーディングを計画するどころではなく、というかギターを手にする気にさえならずに、もう約半年が過ぎてしまったんだ。でもブランクがあったわりには割とすんなりとライブモードに入れたし、今日はリラックスして楽しんだ。今日は4人のバンドヴァージョン。昨年同様の「ダンシングボーイ」(なんとダンスの先生だそうな!)が場を盛り上げてくれた。俺たちって(ある意味)ロックバンドだったのね(笑)って感じ。今日も20分間のステージで汗びっしょりのパフォーマンス。めでたし・めでたし/

①夏の終わりに
②California Dreaming
③携帯電話のなかった時代
④Downtown Down

今日はちょっと早めに会場を失礼して、大雨の中タクシーで帰宅。夜は家族で「壱語屋」でがっつりと。

May 28, 2011

Public Relationということ

もう梅雨時期。強力な台風2号が北上中。ふううむ、時の流れ。今年もそんな季節になったんだ。震災の被災地や原発の復旧作業に被害が無ければいいけど。

昼頃すぎからHPリニューアルのための院内の写真撮影。僕らは1997年の設立当初からHPを立ち上げていて、当時は病院のHPはあまり多くなかったので日経新聞や日経産業新聞などの新聞、雑誌の取材が入ったくらい。今とは隔世の感がある。事情があってここ数年は僕自身はコンテンツの更新に関わっていなかったけれど、久しぶりHPを見てあまりのデザインの酷さ(というかセンスのなさ)に唖然としてしまい、今回DANの力を借りて完全リニューアルをすることにしたのだ。アメリカの医療機関には独立したPublic Relation(PR)部門があるのを知ったのは1985年。LAのCHLAに就職した時、院内外の寄付チャリティーの仕切りや外部の見学者への対応や定期的なプレスリーリースをしていた。ID用の写真を撮ってくれるのはセキュリティー部門だけれど、それを加工してIDにしたり院内のコミュニケーションボードに提出するのはPR部門の仕事だった。患者サ−ビス、医療関係者サービスだけでなく、施設のブランディングという意味でも、一般の会社ではあたりまえの広報部門が今こそ日本の病院にも必要なんだろう、と思う。アメリカから20年遅れだけれど。

昼ご飯はDanと「自由が丘ブラームス」。午後はジムに寄り、軽く泳いで自宅でまったりしていたら・・・、病院のすぐ近くで火事があったとの連絡がこーめい先生から。幸い大事に至らずほっとした。晩ご飯は家族とBuon Limo(このところハマっている)にて絶品生パスタ。

May 27, 2011

気持ちよく飲んだ@鮨・佐藤

外来>手術>面談>医師会総会とエンドレスでばたばたと小走りに移動した一日。夜は久しぶりに若い同業の仲間(桜井君、染谷君、上妻君)と、たまプラの「鮨佐藤」。ここんちの肴はいつも美味しく納得のクオリティ。佐藤さんのキャラも大切な要素だ。そんなこんなで楽しい連中と気の置けない会話を楽しんでいたら、あっという間に深夜。被災地の話とかいつも23時には爆睡状態なのに今日は夜更かししてしまった。,いい週末。 この週末日曜日は久々に(半年ぶりだ!)ハックル・ライブ@ドラキュラナイト。楽しみ。

May 26, 2011

「ブラック・スワン」


研究日。午前は病棟回診など。午後からいつもの施設在宅往診をしてからセンター南の保育園へ。0歳から5歳までの子供達の保育園での健康診断。かみさんにナースとして手伝ってもらい、二女ゆっつんも見学参加。可愛い盛りの元気一杯の天使達のオーラを貰った。ああ、楽しい楽しい。終了後かみさんは碑文谷のジムへ移動、僕とゆっつんは隣の109シネマで待望の「ブラック・スワン」ナタリー・ポートマン主演(2011アカデミー賞主演女優賞)へ。震災のどさくさでやっと今になって観に行く気になった。

ナタリー・ポートマンの美しさ。本物のバレリーナと見紛うほどのバレーのスキルと身体の美しさ。どうもbody doubleの吹き替えらしいけれど、ここまで美しくCG映像化できればその真偽は全然問題じゃない。ナタリーの気高くて透明感のある美しさは角度によっては若い頃のオードリー・ヘップバーンに似ている。演じているのは役作りのプレッシャーの中で精神を病んでいくプリマドンナの痛々しい姿。決してあの時代のオードリーヘップバーンは演じなかった(演じさせなかった)であろう汚れ役。

解離性人格障害ともいえるし、強迫神経症とパニック障害の混在した形の境界型人格障害ともいえる。母子分離が上手くできずに、性的に抑圧されて育ってきたクリスタルのように繊細な女の子のストーリーだ。ピュアでバレリーナとしてのエリート(でも、すでに様々な心理的葛藤を持っている)新星のプリマドンナが、(そのままの人格とスキルで演じられる)ホワイト・スワンだけでなく、(彼女の知らない精神世界の)ブラックのスワンも踊らなくてはならない、という苦悩。この映画はいわゆるサイコロジカル・スリラーだしホラーでもある。場面の所々に様々な非常に芸の細かい映像的な仕込みがしてあって、その緻密な作り込みにも感嘆した。画面からその「痛い」感じが伝わってくる。性的な描写(ダイレクトでないだけにある意味スゴくエッチだ)やグロテスクだったり暴力的で反社会的な(成熟していない子供達には適切ではない:R15)描写も多いけれど、ある意味この作品の根底には「性的なもの」や「ラディカルなもの」があるわけだから避けては通れない。それを真っ正面から表現した監督と演出の力量だと思う。僕は根っからスケベな人間なので、こういう表現は「正直」な感じがして嫌いじゃない。ストーリーは複層的であるけれど流れはわりと単純で、最初のほうで結末は誰もが想像できるのだけれど、悲劇的なエンディングなのに絶望的ではない・・・という気持ちになる。そこが見事で上手い演出。美しくストイックで痛々しいくらい繊細ですごくセクシーな・・・ナタリーの演技は素晴らしく、まあ今年のアカデミー主演女優賞は順当かと、僭越ながら。

May 25, 2011

「信頼する力」遠藤保仁


信頼する力: ジャパン躍進の真実と課題 (角川oneテーマ21新書)

成毛師匠の推奨する同時多読を指向しているものの、なかなかコンスタントに出来ないものだ。ヤット君こと、サッカー全日本のゲームメーカーMFの遠藤保仁の本。書店でチラ見して今年始めに購入し、時間のある時にチラ読みして本日やっと読了。ヤット君は、クールだけれど堅実なプレイをする人で、サポーターとしては「この選手が生き生きとしていれば日本は大丈夫」みたいな信頼感のある選手。若い頃から「黄金世代」として選ばれていたものの、全日本代表としては不遇な時代も長く、南アフリカ大会でやっと花開いた人。欧米的な「自己主張」をするような派手さはないので、どんな事を書いているのか逆に興味があったし、そもそもが饒舌じゃないだけに何を考えているのかわからなかったけれど、この本を読んで「へーあのときは、こんな事を考えていたのか!」とか「選手たちはこんな感じで闘っていたのか!」とか興味深く読んだ。彼が選手として関わった監督たちの描写も面白かった。僕は世代的に監督目線で読んでしまうんだけれど、チームの力を最大限活かすためにどういう事をするべきかを気付かせてくれるエピソード多数。Numberの記事的な展開ではあるけれど、淡々と語っている分、信頼おける良書だと思う。やっぱり日本サッカーにとって、あの時点では岡田監督を選択したのは正解だったんだな。日本中に夢を見させてくれたあの日本代表の選手たちの軌跡を読めてよかった。ブラジル大会に彼が出られるかどうか、興味ある☆☆☆1/2

May 24, 2011

トラウマの国ニッポンby 高橋秀実


高橋秀実(たかはしひでみね)という作家は「ノンフィクションライター」というカテゴリーに入るらしい。この本は(僕が勝手に心酔している)成毛眞さん(師匠!)のブログの推奨ということで買った「ご先祖様はどちら様」の「ついで」のつもりで買った本だけれど、これが最高に面白い。抱腹絶倒であっという間に読了。まず1961年生まれということで、同世代的同時代な共通の価値観がある。ノンフィクションライターにありがちな卑屈に謙る態度もないし、逆に「俺は知ってるんだ真実を!」的な異様に高飛車な横暴さもないのがいい。ただ淡々とクールに「トラウマな人々」の取材をして描写していく。

「トラウマセラピー」で懸命に自分のトラウマを探す人、「ユーモア学校」に入学して笑い方を学ぶ人、過激な「セックス本」に狂奔する女性、「田舎暮らし」や「資格」に夢中な人……「自分探し」をする人たちの「ヘン」さについて書いてゆく。あとがきで、自分のアイデンティティ・クライシス(自分が何者なのかわからないという漠然とした悩み)を告白していて、それが妙に自虐的でトラウマティックな感じで最後のどんでん返し的に笑えた。養老孟司さんも絶賛の書評。そんなに期待していなかっただけに満足度高し。☆☆☆☆(文庫本としては久しぶりの☆4つ)

当分はこの人の本をフォローするつもり。忙しい日々でも、今年は週にせめて1冊は本を読もうという年初の目論みは、震災騒ぎで脆くも崩れ去り、積ん読の本がデスク周辺に山積みされてる。ここらでちょっとペースを戻すかな。

May 23, 2011

さあて写真に凝ってみるかな



昨日の画像。題して「アヴァンギャルドなオッサン達」。色合いがいいでしょ。僕的には「猫目地蔵」的な絵にしたかったんだけど、単なる酔っぱらいおやじエスニック巣鴨風(どんなんだ?)になった。これからちょっと写真に凝ってみるかな。次回CDのジャケット写真にするか(笑)。これは試作ということで。

May 22, 2011

久しぶりのスタジオ練習@巣鴨

午前中は気持ちのいい天気。のんびりと本を読んだりネットを回遊したり。そうそう、こういう日曜日ってなんだか久しぶりなんだ。菅さんも強迫的に引き蘢って仕事するのではなくて、休まなくちゃ。ってか、側近は休ませなくちゃダメだと思う。そんな精神状態で大切な決断なんて出来る訳無いんだから。さはさりながら。

午後からはるんるんで巣鴨へ。じょうじくんと「とげぬき地蔵」脇の路地にある「いわゆる街の中華屋さん」で昼ご飯を食べてからいつものスタジオの巣鴨White Road Studioへ。スタジオ練習はなんと半年くらいか。やはり311の大震災の影響が大きい。スタジオに入りギターをフックアップしたら、もうアルファ波が出始めて3時間しっかりと楽しんだ。グループとしてのグルーヴも久しぶりとは思えないくらい(というか久しぶりだからこそ、かもしれないけれど)ばっちりと感じられたし、本当に気持ちよかったな。スタジオから持参したSONY NEXで撮影遊び。練習後の「でかんしょ」、続いて「ちゃはな」のエスニックで〆。いい日曜日に感謝しつつ。面白写真多数。もっとバシバシ撮ればいいんだな。ふふふ。

May 21, 2011

助けあいジャパン発足2ヶ月慰労会「仙谷さんと飲む会」


結論から先に書けば、すごく楽しい会合だった。へええ、こういう「新しい公共」ってありなんだ。リアルの話なんだって感動した。世代も立場も全然異なった人たちが集まって、それぞれの持つスキルを発揮してボランティアのプロジェクトを進める。共有するのは「緩やかでしなやかな連帯感」と、敢えて言えば「共感」か。従来の普通の社会レイヤーからはこんな親密な連帯感は生まれないのではないか?政治に対するアレルギーも無く、偏見や堅苦しいイデオロギーのせめぎ合いも無い。世代間の「遠慮」や「上から/下から目線」もない。

未曾有の大震災と空前の被害を前にして僕らは皆、ただ呆然と立ち尽くしていた。そんな中、311の翌日からさとなお君は動きだし、僕らがこんな夢みたいな「何か」を共有して動き出すきっかけを作った。有象無象の情報がどっと押し寄せていたであろう政治権力の中枢で、松井さんや仙石さんのような政治家たちが、こういうしなやかな対応ができたことは賞賛されるべきことだと思う。

仙石さんは、マスコミなどで色々言われていて、会ってお話しするまでは、実はあまりいい印象ではなかった(というか、マスコミは権謀術数に長けた強面の極悪人みたいな扱いだし)のだけれど、実際には腰の低い、気さくでよく話す普通のオッサンだった。まあ、このくらいの器量がなければ政治家は勤まらないんだろうな、とは思うけど。でもあのガードの低さというか隙だらけの感じは意外だった。ただ時折見せる視線の鋭さはさすが政治家のボス的オーラなのかも。気さくなオッサンオーラと政治家オーラが同居しているというか。辻元さんも同じ。バリバリ右翼の僕としては「天敵」みたいな人だし、そもそも以前の政治パーフォーマンス(例の「そーり!、そーーり!!」って鬼のクビとったかのようなヒステリックな質問)が生理的に好きじゃないので、ずいぶん警戒をして(笑)お会いしたけれど、実に気さくな「大阪のおばちゃん」だった。問題のH区長とは「社民党で同期なんよ、Hさんとは!」と。ある意味あっぱれなくらい天真爛漫というか(笑)。ということで、道頓堀あたりを普通に歩いている、ごくふつうの大阪おばちゃんであった(あ、これ褒め言葉のつもり>笑)。松井さんは以前からさとなお君のブログに時々出てきて、魅力的な人だなあと思っていたけれど、想像通りのキャラクターだった。この人は頭のキレもいいし発想の自由度も柔軟性もある。さらに行動力もあって魅力的な政治家。官僚としての実務経験もあるし政治家としての志もある。僕のイメージする「理想的な」政治家かも。この人こそ自民党から出ればいいのに。あと、首相秘書官の羽深さんも素晴らしい人。財務省出身の切れ者の官僚でめちゃめちゃ優秀なエラい人なんだけれど、腰が低くて気さくなオッサン風で、こういう本当に優秀な人たちが(ダメ政治家を蔭に日なたに支え)ひいては日本という国体を支えているんだなあ、と。わりとディープな官邸情報をさらりと(もちろんしっかりと情報管理した上で)場の空気を読みながら出せるのはさすが。

そんなこんなで、僕の立場からもうちょっと政治や行政にコミットしてもいいのかもな?とか考えつつ、ロボットの加藤さんとタクシーで帰路に付いた。実に楽しい夜だった。さとなおさん&しょこらさん&多くの皆さん、有り難うございました!

May 20, 2011

気持ちのいい早朝、気持ち悪くなった夜

この季節、どんどん夜明けが早くなる。気持ちのいい朝。今朝も5時前にすっきり目覚めて、散歩してからテラスでしっかりストレッチ。空気が澄んでいて軽い。通勤前の時間がこれだけあると一日が長い。この1時間の余裕が1年中続けばいいんだけどね。今日はこの季節の「ごく普通の金曜日」を久しぶりに過ごした気がする。

昨夜発見したサイト「東北からの声」 。拙い文章なんだけれど、とても心に響く。FBでシェアしたら拡散していくパワーがある文章だ。素直な心の叫びには、多くの人が共感するだろう。

さらに今日見つけた画像。岩手県山田町の織笠地区の被災前の写真。のどかで美しい土地が一瞬で失われたという事実を突きつけられた感じ。先日帰ってきたこーめい先生と写真を見比べて愕然とした。


夜はネットで明日の下調べなど。

Mさんとは是非お会いしたいと思う。そんな経歴と主張の政治家。Sさんも政治主張は僕とまったく反対とはいえ、それなりの人物であることはわかる。昨今ではSさんは「諸悪の根源」みたいに扱われているけれど、実際にはそれなりの人物なんだろうな。ところが、今回の検索で偶然、Sさんとこの4月に区長になったHさんという政治家との関係を知って唖然とした。H氏については、「この候補者だけは絶対に当選させないようにして下さい!」と自民の選対からも言われたし、「この候補者は我党とは無関係です」と民主からも言われた候補。自民と民主双方の相討ちと震災のごたごたが無かったら絶対に当選しなかったであろう奇天烈な人物。その彼が1970年代の千代田区で問題になったあの「トンでもない中学生」で、それを弁護したのがSさんだったとは!30年以上前のことで、原告が敗訴した(つまり彼らが負けた)事件だけど、千代田区の中学出身の僕としてはなんとなく記憶にある。

日本の品質:メモランダム

【アップルの品質、日本の品質】ということで、成毛眞さんの5-19-2011のブログから、引用の引用。自分用のメモランダム
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孫泰蔵さんのツイート「米国で500ドルのiPhoneの部品や組立コストの国別。1位日本$61、2位ドイツ$30、3位韓国$23、4位米国$11、5位中国$7、その他$48、Appleの粗利は321$。このことの示唆は多い」
 ほとんど知られていないのだが、iPhone4がほかのガラケーやスマフォに比べ、高品質に見える理由は日本の技術だ。じつは筺体(きょうたい)=フレームが大量生産のプレスではなく、1点1点「切り出し」で作られている。いわば手作りなのである。そのためにAppleはFANUCのタッピングマシン「ロボドリル」を5000台以上も買っているのだ。
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May 19, 2011

0歳から100歳まで

朝の回診の後、消防署へ。いつもの産業医活動の一環で先日の震災被災地への医療支援の報告を兼ねたレクチャー。消防署員、救急隊員は当然切実な問題として今回の震災に対する意識が高い。様々なところで話をしているうちに僕もの頭の中も少しずつ整理されてきた気がする。

東日本大震災が、「突然」「人間が抗う事が出来ない強大な規模で」「想定を遥かに越えるスケールで」おこったという事実。そのインパクトの大きさ。広域な複合災害、その後の人災も相まって複雑化長期化する原発事故と放射能汚染。これらの最悪の事態を国民全員が(現在進行形で)共有体験した事。政府や官僚などによる既存の組織によるこの国の「統治能力」の脆弱さ。さらに、K総理を初めとしたきんたまの小さい政治家(と彼らをサポートする組織)の程度の低さと貧弱さ。震災前と震災後で大きく変わるであろう僕ら日本人の意識の根本には、「戦時中の辛苦の時代>戦後の混乱期>日本経済の高度成長期>絶頂期からバブル崩壊>長い景気低迷期」という日本というシステムの制度疲労に対する、「不安感」と「危機感」があった。それがこれを機に「より明白に」なったということだろう。ぶっちゃけた話、もう待ったなしの状況で、このままじゃヤバいと皆が認識した、ということだ。

と同時に、日本という国とそこに住む人々の素晴らしさや、これまで先人たちが苦労して培ってきた国際的な信頼た信用とか、数多くの日本固有のシステムも「まんざら捨てたもんじゃない!」と、別の意味から自信と矜持を持つに至った事も挙げられる。被災者たちは絶望の中にあって泣いて凹んでばかりではなく、涙の出そうになる気持ちをぐっと抑えて、もうしっかり未来に向けて進み出している。そんなこんなで、僕らは新しいスタートラインに立っていることを意識している。

てか、そうでなければ「日本というシステム」に未来はない。

そんなことかな。
じゃ、どうすればって論点が次に来るわけだけれど。

レクチャー後は「ひぶすま屋」でご飯を食べてから、いつもの施設在宅往診。80歳ー100歳の人生の大先輩達の相談に乗る。その後は移動して、たまプラーザの保育施設で0歳児から4歳児までの半年ごとの健康診断。可愛い天使達との出会いを毎回楽しみにしていて、今日もかみさんがナースとして参加した。ふふふ、皆元気で可愛い。僕らもしっかり元気を貰った感じ。子供達は日本の宝だ。彼らのためにも日本をさらにいい国にする必要がある。

今日の午後だけで0歳から100歳まで診察した医者は日本でそんなに居ないと思う(笑)。これも仏縁か。有り難いことだ。夕方はがらがらのプールで20本1000mしっかりと伸びた。てんこ盛りの研究日。

May 18, 2011

諸行無常の「超深宇宙領域」



今夜のNHKでハッブル宇宙望遠鏡のことを紹介していて、見入ってしまった。すごいなあ、天文学。画像はHubble Ultra Deep Field(HUDF):超深宇宙領域。
般若心経を唱えて合掌したくなる画像。
この天文学のスケールの大きさは僕の理解を遥かに越える。だって135億年前のビッグバンの初期の姿を今、僕らが可視できるって事自体が、どうしても理解できない。今後自分なりに勉強しても、体感的に理解できる自信は無い。だって根っからの文科系なんだもんね、自慢じゃないけど(笑)。「観念」や「概念」とか「夢」とか「想像」とか「宗教」とか「哲学」みたいな文科系的な「ふわふわ」したものではなく、科学的に(数学的、物理学的な観点から)論理的に説明しようとする「宇宙物理学」って崇高な学問だと思う。そんなスゴい事を考える(考えようとする)事が出来る人たちを無条件に尊敬してしまう。

この天文学の崇高な理念からいえば、文学とか経済学とか、もちろん医学とかすごく「実利的」で「生臭い」学問みたいな気さえする(笑)。天文学は市井の僕らの生活からすれば「なくても別に困らない」モノなのかもしれないけれど、逆に言えば、市井の僕らの生活そのものが「とるに足らない」モノなわけだ。ましてや個人の日々の生活の様々な悩みとか苦労とか、世の中の有象無象の問題なんて・・・って気持ちになるしね。その学問を勉強し研究し究めていけば、限りなく宗教的な境地に達する事が出来るんだろう。もうトポロジーぐちゃぐちゃ。

May 17, 2011

2011夏休み計画について考えよう

おお、そうだった!
今年の夏の予定についてぜんぜん決めていない事に気がついた・・・というか、すっかり忘れていた。

年が明けて3月くらいまでは漠然と今年の夏のことを考えていたんだ。3月5日のイーグルスのライブ@東京ドームの興奮がすごく遠い昔の事のように思える。去年の夏は、その前の年末に亡くなったオヤジの初盆とか雑事に翻弄されて夏休みどころじゃなかったのだ。ということで、今年も新年が明けて一年の計画を立てるに当たって、夏休み一人旅のを復活させるべく(かみさんの許しも出たし<笑)いろいろと考えてはいたのだ。でも大震災の社会的なごたごたと、疑似PTSD的なワサワサした心理状態ですっかり思考停止していたのだ。

さあて、どうしようかな?そろそろ考えてもバチは当たらないだろう。

諸般の事情を考えるとマックス4泊なので、やはりアジアかなあ・・・。
「台湾再訪で、故宮博物院に浸って街歩きB級グルメ三昧の旅」
「韓国ソウルの街歩き、韓国の田舎にも行ってみたいし、眼鏡作りもしたいし」
「タイ、バンコック。リラックス街歩きとタイ料理三昧。タイマッサージも体験したい」
「南の島のビーチリゾートのプールサイドでなーんにも考えない時間を作る」
「マカオのカジノと裏道探索の旅」
マイレージはニューヨーク往復が十分なくらい貯まっているんだけどなあ。

ふふふ、この妄想の時間が至福。

May 16, 2011

原発リセット



大津波の後の原発事故は多分に人災の要素がある。事故当初はかなり厳しい状況であることは想像できたけれど、僕はわりとポジティブに考えていたのだ。つまり、日本の原発技術は世界トップクラスで、そこにいる専門家(学者、研究者、技術者、東電の職員、保守点検をする人たち...etc)もその道のプロたちで信頼できると。医療の世界のリスクマネージメントの「お手本」とするのは原子力発電所のリスクマネージメントで、リスクマネージメントの専門家が幾重もの対策をとっていて「想定外」のことさえ「想定している」と(今となっては何の根拠もなく、なんだけれど)思い込んでいた。でも、残念ながら・・・。まずは今回の事故を落ち着かせる事が最重要事項。この痛い経験を通して学んだ事を検証して、これを期に一回リセットするべきなんだろうな。

May 15, 2011

ナタリー・ポートマンLOVE


毎年恒例の職場関連の学会@戸田文化会館の一日。レセプションで登壇してから、午前&午後は症例検討会の総合司会。もう21回もやってるんだね、早いものだ。内輪の勉強会ということもあり、気楽にエンジョイしつつ座長&司会を務める。和やかな雰囲気の中でもディープなディスカッションを導く事が出来、満足。15時過ぎに終了してから渋谷へ。
Facebookで教えてもらった映画""No Strings Attached!" ナタリー・ポートマン(。i-phoneで調べて16:20にぎりぎりセーフで入場。日曜日の渋谷の映画館なのにがらがら。この映画、ナタリー・ポートマンの美しさと魅力はもちろんのこと、ストーリーも展開も満足できる映画なのにプロモーションにお金をかけられないんだろうな。アカデミー賞作品の「ブラック・スワン」に目がいっちゃうのは仕方が無いし。その意味じゃ、興行的にはかわいそうな映画。それにしても邦題の「抱きたいカンケイ」はないだろう。東宝のセンスの無さ丸出し。もともとのNo Strings Attachedというのは「しがらみのない男女のゆきずりのセックス」という意味なんだけれど、これはわりとクラシックな響きのする言葉。映画の「でもやっぱり愛している!」という切ない想いを表す意味で「飾り気のないそのまんまのあなたが好き」という暗喩でもある。


まずナタリー・ポートマンが素敵だ。「レオン」のこまっしゃくれた(あんまり可愛くない)少女がこんなに美しい女性に育ったのね。ハーヴァードに進学してユダヤ人としてのアイデンティティを自覚しつつ女優としてのキャリアを高めていく姿勢も素晴らしい。美しい人だ。この映画では恋愛に関してスゴく臆病な、(アメリカだけじゃなくて日本にも少なくない)ちょっとアスペルガー的な性格の女医を演じている。こんな魅力的なセックスフレンド(これも英語的には今までなかった表現だけれど、この映画ではふつうに使われていた)が存在していること自体が(男性の観客にとっては)ファンタジーなんだけれど。ラブコメディ的な役もできるし、どうしようもない酔っぱらいの役もするし、シリアスな「かわいい女」も演じる事が出来る達者な女優。単に美人なだけじゃないのね。それと、2010年現在のアメリカの性モラルっていうのがわかって興味深い。で、この映画には伏線もあって、サマースクールで出会った14歳の男の子と女の子の初体験的ネッキング(死語>笑)が、ストーリーの伏線としてあるわけだ。そしてお互い成人して再会してからのストーリーが進むわけで、ただ単に割り切ったセックスをするだけの関係とはちがう。お互いが「相手を愛したいのに愛せない」というゲーム的なドキドキ感&せつなさ感を表現して、その切なさを観客が疑似体験できるのがいい。もう一つのポイントは、この映画の二人の男女がセックスをすごくあっけらかんとしていて「セックスに溺れていない」のがいい。というか救いになっている。アジア系の映画のようにドロドロだったらこんな素敵なラブストーリーにはならないだろう。だれか社会学的にアメリカの性モラルの一大変換期について、研究論を進める人いないかな(笑)。好きなラヴコメディー映画☆☆☆☆(4つ)。

May 14, 2011

クール・ビズについて

子供の頃、たぶん高校生頃までは漠然とだけれど、自分が大人になったらスーツを着て、カラーのビシッときまったピンストライプの白いシャツを着て、レジメンタルタイを締めて、コードヴァンのウィングチップの靴を履いて、毎日仕事をしているんだろうな、って勝手に考えていた。前にも書いたけれど、銀行員だった亡父の影響もあるんだろう。服装やマナーに厳しかった大学の医学部学生の臨床実習の頃までは、僕も何の疑問もなくそういう格好で白衣を着ていたのだ。医師免許を取得して外科の研修医になった頃から、病院内ではいわゆるケーシーの白衣(死語だ>笑)やスクラブというオペ着が「仕事着」となってしまい、通勤にジャケットやネクタイをする事はなくなった。内科系はネクタイをしていたけれど、外科系は衣服が汚れちゃうし。ニュージーランドでレジストラとして外来をするときや回診で病棟を回る時には(白衣は着ないけれど)タイは締めていた(これはあちらの習慣)し、今の病院を始めた当初はやはり少し気を使ってネクタイはしていたけれど、それは例外的な事だ。10年くらい前からは、ネクタイ&ジャケットはたぶん年に10回くらいなんじゃないか?冠婚葬祭や公的な会合くらいかな。最近じゃ学会でもジーンズ。

ま、どーでもいいことなんだわ、格好なんて。仕事を通して、社会的にある程度の覚悟と自信が出てくると、もう格好なんてどーでもよくなる。世の中見た目で結構判断されるということも事実だけれど、逆にそれが面白くなってくる。そんなこんなで、日常はラフで気楽な格好で通勤し、Tシャツ&スクラブの格好で仕事をしてる。で、今年の電力不足はさらにクールビズだそうな。もうこれ以上ラフにする事は無いけれど(笑)、真夏の暑い時期にはマジにTシャツ&短パンで通勤しちゃうかな。公的な所に出る場合には今年は派手目なアロハにしちまおうか(笑)。まあポロシャツくらいが妥当なんだろうけれど。僕らの世代が本気になって率先しないと若い世代が困ってしまうじゃないか、と思うし。不良オヤジ風のアロハ買いに行こう(笑)。

May 13, 2011

13日の金曜日でBlogspot@Googleお休み

GoogleのBlogspotの不具合で今日13日は完全にシャットダウンだったみたいだ。かなりのシステム障害があったんだろう。ということで、更新できず。13日金曜日。復活したジェイソンの呪いかよ(笑)

午前は忙しい外来、午後からは緊急手術2件、夜は世田谷区病院院長会の総会。過去2年間の会長職の任期を全うして、次の会長に無事引き継ぎを果した/やれやれ。

このブログのGoogleの統計を久しぶりにみていたら、国別ヒット(月間)日本2,312、アメリカ合衆国119、マレーシア32、中国31、イギリス12、イラン7、シンガポール6、エストニア5、香港5、ドイツ4 まあアメリカあたりはわかるとして、マレーシアや中国からのアクセス(えっ?)、イギリスも友人が居るけれど皆日本語読めないもんな・・・どうしてなんだろう?、エストニアに至っては全く思い当たる節なし。サーチエンジンのサーバーがあるのかな。おもしろい!あと面白かったのは、携帯端末やipod,iphone, androidなどのスマートフォンで読んでくれているひとが結構いること。これにも驚いた。

May 12, 2011

今日の作品:オレンジ色LOVEなワタクシ



ちょっと気持ちの悪いタイトル。画像は仕事場オフィスのテーブルの上。先日入手したi-pad2(オレンジの蓋<これしかない!)付。とり回しやすい使い勝手も、快適なパフォーマンスも満足。買った翌日から外来、病棟、往診と自分が動く所に常にスタンバっている。上に乗っているのは休み時間に遊ぶ「ラジコンヘリコプター(室内用)」。素晴らしいジャイロと機動性と操作性。これで無心に遊んでいるとスゴく癒されるのだ。左奥に鎮座しているのが赤外線ラジコンのブルドーザー。みーんな「好き色」のオレンジなのですね。自分がこの色がスゴく好きなのだということを自覚した(カミングアウトした<笑)のは、たぶん2年前かな。それまでは断然ダークブルー(ネイビー)が好きなんだと思い込んでいた。へんなの(爆)。

May 11, 2011

Memorandum: Risk とDanger

今日で大震災から丸2ヶ月が経過したことになる。割と長いようでもあり、あっという間のようでもある。
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memorandum: 内田樹先生(5-7-2011)のブログより

危機には「リスク」と「デインジャー」の二種類がある。
「リスク」というのはコントロールしたり、ヘッジしたり、マネージしたりできる危険のことである。「デインジャー」というのは、そういう手立てが使えない危険のことである。
喩えて言えば、W杯のファイナルを戦っているときに、残り時間1分で、2点のビハインドというのは「リスク」である。
このリスクは監督の采配や、ファンタジックなパスによって回避できる可能性がある。
試合の最中に、ゴジラが襲ってきてスタジアムを踏みつぶすというのは「デインジャー」である。

対処法は「サッカー必勝法」のどこにも書かれていない。
だが、そういう場合でも、四囲の状況を見回して「ここは危ない、あっちへ逃げた方が安全だ」というような判断をできる人間がいる。こういう人はパニックに陥って腰を抜かす人間よりは生き延びる確率が高い

ほんとうに「デインジャーを回避する力が人間には潜在的に備わっている」ということを身を以て証明しなければならない。
だが、私たちの社会は戦後66年間あまりに安全で豊かであったせいで、危険をすべて「リスク」としてしか考察しない習慣が定着してしまった。

今回の原発事故は「デインジャー」である。
「リスク対応」は十分であったと政府と東電と原子力工学者たちは言う。たしかに、その通りなのかも知れない。
だが、「デインジャー対応」という発想は彼らにはなかった。「デインジャー対応」というのは事故前の福島原発を見て、「なんだか厭な感じがする」能力のことである。その「厭な感じ」が消えるように設計変更を行ったり、運転の手順を換えたり、場合によっては操業を停止したりする決断を下せることである。

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今日の午前の外来も「濃かった」。ちょっとヘロヘロ気味で午後から往診1件。都内でも比較的緑の多い世田谷の中でも、このお宅ほど鬱蒼とした緑のあるお庭はめずらしい。先日の被災地医療支援のご報告をしたら、大空襲による東京の焼け野原の話に自然になった。海軍の技術将校であった彼は恵比寿にあった海軍技術研究所でミサイルの研究をしていたそうだ。90歳になっても衰えない好奇心と向上心。この人にボケという言葉は無縁だろう。素晴らしい!病院に戻ってからも救急車の対応やら面談やらでバタバタは続き、そのまま夕方、院内で被災地への医療支援プロジェクトの報告会。まだ自分の中でも纏めきれていない部分があるのが、プレゼンすることでよくわかった。写真を見せながら被災地の状況とプロジェクトについて。そのまま現在進行形で「東京ルール」当直中。今夜はいまのところ静かすぎて不気味なくらい。そんなこんなで、貯め込んだ未読の文献読みやら資料の整理など。最近は若い頃と違い継続的な勉強ができていないので、キャッチアップしないとすぐに「頭が錆びる」(笑)。英文の論文を読むスピードは確実に昔の3倍はかかる(笑)。やれやれ。

May 10, 2011

自分の正しい立ち位置を確立するという事

前回の主張でもある「本質論から離れた知識とか自分を安易に納得させる解釈を求めるのではなく、心を正しい位置に置く」ということをもう少し考察してみたい。

インターネット時代(なんという陳腐な表現だろう!ネットコミュニケーションってのも狭義に響くし)になって、情報の質量ともに激変した事は確かだ。ここでいう激変というのは、世の中にふわりふわりと漂っているような市井の噂話から、超高速で流れる(流される)怒濤のような有象無象の情報。そこには匿名性のある無責任な個人からの情報にはじまり、いわゆる既存のマスコミュニケ−ションの情報まであるし、皆知っている常識的な情報から個人の秘密情報までをも含まれているだろう。一番の問題は、それがあまりにも膨大で「様々な」ために、僕らは豪雨の後に流れる怒濤の川の河原で呆然と立ち尽くしてしまっているみたいな状況なのだ。皆誰でも、例外なく。

そんな状況の現代人に情報リテラシーを高めましょう!という提案に反対する人はいないはずだ。そして、これらは現代に生きるための必須の個人的なcapabilityである。ちょっと逆説的に言えば、従来、情報の大きな発信源だった既存マスコミュニケーション業界の今後の大きな意義として、「膨大な情報のアーカイブ機能」があるだろう。本質論から離れて「安易な解釈」に流されてしまう僕達。ここまでは、まあ誰でも思いつくロジック。

でも・・・だとすれば、昨日の新保教授の論点が秀逸なのは、あえて「自分の心を正しい立ち位置に置くために、超アナログな読書に回帰すること」を推奨していることなんだよな。実際にできるのは、そうだな1000人に1人(確率0.1%)くらいだろうけれど。

なぜ?

僕らは、「正しい(とされる)答え=「正しい(とされる)解釈」」が既にある「問題」を出されることに馴らされて、自分の立ち位置は他人との相対的な位置関係(点数とか順位とか勝敗)からしか知る事が出来ないことに何も疑問を持たずに育ってきたし、学校教育から社会に出るに至って、減点を極力避けいい点数を採る事がいいことだという価値観を強いられてきたから。

だから今、一個人として自由にいくらでも時間をかけて古典やら宗教書や哲学書を呼んで思索を進めていいんだよ!とか言われても力なく「ふふふ」と笑うしかないのだわ。コミュニティセンターに通ったり、大学の公開講座に殺到する団塊世代の人たちの気持ちも理解できる気がする。誰かに「これが正答だよ」と言われないと不安で仕方ない身体になってしまっている。

で、結論としてはこの激動の時代に一番大切な事は、既存の価値観に囚われない自由な発想と行動力のある大人達がどれだけ日本の社会にいるのか?というのが、ポイントとなるのではないか?と、老婆心ながら(つーか、お節介なオヤジ心的に)思ったりして。でもね希望的観測だけれど「いる」と思う。それも「必要にして十分な」数と内容で。

May 9, 2011

震災前後でマジさ加減が変化した:正論

世の中的には超大型連休のGWが終わったらしく(らしく、というのは僕自身はぜんぜんそんな感覚がないので)、ひさしぶりに人出が多い。震災以来の自粛ムードというか自制モードも、この長い休みがリセット期間になって一段落しているのかもしれない。被災地で見聞きしたことが、心の底に澱のように沈殿していて僕的には「まだまだ」low moodではあるけれど、そんな悠長な事は言っていられないくらい今週が予定がぎっしり&てんこ盛り。

今日は一日走り回ってから夜は日赤で会議。そろそろ東京の救急医療体制も次のステップに進むべく、新たなディスカッションを深める時期なんだという認識はメンバー達にある。これは一例としても、日本の震災前・後で、社会の認識というか危機感といういか一般大衆も含めた「マジさ」加減のレベルが上がっている気がする。これは、日本の抜本的な世直しという観点からすればいいことなんだろう。

と昨夜書いたところで緊急コールがあり、夜間に緊急出動し帰宅は26時。
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明けて今日10日付け「産經新聞」(愛読紙)の正論欄「震災で崩れた今日的ババルの塔」、都留文大の新保さんの文章。「マジさ加減について」多くの部分で合点がいく内容が書いてある。以前から僕も駄文に書いているものと基本路線はまったく同じといっていい。

以下メモランダムとして要約:
「様々なる」(軽薄な)知識の洪水(今日的な知)が積み上げられたバベルの塔は、東日本大震災によって「崩れ去る」べきであろう。現代人は情報と解釈の過剰な中に生きていて、逆に事の本質にぶつかることを避けている。本質はざらざらして厳しいからである。「様々なる」解釈の網の目から世界を眺めていた日本人は今回、世界そのものの(自然の?社会系ケイオスの?)過酷な事実とぶつかって立ちすくんでいる。大震災を期に精神的に大きく変らなくてはならないということを、ほとんどの日本人が感じているに違いない。その変化の根底には、本質論から離れた知識とか自分を安易に納得させる解釈を求めるのではなく、「心を正しい位置に置く」ことが必要である。そのためには・・・古典を解説書とか現代語訳を捨て去り、原書を原文で謙虚に読むこともいい。
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最後の一文の・・・以下については「あれっ?そうきたか」という感想(笑)だけれど、まあそれはいいと思う。文芸批評家としての彼の立ち位置としては当然だし、自然な結論なんだろう。相撲取りが謙虚な気持ちで「土俵で勝負」って言うのと同じだから。その上に書いてあることに関しては、まったく同感。つまり「皆マジになろーぜ、そろそろ。今回のことも一つのきっかけだし」って話だ。

May 8, 2011

新しいおもちゃ入手

 いい天気、初夏みたいな気候の日曜日。午前中は原稿書きやらネットを徘徊したりてウダウダとリラックス。昼前に念願のipad2を入手するべく有楽町のBICに向かう。まずは腹ごしらえということで、先日いたく気に入った柚胡椒塩ラーメン「ひょっとこ」@交通会館へ。ところが日曜日って休みなんだね(がっくり①)。昭和の香りがする交通会館ビルを後にして定番の新有楽町ビルの万世麺店へ。ところが、ここんちで高校生以来食べ続けている「肉味噌排骨ラーメン」がなくなっている。えええええっ!、これはショックだ(がっくり②)しかたなくデフォルトの排骨ラーメンを頼むが、これが全然ダメ。麺もスープも今までのパーコーとは違う。どーしちゃったんだろう。経営が変わったんだろうか?(がっくり③)

BICではスンでの所で、ipad2が今日の売り切れ(がっくり④)。仕方ないのでダメもとで銀座のApple Storeへ。ここであっけないくらい簡単にブツを入手した。初めはwifiモデルが欲しかったんだけれど、僕のipadの使い方を考えると3Gがあっても困る事はないのだと考えを変えた。この新しいおもちゃは仕事場で使い倒すつもり。院内の処方システムや画像システムにも応用していきたいし。対応してくれた(たぶん)ハーフのMちゃんというバイリンガルスタッフがてきぱきと気持ちのいい仕事をしてくれたのも好感。満足度アップで、その前のがっくり①ー④は帳消しになった(笑)。美人強し、英語で書いたプロット一編/作成。

帰路ジムにより10本500m。プールが混んでいてペースが乱れてしまい半分で断念した。休日にプールが混むのは仕方ないとしても、レーンに入ったまま泳がずに休んでいる人たちがいて嫌になってしまった。夜はかみさんと二人で一昨日入ってすごく気に入ったBuon Linoを再訪。4種類の温かいチーズのサラダ、雲丹のクリームソースのフィットチーネ、ホタル烏賊と空豆とフレッシュトマトのトルティリオーニ。うまっ♡

さあ、明日からハードなスケジュールが続く。

May 7, 2011

久しぶりの週末なのだ

今日もばたばたと忙しかった。救急入院1件、緊急転送1件、外来以外の診察2件、連携医からの問い合わせや、面談など。ああ、今日って土曜日だったんだって感じ。被災地から帰ってきて、休日明けで、そもそも昨日が月曜日みたいな感じだったし。でも、このばったばたに忙しい日常が僕のルーティンなのだ。ほんの1週間前の山田での体験が遠い昔のことのようだ。山田の人たちはどうしているんだろうか? あのプライバシーのない過酷な状況にあっても、少しでも安楽な時間があって欲しい・・・と切に願う。

ある年配の方からの相談の電話があった。彼女の息子さんと奥さん&その家族(2男1女)は以前から皆家の病院の患者さん。このところ、ずっと会っていなかったのだが、昨年来の家庭内のゴタゴタで離婚>一家離散してしまったらしい。毎年海外にコッテ−ジを借りて遊びに行くくらいに仲睦まじいようにみえたんだけどなあ。他人の家庭のことは判らない。本人達にしかわからないことが他人に判る訳が無い。その方から「「たんぽぽ」聴きました。いい曲ですね、私は大好きでいつも聴いていますのよ」と言われてびっくりした。去年CDが完成した時に、たしかお歳暮のお返しその息子さん&(別れた)奥さんにそういえば一枚渡していたのだった。久しぶりだったので全くわすれていたのだけれど、たぶんそのCDを聴いてくれていたんだと思う。「たんぽぽ」という曲自体もライブで歌っていなかったし、初めは何の事か判らなかったのだけれど、「ああ、ええ、ありがとうございます」と、しどろもどろ状態(笑)。この曲はある現実のストーリーを歌詞に書いたもので「春の嵐」のアンサーソングなのだけれど、その家族にとってたまたま身につまされる内容だったらしく・・・。
長く曲を書いていると、こんなこともあるんだなあ。昼前にその息子さんが来院して久しぶりにお話をした。意外に元気そうでなにより。まあ、モノゴトなるようにしかならないじゃないの、と。

昼ご飯は「八沢川」の鰻重。ここんちの鰻は最近の僕の鰻のデフォルトになっている。109グランベリーモールでKing's Speechを観たかったんだけれど時間的に合わず断念。たまプラーザの本屋さんで小説と雑誌を4冊買ってから、帰路にジムに寄り20本1000m。なんだか久しぶりに思う存分泳いだ感じ。夏までに5kgは最低絞らねば。

あ、なんだか久しぶりの週末。

May 6, 2011

傷つけるつもりが無いだけに、致命的勘違いをしている人たち

震災の被災者の心は明らかに傷ついている。とくに大きな被害を被った人たちは絶望の淵にいる。それは事実。被災地には「心のケアチーム」とか「傾聴ボランティア」とか、精神科医とか臨床心理士などの精神医学のプロだけでなく、アマチュアのグループが数多く入っていて避難所を巡回している。さらに、既存の宗教やら怪しい新興宗教団体の布教活動、さらには政治団体やら、野放しの怪しいNPOなど。

でもね、被災者が皆、単純に他人に「助けてもらいたいと」思っている訳ではない、ってことがなぜ判らないんだろう。否、彼らは十分に判っているんだろう。それにも拘らず、やっちまうんだよなあ。なぜなら「精神的に傷ついた人に対して、自分たちの行為が全面的に善意で、手助けになると信じているから。

ある避難所にて
「こんにちわ」
「ああ、こんにちわ」
「おばあちゃん、ご飯は食べられてる?夜は眠れている?」
「まあ、なんとかね。ありがとね」
「私たちはXXXというボランティアです。きっとお辛いでしょう・・・」
「まあね、ツライよねえ」
「でも、言いたい事をいわないといけないわ。コンナ事やアンナ事がおこってしまうのよ・・・」
「何があったの?辛かったでしょう、私に良かったら話してくれませんか???♡」
泣き出す被災者。。。

あのねえ、傷口に塩を塗り込むようなことは止めて欲しいと思う。やっと立ち直りかけている人を泣かせる事は無いだろう。
本当に必要な人に必要な治療を本当のプロがするべきだと思う。での、この本当のプロっていうのがまた問題で、「勘違いしている」人たちが多くて、その事実を認めたくないんだろう。こういうのを災害医療の世界では「人的二次災害」っていうのだけどね。

May 5, 2011

帰ってきてから考えた事

3日の深夜(4日の未明)に自宅についてから、ずーーとぼうっとしていた。自分の体験した被災地での出来事がどうしても現実感がないというか文章に出来ないのだ。断片的な記憶と溢れてしまう感情を文字にすることが出来ない状態というか。3月の後半に感じた疑似PTSDの再燃みたいな感覚というか。自分なりに一仕事をしたという充実感も達成感もあるんだけれど、腑抜けてしまったような虚脱感が身体を被膜みたいに被っていて、いくらでも眠れる感じ。5日間不在にした病院に顔を出して仕事をしたら、どっと疲れが出て、とても午後から「さくら」のハックル仲間とのパーティに顔を出す気にならない。気分転換と休息を兼ねてジムのサウナ>床屋さんへ。途中、べろべろ状態のメンバーから電話やメールが来たけれど、精神的に引きこもり状態なのでかるくスルー(笑)させてもらった。もっとも皆べろべろで何を話しているのか意味不明なんだもの(笑)。夜はたまプラ「はつ平」へ。

今日は6時過ぎに起きてネットをチェックしていたら、再び睡魔がきたのでベッドに戻り二度寝してしまった。身体的な疲れは大した事が無いけれどそんなこんなで精神的な疲れが出ていて「眠れ!」ということなんだろう。割り切って目覚めるまでぬくぬくと二度寝することにして10時過ぎまで寝てしまった(12時間睡眠<笑)。これでかなりすっきりした。昼ご飯はお土産に買ってきた盛岡「じゃじゃ麺」。午後から写真や資料の整理と原稿書き。やっと少し纏める気になった。書きたい事の1/3位は書く事が出来た気がする。ブログにも一部をアップ。夜はかみさんと二人でたまプラーザのBuon Lino(ブオン・リーノ)へ。住宅街にある評判のあるイタリアン。アンティパストのサラダとカルパッチョ、生パスタ(ペスカトーレ)、メインのチキンの煮込みもすべて満足だった。ドルチェも僕としては珍しくオーダーして美味しくいただいた。これで身体的にも精神的にもしっかりリフレッシュできた感じ。充実のオフ。

TMG医療支援チーム(4/29-5/3) ⑥ :Day 5 最終日

5時過ぎに起床し町の中心部まで散歩。朝早くから警察、自衛隊の人たちが移動している。今回の災害に際して、自衛隊の底力を見せてもらった気がした。感謝感激。自衛隊を暴力装置だとうそぶくような阿呆政治家がいるような政権与党の時代に、この未曾有の大災害が起こり国民生活を守るためには結局彼らの力に頼るしかない事を国民全体が知った事は皮肉なパラドックスなのだけれど。もともと右寄りで自衛隊好きな僕としては溜飲を下げた気分ではある。本当に彼らは黙々と人のいやがるような仕事を率先してやり続けている。下の画像は「憧れの自衛隊」と写真を撮りたいのに声をかけられないシャイな僕(笑)のために声をかけてくれた大越君に感謝”!の写真。山田北小学校にて。


午前中は山田北小学校で後発隊への申し送りを兼ねての巡回診療。県立病院のベースに戻り院長はじめスタッフと別れのご挨拶。東北の人たちって本当に温かい人たちだと思う。巡回診療で出会った人たちも、よそ者の僕は大した事もしていないのに心から感謝してくれた。最後に病院前で記念写真。


まだまだ自分の中で整理できていないことも多いけれど、僭越ながらすごくいい経験をさせて頂いた気がする。感謝されるのはこそばゆいけれど、僕は心から彼らに感謝をしたいと思いつつ帰路についた。東北人特有の我慢強さとあの温かい思いやりの気持ちがあれば、必ずや新しい生活が再生再建されると信じている。

TMG医療支援チーム(4/29-5/3) ⑤:Day4

快晴で風が強い。かなりの強風で瓦礫からトタンや金属片、プラスティックなど、いろんなものが俟って飛んでいる。なにしろ町が真っ平らになってしまい障害物がないのでびゅんびゅん飛んでくる。危なくて朝の散歩は断念。窓から見える海には白波が立っている。ご飯のあと、山田北地区の避難所へ。今日は平日なので動ける元気な大人は外に行っていているので、避難所内は子供達とお年寄りだけでがらんとしていた。小学校低学年くらいの男の子と女の子が支援物資のDSの取り合いをしていたので、i-phoneのゲームを貸してあげたら大喜び。子供達は素直で無邪気で元気一杯だ。子守りのじいちゃんばーちゃんと小さな子供というパターンも多い。子供達の笑顔と元気な笑い声は本当に避難所の救いになっている。午後からは織笠地区の巡回診療へ。

今日同行したナースの話によると、地震があって津波が来る事は皆わかってたのだと。でもまさか「これほどのものが来るとはだれも思わなかった」ので、実際には町に残ったり戻ったりした人が結構いたらしい。山田町には堤防を遥かに越えた山のような波が襲ってきて町役場のある中心部や繁華街は一気に流され、織笠川の水門を越えて川に沿った地域もかなり上流の方まで一気に洗い流された。港町なので漁船に使う重油タンクが燃え始め、ガソリンスタンド、各家のプロパンガスなどに引火し、中心部は3日3晩燃え続けたという。現場はまるで絨毯爆撃を受けた後の町のようだ。不謹慎な表現かもしれないけれど、まるで映画のセットのような現実感のない空間。


夕方10時間かかって次のチームが到着。今後の山田町の医療体制についての会議から帰ってきた院長、事務局長、初雁リーダーも合流して鍋の夕食。先発隊の大越くんと馬目さんは2週間の最後ということで、酒盛りが始まって0時すぎまで。もともとかなり深刻な医療過疎の問題があったこの地域が、津波によってさらに大きなダメージを被ったのだ。それをどう再建するかについての熱い議論。よそ者である僕らが勝手な意見を言うの憚れたが、僕はやはりある意味、再構築のためのいいチャンスなのではないか?と思った。
下の画像は、夕陽に佇む(笑)我がTMG医療支援チーム

TMG医療支援チーム(4/29-5/3) ④:瓦礫はゴミの山じゃない、ということ。


被災地に入った時の驚きもあり、「これは酷い」「ああ、なんてこった!」と様々な被災現場の写真を初めのうちは撮っていたのだ。被災者の姿は撮らないようにしようということは、初めから決めていたけれど、現場の状況については自分の記録にとっておきたかったし、被災地以外の人たちに少しでもその惨状を伝えたかったから。でも、ある時点でそれがどれだけの意味があるのか自分でもわからなくなってしまった。僕がいかに誠実に記録したつもりでも、被災の当事者からすれば「よそ者」が「高みの見物」で写真を撮っているとしか思えないんだろうな、と気付いてしまったのだ。それに、被災地に入って動き回ってみると、そのあまりにも大きなスケールの災害の傷跡にある意味「慣れて」しまい、感覚鈍麻になってそれほど驚かなくなってしまったということもある。人間あまりにも悲しい現場に遭遇すると笑ってしまうらしいということは前に書いたが、時間も経ち被災した人たちは意外にも明るい。「ここが家のあと。ここがお店のあと。散らかった商品には家の値札が付いていて、それをこれはウチのよーって拾ってね」なんて笑いながら言っている。うううむ。

現地のFM放送を聴いていたら、被災したリスナーからの怒りのメールを紹介していた。いわく、この連休で被災地に入ったボランティアの若者達が道路の脇に集めてある瓦礫の山に、自分達の持ってきたゴミを大量に捨てたというのだ。それを見かねて注意したら「せっかく助けに来てやったのに、感謝されずに怒られて心外だ。アンタらのゴミの山にウチらのゴミを捨ててどこがいけないの?」と逆ギレされたとのこと。見た目には汚い瓦礫の山でも、被災する前まではそこの人々の生活そのものだった大切なモノなのだ。つまり要らなくなって「捨てたゴミ」とは根本的に違う。行方不明のご遺体もかなりの数そこに埋まっているかもしれない。だから、このリスナーの怒りと心情は理解できるし、心ないボランティアの若者たちの態度には本当に腹が立った。つまり我彼の立ち位置の違いだけではなく、感性の問題なのだと思う。このFMの話を聴いて、自分がいつのまにか善意を押し売りするような傲慢なよそ者になっていないか?と自問した。

画像はボランティアが持ってきてくれた、病院にたなびく鯉のぼり。この人たちは本物の(笑)ボランティア。

TMG医療支援チーム(4/29-5/3) ③:Day 3


5月1日Day3 朝イチで往診依頼があり、精神障害や身体発達障害のある人たちの避難施設である「はまなす学園」へ。もともとあった施設は海の近くにあり職員たちの必死の避難行動で約40人の入所者たちは助かったという。避難道は日頃の散歩道だったことも幸いしたと。隣にあった老人施設では動けない人も多く亡くなられた方は悲惨な事にほぼ全滅だったと。一般の避難所を経て廃業していたホテルを改装する形で避難福祉施設ということで移動したとのこと。大災害の混乱は、彼らのような社会的弱者をさらにツライ立場に追い込んでいる。発熱や咳などの症状の人が多い。集団生活なので感染症の流行は未然に防がなくてはならないので巡回の意義は大きい。午後からは山田南小学校の避難所へ。ここは小学校の講堂、武道場、保育園などいくつかの施設の集まった大きな避難所。プライバシーのない避難所生活も1ヶ月以上となると相当なストレスがあるのだろう。高血圧、不眠、などの相談多し。段ボールで囲んだだけの床に寝ているので、お年寄りだけでなく若い人の腰痛や肩こりも多い。

同行しているナースが避難所で「わー、XXさん、元気だった!」と再会する場面も多い。山田町はもともと小さな町なのだ。支援物資も多くあるが、ナースに打ち明けた若い女性の場合、支援物資の下着といってもそれをプライバシーのない場所で洗濯して干さなければならないのがツライと。ううむ、確かにモノだけではないのだなと考え込んでしまった。

悲しい話もたくさん聞いた。悲しすぎて涙が出るようになったのが何日もたってからだったという話もあった。人間って云うのは、あまりのも悲しく辛い現場に立ち会うと、その事実が信じられなくて「笑ってしまう」ものなんです、なんていう話も聞いた。四十九日が過ぎて、被災した人たちもやっと冷静に話が出来るようになってきたのかもしれない。各地から参加している精神科医や臨床心理士による「心のケアチーム」も活動している。これも大切な活動なのだけれど、ちょっと違った方向性で問題点も多い。このことについては、別項で書こうと思う。画像は一緒に巡回診療をしたナースの大越君と安部さん。医者としての僕の力が1だとすれば彼らの力は10だろう。そのくらい彼らの働きかけが被災者の人たちを癒している。自分で書くのもなんだけれど、素晴らしいチームだと思った。

TMG医療支援チーム(4/29-5/3) ③:Day 2

昨夜、到着後はさっそく食事をしながらミーティング。3月11日の津波の日以来、及川院長は病院に泊まり込みで家には帰っていないとのこと。海から近いにも拘らず、海との間に5階建ての町営住宅が3棟あってそれば防波堤になって津波の勢いが抑えられたこと。職員を皆2階に上げて津波が押し寄せてくる一部始終を見ていたことや、入院患者も屋上に上げて避難したこと。その後の数日間、電気もガスも水もない状況で孤立し、職員と患者でなんとか乗り切った事。迅速な自衛隊の救助活動、道路などの復旧活動は素晴らしかったこと。16日までにすべての入院患者を無傷だった宮古の病院に転送したこと。D-MATや昭和大学救援チームが到着した16日ころからやっと少しづつ余裕が出てきて急性期を乗り切れたこと・・・など。訥々と話す院長の実際のご苦労は大変なものだったのだろうと思った。考えてみれば院長以下、病院の職員みんなが被災者なのだ。

電気は病院の2階部分の一部に供給されているが、1階部分は真っ暗。外に簡易トイレがあるのでトイレに行くにはライトが必要だ。狭い簡易トイレから用を足して後ろ足で段差を降りる時に、右の下腿にバシッとむち打たれたような痛みが走った。肉離れだ。きっと12時間近く坐っていて急に足を伸ばしたのが原因だった。激痛。これからという時に怪我をしてしまいめちゃめちゃ凹んだが、翌日朝に整形外科が専門の院長に靴の中敷をつくっていもらったら、あーら不思議!痛いながらも歩ける状態になってほっとした。
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5時起床で朝食まで周囲を散歩する。今回の僕のミッションは、避難所や孤立した集落の巡回診療を開始する事だ。我々TMGチームと県立病院のナースで回る事でこれからのこの地域の医療が立ち上がっていくのを支援する。被災者でも動ける人たちは診療を再開したクリニックや救護所に行ってもらい、それが出来ない人たちに対してどうやって医療サービスを提供するのか?が課題。まず初日は、織笠の草木地区の孤立した集落へ。画像は織笠の町。

山田線の織笠駅は完全に破壊されていて線路もひっくり返っている。津波で洗い流されてしまったところから少しだけ上がった場所があり、そこに12世帯30人くらいの人が住んでいる。自衛隊がなんとか通れる道をつくっていて、その道を通って集落へ。大越NSの抜群のコミュニケーション能力でまとめ役のおばちゃんに話がついて、3人の診察と処方をする。ナースも被災者も東北の人たちというのは、みんな温かい。厳しい状況にあっても我慢強くて、「こんなところまでありがとね」といい意味でしぶとく明るいのが救いだ。「写真を撮らせてもらっていいか聞いたら、「キレイにとってけろー(笑)」と素晴らしい笑顔の88歳のおばあちゃん。一旦、ベースに戻り食事をしてから午後は織笠の小学校の避難所とコミュニティーセンターの避難所などを巡回。狭い避難所の生活場所で腰が痛い、膝が痛い、眠れない、便秘だ、血圧が高い、など。山田病院のナースは避難所の人と地元で顔見知りであることも多くて、「そういえば、こんな問題があるの」と話をしてくれるが助かる。このGWまでは僕らも含めて7チームの医療チームが入っている。我々TMG、日赤(兵庫)、日赤(大阪)日赤(和歌山)、JMAT(和歌山、北海道、千葉)など。はっきり言えば現時点では医療需要に対して過剰な供給体制であることは確かなのだけれど、なかなかよそ者だけのの医療チームには話をしてくれないのが、東北地方の人たちなのだ。徐々に各チームが撤収に入っているこれからのフェーズも大切な支援だと痛感。下の画像は織笠小学校の桜。よく見ると背景の下の住宅街は津波でほぼ壊滅してしまっている。

TMG医療支援チーム(4/29-5/3) ②:Day 1 (被災地へ)

GW初日ということで、交通渋滞は想定内ではあったけれど、すべての渋滞にハマることになった。5時過ぎに横浜の自宅にヒロシ君が迎えにきてくれて出発。都内を抜けて東北自動車道を北上し、福島11時、仙台13時半、北上15時半。下り車線は僕らのような支援車両やボランティアの車は散在する程度で、殆どはGWの行楽や帰省のための一般車両のようだ。上り車線には警察車両多数。福島中通りで道路が凸凹になっているところがあった以外は、風景は震災前と殆ど変わらず。特に福島は原発事故で苦しむ浜通り地方はあるし、宮城では名取市や仙台近郊などのすぐ近くに津波の被災地があるのに、そのダメージがイメージできないくらい「ごくふつう」の風景が続く。

車には、診療スペースの待合室がまだかなり寒いということで、先発隊からリクエストのあった石油ストーブや灯油の他に、寝袋、食料、タオル類、ミネラルウォーター、ウェットティシュなどを満載。僕も一応5日間サバイバルできるだけの生活用品や食料と電池やサバイバル器具などを積み込んだ。しかし結論から言えば、発災からすでに7週間が経ち物資的にはかなり復旧していて、これらのものはほとんど必要なかった。現地の状況は刻々変わっている(当たり前だ)のに、都市部にいる僕らは未だに現地では全然モノも無く厳しい環境で生活しているものだと思い込んでいる。ある部分当たっていることもあるのだけれど、ある部分はかなり誇張されて現状とはかけ離れたものだ。「ふつうの生活をする」ということは、生きていくために必要最低限のものが「与えられる」ものではなく、自分なりの裁量権の中で(例えばお金とか好みとか)ものをチョイスしていくわけだけれど、現地ではまだまだそんな余裕もモノは無い。すべてを失った人たちにとっては、支援物資はどれも有り難いものだろうけれど、そろそろ「避難」から「生活」のフェーズに現地は動いているのだから、結論から言えば「物資よりお金」だろうなと。

さて、北上江釣子インターで東北道を降り、近くの義理の両親の家に立ち寄り同乗してきたゆっつんを降ろしてから、一路107号、283号を進む。桜の開花直前の美しい遠野の風景。滔々と流れる猿ヶ石川と河原の草原。駐留している自衛隊の人たちと自衛隊車両や重機、テントなどがなければ、まったく震災の影響は見えない。釜石街道(283号)の長いトンネルを抜けて釜石へ入った。震災以来マスコミやネットで繰り返し観た大津波で破壊される町のイメージが強すぎて「釜石は壊滅」したと思い込んでいたので、ごく普通に量販店やラーメン屋やコンビニが開いていてお客が入っているのが(申し訳ないけれど)意外だった。しかし、海の方に進み釜石駅付近にまで来て突然風景が一変した。信号機はまだ復旧しておらず警察官が誘導している。瓦礫が道の両側にうずたかく積まれている。完全に町の機能が破壊された姿に声を失う。僕の知っている街並が完全になくなってしまっている。


市の中心部だから、これでも7週間がすぎてかなり瓦礫処理されたあとなのだろう。前の状態がどのようなものだったかは想像を越える。海の方に目を向けると、釜石の沿岸部や港湾部はほぼ壊滅しているのがわかる。45号線を北上する。大槌町はほぼ壊滅して跡形もなく流されている。子供達が小さかった頃キャンプした浪板海岸のキャンプ場は松林ごとごっそりと削ぎ取られてしまっていて唖然とする。山田町には18時過ぎに到着。例の船越湾と山田湾が繋がってしまう大津波の映像を繰り返し見ていたので、そのイメージが大きい。町の中心部は津波で流されてほぼ平坦になってしまっている。夕暮れ迫る18時半すぎに県立山田病院到着。山田北地区にある病院の周囲はほぼ真っ平らになっていて何も無い。街路灯もなく家も無いので真っ暗だ。病院の一階も真っ暗だ。県立山田病院の及川院長、先発隊の初雁医師、大越看護師、事務の馬目(まのめ)さんが迎えてくれた。平成18年に新築された建物は一階部分が一切合切流された(つまり何も無い空洞状態)ものの、2階部分はそのまま残っている。2階に上がってあまりにもキレイで明るいことに驚いた。宿泊することになる病室に荷物を搬入してから、食事をしつついろいろと話を聞いた。食事はツルの一声(笑)で、給食部隊が素晴らしい食事を提供してくれる体制を整えてくれている。こんな状況でどこからどうやって食材を入手しているのか、彼らはしっかりプロの仕事をしてくれていて感激する。病室は快適。持参した石油ストーブもありこんなに快適にベッドで眠れるなんて思っても居なかった。衣食住が整ってこそ力も発揮できるってモノだ。ボスの慧眼と判断に感嘆&感謝。

TMG医療支援チーム(4/29-5/3) ①:プロローグ

4/30 - 5/3に岩手県宮古市山田町の被災現場へTMG医療支援チームの一員として参加した。その記録をこのブログに記しておく。これは僕の通常行くようなお気楽な旅行記ではない。あくまでも自分のためのメモランダムである。今の時点で現地は、万全とは云えないまでも電源も固定電話回線も繋がっているし、携帯電話もdocomo, auそしてsoftbankもほぼ問題なく繋がってはいるので、リアルタイムでログをアップすることは技術的には十分可能だったのだ。しかし、夜の食事のあと何もすることがない暗く長い夜、十分な時間な時間があったにも拘らず、どうしてもいつものように気楽な気分でその日の出来事や思った事をブログに書き出す事ができない心理状態だったのだ。その間に色んな事を考えたし、仲間とも話たし被災地の医療現場で踏ん張っている人たちの話も聞いた。書き残したいことが山のようにあったのだけれど、簡単にアップしてしまうより少し時間をかけて考えてみたかった。自分のためのメモランダムなので、この記録は内容と時系列が多少ばらばらになっている。僕がMOLESKINEに書き留めたものとiphoneに入れたメモ、それから現地で撮った写真(写真撮影については自分なりにすごく注意を払ったつもりだ)のいくつかを含めて、レトロ・スペクティブにアップすることにしよう。
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今回のミッションは、県立山田病院をベースにした被災地の医療支援。3月16日から活動していた昭和大学の医療チームは引き上げた後、僕の所属する病院グループTMGの医療支援チームがそれを引きついたものだ。救急救命のための多数の医療チームは、発災直後に現地入りした。しかし、今回の大震災の被害は地震そのものによるものはそれほど大きなものではなく、殆どが津波によるものだった。だから2万人もの死者と行方不明者が出ているにも拘らず、負傷者は多く見積もっても全体で数百人程度といわれている。つまり津波に巻き込まれたら最後、ほとんどが命を落とすことになった。倒壊した建物やその後の火災での負傷者はほとんど居ない、All or noneの厳しい状況。この災害が直下型地震であった阪神淡路大震災などの災害と根本的に違うところだ。ということで、世界中から集まった災害医療チームは正直なところ「手持ち無沙汰」の状況だったという。被災地の復旧から復興のプロセスが始まったばかりだ。そのプロセスの中で、崩壊してしまった現地の医療システムの支援、というのが僕らのミッションということになる。311以来、僕も現地に赴いて力になりたいと思い続けて忸怩たる想いだったのだが、今回TMGが参加するということで、迷わず志願したというわけだ。情報収集と準備をしつつ出発当日の朝を迎えた。