GW初日ということで、交通渋滞は想定内ではあったけれど、すべての渋滞にハマることになった。5時過ぎに横浜の自宅にヒロシ君が迎えにきてくれて出発。都内を抜けて東北自動車道を北上し、福島11時、仙台13時半、北上15時半。下り車線は僕らのような支援車両やボランティアの車は散在する程度で、殆どはGWの行楽や帰省のための一般車両のようだ。上り車線には警察車両多数。福島中通りで道路が凸凹になっているところがあった以外は、風景は震災前と殆ど変わらず。特に福島は原発事故で苦しむ浜通り地方はあるし、宮城では名取市や仙台近郊などのすぐ近くに津波の被災地があるのに、そのダメージがイメージできないくらい「ごくふつう」の風景が続く。
車には、診療スペースの待合室がまだかなり寒いということで、先発隊からリクエストのあった石油ストーブや灯油の他に、寝袋、食料、タオル類、ミネラルウォーター、ウェットティシュなどを満載。僕も一応5日間サバイバルできるだけの生活用品や食料と電池やサバイバル器具などを積み込んだ。しかし結論から言えば、発災からすでに7週間が経ち物資的にはかなり復旧していて、これらのものはほとんど必要なかった。現地の状況は刻々変わっている(当たり前だ)のに、都市部にいる僕らは未だに現地では全然モノも無く厳しい環境で生活しているものだと思い込んでいる。ある部分当たっていることもあるのだけれど、ある部分はかなり誇張されて現状とはかけ離れたものだ。「ふつうの生活をする」ということは、生きていくために必要最低限のものが「与えられる」ものではなく、自分なりの裁量権の中で(例えばお金とか好みとか)ものをチョイスしていくわけだけれど、現地ではまだまだそんな余裕もモノは無い。すべてを失った人たちにとっては、支援物資はどれも有り難いものだろうけれど、そろそろ「避難」から「生活」のフェーズに現地は動いているのだから、結論から言えば「物資よりお金」だろうなと。
さて、北上江釣子インターで東北道を降り、近くの義理の両親の家に立ち寄り同乗してきたゆっつんを降ろしてから、一路107号、283号を進む。桜の開花直前の美しい遠野の風景。滔々と流れる猿ヶ石川と河原の草原。駐留している自衛隊の人たちと自衛隊車両や重機、テントなどがなければ、まったく震災の影響は見えない。釜石街道(283号)の長いトンネルを抜けて釜石へ入った。震災以来マスコミやネットで繰り返し観た大津波で破壊される町のイメージが強すぎて「釜石は壊滅」したと思い込んでいたので、ごく普通に量販店やラーメン屋やコンビニが開いていてお客が入っているのが(申し訳ないけれど)意外だった。しかし、海の方に進み釜石駅付近にまで来て突然風景が一変した。信号機はまだ復旧しておらず警察官が誘導している。瓦礫が道の両側にうずたかく積まれている。完全に町の機能が破壊された姿に声を失う。僕の知っている街並が完全になくなってしまっている。
市の中心部だから、これでも7週間がすぎてかなり瓦礫処理されたあとなのだろう。前の状態がどのようなものだったかは想像を越える。海の方に目を向けると、釜石の沿岸部や港湾部はほぼ壊滅しているのがわかる。45号線を北上する。大槌町はほぼ壊滅して跡形もなく流されている。子供達が小さかった頃キャンプした浪板海岸のキャンプ場は松林ごとごっそりと削ぎ取られてしまっていて唖然とする。山田町には18時過ぎに到着。例の船越湾と山田湾が繋がってしまう大津波の映像を繰り返し見ていたので、そのイメージが大きい。町の中心部は津波で流されてほぼ平坦になってしまっている。夕暮れ迫る18時半すぎに県立山田病院到着。山田北地区にある病院の周囲はほぼ真っ平らになっていて何も無い。街路灯もなく家も無いので真っ暗だ。病院の一階も真っ暗だ。県立山田病院の及川院長、先発隊の初雁医師、大越看護師、事務の馬目(まのめ)さんが迎えてくれた。平成18年に新築された建物は一階部分が一切合切流された(つまり何も無い空洞状態)ものの、2階部分はそのまま残っている。2階に上がってあまりにもキレイで明るいことに驚いた。宿泊することになる病室に荷物を搬入してから、食事をしつついろいろと話を聞いた。食事はツルの一声(笑)で、給食部隊が素晴らしい食事を提供してくれる体制を整えてくれている。こんな状況でどこからどうやって食材を入手しているのか、彼らはしっかりプロの仕事をしてくれていて感激する。病室は快適。持参した石油ストーブもありこんなに快適にベッドで眠れるなんて思っても居なかった。衣食住が整ってこそ力も発揮できるってモノだ。ボスの慧眼と判断に感嘆&感謝。