昨夜、到着後はさっそく食事をしながらミーティング。3月11日の津波の日以来、及川院長は病院に泊まり込みで家には帰っていないとのこと。海から近いにも拘らず、海との間に5階建ての町営住宅が3棟あってそれば防波堤になって津波の勢いが抑えられたこと。職員を皆2階に上げて津波が押し寄せてくる一部始終を見ていたことや、入院患者も屋上に上げて避難したこと。その後の数日間、電気もガスも水もない状況で孤立し、職員と患者でなんとか乗り切った事。迅速な自衛隊の救助活動、道路などの復旧活動は素晴らしかったこと。16日までにすべての入院患者を無傷だった宮古の病院に転送したこと。D-MATや昭和大学救援チームが到着した16日ころからやっと少しづつ余裕が出てきて急性期を乗り切れたこと・・・など。訥々と話す院長の実際のご苦労は大変なものだったのだろうと思った。考えてみれば院長以下、病院の職員みんなが被災者なのだ。
電気は病院の2階部分の一部に供給されているが、1階部分は真っ暗。外に簡易トイレがあるのでトイレに行くにはライトが必要だ。狭い簡易トイレから用を足して後ろ足で段差を降りる時に、右の下腿にバシッとむち打たれたような痛みが走った。肉離れだ。きっと12時間近く坐っていて急に足を伸ばしたのが原因だった。激痛。これからという時に怪我をしてしまいめちゃめちゃ凹んだが、翌日朝に整形外科が専門の院長に靴の中敷をつくっていもらったら、あーら不思議!痛いながらも歩ける状態になってほっとした。
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5時起床で朝食まで周囲を散歩する。今回の僕のミッションは、避難所や孤立した集落の巡回診療を開始する事だ。我々TMGチームと県立病院のナースで回る事でこれからのこの地域の医療が立ち上がっていくのを支援する。被災者でも動ける人たちは診療を再開したクリニックや救護所に行ってもらい、それが出来ない人たちに対してどうやって医療サービスを提供するのか?が課題。まず初日は、織笠の草木地区の孤立した集落へ。画像は織笠の町。
山田線の織笠駅は完全に破壊されていて線路もひっくり返っている。津波で洗い流されてしまったところから少しだけ上がった場所があり、そこに12世帯30人くらいの人が住んでいる。自衛隊がなんとか通れる道をつくっていて、その道を通って集落へ。大越NSの抜群のコミュニケーション能力でまとめ役のおばちゃんに話がついて、3人の診察と処方をする。ナースも被災者も東北の人たちというのは、みんな温かい。厳しい状況にあっても我慢強くて、「こんなところまでありがとね」といい意味でしぶとく明るいのが救いだ。「写真を撮らせてもらっていいか聞いたら、「キレイにとってけろー(笑)」と素晴らしい笑顔の88歳のおばあちゃん。一旦、ベースに戻り食事をしてから午後は織笠の小学校の避難所とコミュニティーセンターの避難所などを巡回。狭い避難所の生活場所で腰が痛い、膝が痛い、眠れない、便秘だ、血圧が高い、など。山田病院のナースは避難所の人と地元で顔見知りであることも多くて、「そういえば、こんな問題があるの」と話をしてくれるが助かる。このGWまでは僕らも含めて7チームの医療チームが入っている。我々TMG、日赤(兵庫)、日赤(大阪)日赤(和歌山)、JMAT(和歌山、北海道、千葉)など。はっきり言えば現時点では医療需要に対して過剰な供給体制であることは確かなのだけれど、なかなかよそ者だけのの医療チームには話をしてくれないのが、東北地方の人たちなのだ。徐々に各チームが撤収に入っているこれからのフェーズも大切な支援だと痛感。下の画像は織笠小学校の桜。よく見ると背景の下の住宅街は津波でほぼ壊滅してしまっている。