January 28, 2013

インフルその後

ひどいインフルエンザ感染は、うん十年記憶にない。予防接種をしていることもあるが、いつもインフルエンザ・ウィルスの側にいるので、免疫も常に更新しつつ体力で乗り切ってきたんだと思う。ところが、今回は一発でヘロヘロ状態になってしまった。入院中なので院外からの持ち込みだろうけれど、あれれ喉が痛いかな?と思った時には、全身が熱っぽく関節痛で動けなくなってしまった。さらに自分の予想以上に体力が落ちていることで、精神的にもダメージが大きかった。インフルエンザAが陽性となって、この時点でリレンザを使ったところ、即効果があり、やっと落ち着いて眠れるようになった。それまでは頭痛と嘔吐と全身痛で、一晩中苦しんで、自分でもどーにかなっちまうんじゃないか?と心配するほどだった。今更ながら、インフルエンザ恐るべし。今日で3日目で解熱したしたし、明日くらいから食べられるか?

January 27, 2013

インフルエンザ

一昨日の午後から、なんとなく喉の痛みと全身の関節痛があった。やばいなあ、と思いつつ横になっていた。一回目のインフルチェックは陰性。でもなんとなく怪しいですね、と夜になって二回目のテストで陽性。やはり抗癌剤で抵抗力がおちているんだろう。夜から本格的に全身の寒気と嘔気、全身の痛み。久しぶりにモロに来た感じ。2回めのリレンザから効果が出てきたようで、今朝からはやっと歩けるようになった。昨夜は辛かった。

January 24, 2013

唯一のお見合い体験

実は今まで唯一、お見合いをした(させられた)ことがある。

確か1983年。福岡で学会があり、週末で終了するのを聞きつけた親父に頼まれ事をしたのだ。僕にとっての初めての大きな学会出張だった。親父からは福岡のAさんの所にお届け物があるので、持って行って欲しいという電話だった。学会場にAさんからお迎えを出すので、その車に乗って福岡近郊にあるお宅に向かって欲しいとのこと。さっそく夜、お宅へ伺うことになった。

Aさんは外科医。福岡郊外で大きな病院を経営しておられた。ウチの親父と当時の中学校の同級生。あの時代の外地での日本人の同窓意識はすごく緊密なのだ。九州柳川の下級武士の出だった親同士が、一旗揚げるべく一所懸命に頑張ったんだろう。そして終戦。すべてを失って復員するのだが、その後の生き方がみんな逞しい。ウチの親父は銀行員、Aさんは医師として、戦後も激動の時代を生き抜いて、病院を大きく発展させていったという。

お迎えの車から降り、ご挨拶してから大きな大広間に通された。ご一家がみんな満面の笑みで「よく来てくれた」と歓待の宴が始まった。豪華絢爛な大皿には、これでもか!と新鮮なふぐ料理。僕は今に至るまで、自宅でこんなに立派なふぐ料理を食べたことがない。ホストのご夫婦、当時大学生だった娘さん、中学生の娘さん、小学生の息子さんのほか、ご主人のお母様がいらっしゃったと思う。大勢で和気あいあいの雰囲気のホームパーティーになった。

さて食事が終わり宴たけなわ。それでは、と見せていただいたのが、お嬢様のいわゆる「釣書」だった。僕は実はこの時までこの会食が「お見合い」であることは知らなかったので、かなりビックリしたのだけれど、この時点でやっと理解した(遅すぎ!)。空気読めなすぎ。

釣書を改めて見てみると、僕には勿体無いくらいの素晴らしい美人なのだ!(笑)。福岡で有名なミッション系学校に通っていて、体育会系クラブやっているとのこと。あの時はまだ大学2年生だったと思う。黒田メイサ似の、ハキハキしていて感じの良い美女だった。いい意味で全然擦れていないお嬢様の良さがあった。

新しい息子ができたみたいだと、はしゃぐA先生に、眼で「まったく子供みたいでしょ」と、わからないように口パクで話す奥様が、印象的でよく覚えている。その後、病院の見学をさせていただいたり、深夜になり娘さんの運転でホテルに送ってもらった。

その出会いはお互い「憎からず思った(笑)」けれど、数回電話したり頂いたりしているうちに、徐々にフェードアウトすることになった。超多忙の外科レジデント時代、遠距離恋愛なんて精神的余裕のあることなんか、考えもしなかった。つまり結論を言えば、ご縁がなかったということななんだろう。

ああ、前フリが長くなった。

先日のポストに関連して、ホイチョイの「私をスキーに連れてって」を思い出し、画像を観ていたら可愛かった頃の原田知世の懐かしい画像を思いだしたのだ。そのお見合いをした方に、感じが似ていたとさ(しみじみ)。ちゃんちゃん。

January 23, 2013

祈り、あるいは念について

自分の死を意識するようになってから、ある時期から虚心坦懐に手を合わせることを日常的にするようになった。別に特別なことをするわけではない。日常的に心のなかで手を合わせるのだ。これをすると自然に安心安寧な気持ちになる。すごくシンプルなこと(祈ること)で、すっと(ストンと腑に落ちて)何とも言えない優しいピースフルな心を得られる。

僕は基本的には仏教徒であるが、宗派など特定のこだわりはない(お寺はあるけれど)。人生には様々なことがあり、どんな人生にも良い事も悪いこともある確率で起こるものだ。自分だけ特別にそのbetが有利になるってことはない。もちろん、その逆もない。そして誰でも未来のことはわからない。解らないだけに人はみな「祈る」のだ。

精神の安静安寧を得るために、まっすぐな気持ちで祈ることが「気持ちいい」。大仰な宗教的儀式ではなく、ごく自然に日常的に「祈ること」は「精神浄化」されるプロセスとして古今東西どの社会でもある。祈ることは信じることなのだ。

英語では ritual
宗教的儀式とか慣習 の意味。決め事があることで安心できることもあるという真実。
祈ることは念じることだ。心に念を送ること。

純真な子供がfortuneを祈るのは自然なことだ。
素直に未来に託したくなる気持ちは、大人も子供も同じだろう。
===
別稿にて追補予定

僕の手術の時にネットを通して感じた、何千何万人たちの「念」「波動」
手術終了後、すーーと消えた
不思議な体験だった。
安心感、stand by you! という匿名のメッセージ
By-standerという言葉 e.g. 常に隣にいる伴走者

January 22, 2013

想起するパスタについて

先日作ったボロネーゼを冷蔵して病院に持ってきた。経験上、作った日とはまた違って時間をおいたほうが断然美味しくなるのだ。カレーとかシチューとかと同じです。

今回、入院中ということで困ったのは、熱々のパスタをどう用意するか?ということ。我儘なヤツ(自分)です。具はレンジでチンすれば簡単に作れるけど、病棟に熱々のパスタ用の寸胴を用意するわけいもいかず…。最悪、コンビニで売っている出来合いのパスタで別に具とパスタが分けて売っているものを(例えば明太子パスタの麺だけを使うとか)使えばいいやと、考えていた。

ところが、あるんです!さすが日本セブン-イレブン!!。
茹で上げた後、瞬間冷凍したパスタが!!

これには感激してしまった。デューラム・セモリナ種のスパゲッティーニのアルダンテが、3分40秒で出来ちゃう!正直な所、レンジでパスタがこんなに美味しくできるなんて思ってなかったので驚いた。伸びきったボソボソのパスタを想像していたのに、全然違う。ごく普通の美味しい茹でたてのパスタなのだ。しかも、2袋入りで158円!!

こういうきめの細やかさが日本の宝(資源)。オドロキの商品。まず絶対日本以外ではアリエナイだろう。商品開発した人たちに、敬意を表したい感じ。それと「僕たちはちゃんと観てますよ」って教えたいと思う。Good job!

限られた中で創意工夫すること。アイデア、イメージ、エピソードetcは、頭のなかに留まってはくれない。ふっと湧いて、すっと居なくなる。想起すること。アイデアを膨らませること。そして形にすること。それが原点。

油断すると揮発しそうなイメージを固定化して、言葉として取り込んでおくこと。
写真でも、音楽でも、いいけれど。それが大切だと思う。

January 21, 2013

おっさん達もスキーに行きたい♡

今シーズンからスキー人気が回帰しているそうな。特に今シーズンは、ユーミンの音楽のプロモーションもあって(大成功!さすが、いしじゅん)スキーへの関心が拡がっている。いいことだ!スキーが盛んになれば、観光産業の裾野がひろがり景気回復にいいし。年が明けて、安倍政権になり、なんとなく景気もいいし、薄ぼんやりとした明るさを感じないわけではない。

スキーの人気は僕らの学生時代、特に大学時代がピークだった。たしかに「私をスキーに連れてって」のイメージは、強烈に何か訴求するイメージがあった。画像は、原田知世。冬にはスキー以外には適当な遊び方を知らない、僕らが一斉に飛びつくだけの「何か」があったということだ。一言で言えば、あの時代なりの一番物欲を刺激されたのがスキーだった。ホイチョイの戦略にまんまとハマった(というか、彼らとは同じ穴のムジナ)だった。

僕らの子供の頃1960年代の第一波のスキーブームがあって、これがその後のブームのベースにあった。小学校から学校とかYMCAなどの課外活動のスキーはお約束だった。そして、バブルに向かったって感じだったんだろう。今俯瞰してみれば。

これを、ある時期の日本では(というか、ボクらは皆)みんなスキーに「ハマっていた」にもかかわらず、バブル崩壊とともに一気に「飽きてしまった」というか「目が醒めてしまった」。あんなに相思相愛の時期があったにもかかわらず、だ。流行というのはそんなものなんだろうか。今回のスキーブーム(というか、まだか流行ではないか?)では、日本の社会の階層化と多様性(簡単にいえば格差)、さらにはライフスタイルの自立性(人のことは我関せず)が関係している気がする。



これは、かつて住んだアメリカとかニュージーランドのスキー場と比べて見ると、よく分かる。彼の国では、スキーをしたことがある人のほうが圧倒的に少ない。地域性は勿論あるけれど。だから普通の都市部に住む者にとっては、経済的にも余程の余裕がなければスキーなんてできない。みんな同じように、日本中の若者がみんなスキー場に向かうなんてそもそも「アリエナイ」話なのだ。便利になったとはいえ、まだスキーはお金のかかる贅沢なスポーツであることは間違いないし。

それにしても、壊滅的なダメージを受けた日本の古いスキー施設はどうなったんだろう?ある時期、日本人は殆どスキーをしなくなり、外国人だらけだった時期もあるようだが、スキー場に元気が戻って欲しい。子どもたちがまだ小さかった頃、毎冬行っていた奥志賀高原ホテル、グランフェニックス…、懐かしい思い出だ。岩手の夏油温泉にもよく行った。

今は宅急便などの物流システムも発達したし、手ぶら移動は当たり前のサービスで便利になった。大きなバックとスキーをもって、電車で上野のホームに行くなんてことは、今誰も信じないと思う。

また、今はツアーも色々あって、様々な格安のパックがあるみたいだ。このファミリーパックやグループパック(欧米では当たり前)は、いいなあ。日本のスキー場もスキーリゾートとしての魅力はまだまだ潜在能力があると思う。僕らの世代の「昔取った杵柄」的な仲間たちとの旅行なんて受けると思う。

かる~く2−3本流してから、早々にラウンジに上がって露天風呂&のんびりと雪見酒(飲めないけれど)したら最高だろうな。夢だけど。

てなことを、スキーの思い出とともにつらつらと考えたりしてる。

January 20, 2013

最強ボロネーゼ

今回の化学療法の最終日も無事終了。イメンドとナゼア、リンデロンの効果は絶大で食欲はばっちり。ありがたい。今日の午前中に点滴をしていたら、ふと(本当にふっと、だ)パスタ・ボロネーゼを作りたくなった。食べたくなっただけでなく、作りたくなったのだ。思い立ったが吉日。次がいつになるかは全くわからない(笑)ので、レシピを記録しておく意味でも作ることにした。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
玉葱・・・・・・・・・・・・・2
ニンジン・・・・・・・・・・
セロリ・・・・・・・・・・・・1本
ニンニク・・・・・・・・・・・5片(僕はにんにくLover)殆ど一個
ベーコン250g・・・・・・・・・・6枚(パンチェッタ)
牛挽肉(赤身の多い部分)・・・・・・ 600グラム 
ローリエ・・・・・・・・・・・ 3
ホールトマト・・・・・・・・・ 1
赤ワイン・・・・・・・・・・2カップ

ブラウンマッシュルーム・・・・・・20個(切らずにそのまま)

この他、ドライトマト、フレッシュトマトは好みで。
また、最終段階で生クリームを入れる、というワザはある(でも嫌い)。

塩 コショウ・・・・・・・・・少々。だんだん濃厚になるので少なめでOK
マッシュルーム以外を可能な限り細かく刻む。今日はフードプロセッサーを使用。


下準備。具材を切る。フードプロセッサーを使用して細かく刻む。

まず、細かく切ったベーコンを投入。ベーコンとニンニクをじっくり炒める。脂を出しきってカリカリに10分位炒め、別に分けておく。





この油でタマネギ(大2個分)の微塵切りを焦がさないように炒める。ニンジン、セロリを投入。この手の料理は、いっぱい作ると作るほど美味しい気がするな。男の料理。

そこから更に30分間、弱火で炒める。野菜から水分を飛ばすことがポイント。この時点では、まったく塩コショウはなし。「ソフリット」と呼ぶ。この写真は投入直後。かなりてんこ盛りだ。



出来上がりの目安は、セロリの緑色が茶色く同化していること。

炒めが仕上がったら、ボールにあけておく。これでソフリットの出来上がり。


(マッシュルームは最後の煮込みで投入)



ここからが肉の調理へ。

赤身の多い牛肉。軽く塩コショウしてから、強火で焼いていく。僕は、炒めるのではなく、焼く感じで強火でガシガシと行く、と教わった。牛脂ともに水分が出てくるが、それを除去する。また、フライパンの縁についた焦げ目を削ぎ取ることも大切なポイント。


ここがポイント。カリカリになるまで焼く(炒める)。

ここは当然強火。中華料理的に火を入れる。この写真はまだ未完成。出来上がりはもっとカリカリでクリスピーな、濃い焼き色がつくくらい。

これらを、前出のベーコン&タマネギ、ソフリットとともにル・クルーゼの中へ

さらに、赤ワイン、ホールトマトを手で潰して投入。どばどばどば。一気に行きます。
もちろんル・クルーゼの基本は「弱火」。決して強火にはしないで。

煮立ってから約40分間、その後は約1時間、混ぜながら水分が飛ぶのを待つ。ここでマッシュルーム投入。僕はマッシュルーム好きなので、この段階でそのままスライスせず投入します。

初めは個々の素材がバラバラだけれど、時間とともにまとまってくる。
隠し味:ハニー tea spoonで少々。これが効く。

最後に、塩コショウで味の調整。この段階で水分はかなり飛んで濃厚なソースになってる。最終段階は、この写真くらいの量まで、水分が飛ぶ。また最後まで「こそぎ落とす」作業を続けるのが大事。



スパゲッティーニ、7分30秒、このボロネーゼは茹で上げてから、軽く和えてサーブする。僕はこのパスタは「肉肉しい」のが、いいと思う。もちろんパルミジャーノ・レッジャーノが定番。

いつものことながら、パスタを茹で上げて、みんなにサーブして、うまく写真を撮るのは困難でした、というか無理(笑)。ということで、本日も「完成」写真はなし。

だめじゃん(爆)証拠写真なし。でも今日も美味しかったです〜。いい気分転換になった。

しゃっくり責め

「しゃっくり」、あるいは「ひゃっくり」。これが止まらない。
しゃっくり(噦り、吃逆、嗝)とは、横隔膜(または、他の呼吸補助筋)の強直性痙攣および、声帯が閉じて「ヒック」という音が発生することが一定間隔で繰り返される現象で、ミオクローヌスmyoclonus:筋肉の素早い不随意収縮)の一種である。(Wikipedia)
英語では hiccup.

症状の一つなのか、化学療法の副作用なのか?たぶんその両方じゃないかと思う。そんなに辛い訳じゃないけれど、気になりだすと気になる。それも症状が終日あるわけではなく、突然始まって突然終わる。気まぐれなのだ。

January 19, 2013

ウミガメの赤ちゃんの話

今日明日はセンター試験。日本中の若者たちが将来を託して受験する。ボクらの時代には共通試験というのはなかったけれど、同じ世代で共通の課題を課されるのは意義のあることだと思う。大学進学を契機として初めて自分の人生について考えることになる。たぶんこの年齢の若者たちからすれば、初めての真剣な人生の選択となるわけだ。

人生、決して焦ることはない。人生80年の時代なのだ。
さまざまな葛藤を通して、じっくりと考えて、自分の可能性を探っていけばいいと思う。欧米なら既に当たり前だったけれど、日本もそろそろ単純なライフデザインから脱皮するべきだろう。高校からストレートに大学に入る人もいるだろうし、一旦就職後に改めて大学に入り直すキャリアもあるだろうし、リタイア後に高等教育を受ける人もいるだろう。つまり人生にはいろんな選択肢があるべきだ。

そして、自分の人生を「自分のもの」として楽しむべきだ。
死を身近なものとして感じることになった今、切実に思う。

与えられた時間は決して「無条件で無制限」ではないのだ。
真摯に努力することの尊さは、どの時代でもどの世界でも変わらない。

若い人たちを観て、いつも思い出すのはウミガメの赤ちゃんのことだ。

満月の夜に産卵された
ウミガメの赤ちゃん達が
一斉に海に向かう

ひっくり返ったまま元に戻れない子
波に揉まれ傷つく子
海鳥に食べられてしまう子
波打ち際まで辿り着かない子

強い子もいれば
身体的に弱い子もいるだろう
ハンディキャップなしの
命懸けのレース
自然界の残酷なルール

月夜の海岸でウミガメの赤ちゃんたちは
皆、一所懸命
横一列で
競うかのように
必死で沖に向かって泳ぎ始める

やっと泳ぎ始めても、まだまだ道は遠い

さらに大きな海に向かって
孤独に耐えながら
運命を信じて
自分を信じて

まだ始まったばかりだ

〜〜〜〜〜
厳しい道だとしても、夢に向かって進むことは素晴らしいことだ。
希望を諦めて「あの時やっておけばよかった!」と後悔するより、自分の心に素直に行動して、前に進んで仮に失敗したとしても、その方がほうがずっといい。

Good luck!

January 18, 2013

若気の至り

誰でもそうだと思うけど、若気の至りというか、若いころの恥ずかしい失敗は数知れず。この歳になり思い起こすものはどれも、ぎゃっ!とか、うわっつ!とか叫びながら、のたうち回るエピソードばかり。

大体が、背伸びしてバレるパターンや、知ったかぶりをして笑われるパターン。自信満々に見せてるけど内心ドキドキが傍目で見えるパターンだ。若気の至り。懐かしく甘酸っぱい思い出。

若いころの僕は、実力が伴ってない、あるいは努力が足りないくせに、プライドだけは高いというカッコ悪い典型。いわゆる器用貧乏。生意気で嫌な奴だったと思う。ええかっこし。それが自分で分かっていたからこそ、それをカバーするために、チョコザイに動き、器用に立ち回っているように見せていたのだ。自分だけが、そのカッコ悪さを知ってる。

そういう甘酸っぱい思い出とともに、突然昔の記憶がフラッシュバックして「ぎゃ!」とか「うわー」って赤面して目覚めたり(笑)。(今更仕方ないので)後悔することはほとんどないけれど、単純に恥ずかしい。だから自分の写っている昔の写真や動画は苦手。

でも今振り返ってみて、何でも人生の肥しになっているのだなと思う。その意味で、突っ張って生きる時期って若いうちは絶対だと思う。あのエネルギーが、大人になるためには必要なのだ。そう、あの恥ずかしい体験やドキドキする体験をして、オトナになるのだから。

メモランダム(3)


LFMBP メモ未修正LFMBP

原案修正は2011−7版

MR. BELLPEPPER原案

プロット
天使の環
徐福伝説
プロローグ
冬春夏秋というサイクル
「起」としてのストーリー
孤独な老人 仙人
ordinary people
夢のような生活vs悲惨な生活
当たり前の結末vs意外な結末

輪廻、再度の夢:夢から醒めた夢をみている:承
託されたメッセージの意味?
IZUM? 神社の社 礎石 苔むした庭
転①
鋭角的な都市と その暗喩として乾燥した荒野 
対比としての 海辺の町 港町
転②③ 起承(ウラ)
時空を超える
日本海溝の洋上 ゲーム
転:
記号としての「大富豪」と「大貧困」
転結(ウラ)
結:
エンディング①
エンディング②
エピローグ
トリビュート:杜子春 

January 17, 2013

スーパー・ウーマン

クルム伊達公子さん。素晴らしい女性だ。
今回、全豪オープンテニス・シングルスで2回戦に勝って、3回戦進出のニュース。スゴイなあ。

とくにテニスに興味が有るわけではないけど、この人は特別。若いころは、天才少女として一世を風靡してから一度引退。それから復帰。プロのスポーツ選手としては奇跡的なことだ。輝いている42歳!可能としたのは彼女の才能と努力、そして何より強靭な精神的な力だろう。

彼女は奥沢にある洋食のお店の常連で、お会いしたことがある。ご夫婦でやっているカウンターだけの洋食のお店。世界中をツアーで回っている彼女はそのお店のファンで、日本に戻った時には必ず寄るとのこと。気さくでにこやかで爽やかで、僕と尚子は一層ファンになってしまった。

January 16, 2013

カレー慕情

日本人はみんなカレー好きだ。カレーが嫌いな人はいないとは云わないけれど、少数派だろう。もちろん好みのバリエーションはあるけれど。蛇足ながら台湾で「日本式のインドカレー」がかなり人気があることはフードコートを歩くとよく分かる。Coco壱番館とか人気があるみたいだ。

まず各家庭の作るカレーライス。これが各人のデフォルトだろう。以前のカレーはもっとシンプルでカレー粉(S&Bとかね、今でも僕は使うけど)が全体に黄色いカレーだった。それが1975年前後から少しずつ家庭のカレーが本格的でゴージャスになった。クミンとかガラムマサラとかが普通に入手できるようになって、一億総グルメ化した。

この辺りから「男の作るカレー」とか「休日のパパの趣味カレー」的な広がり方をした。これはメーカーと広告屋さんの売り方がいかに上手かったかということだろう。スーパーのカレーのコーナーがあれだけあるのだから、カレーに関する顧客の要求水準がいかに高いかわかろうというもんだ。

遡ってみれば、エポックメーキングは大塚食品のボンカレーだ。調べてみると1969年の発売。進化しつつ未だに人気がある。僕も時々すごく食べたくなる。湯煎して食べるカレーのアイデアは子供心に衝撃的だった。いわゆるカレー専門店のカレーは家庭のものとは一線を画していて、本格的なカレーを家庭で食べられるようになったことは画期的だった。

以前ブログにも書いたけれど1960年代の羽田空港のラウンジは当時の僕にとって夢の様な世界で、そこで食べられるビーフカレーはこの世のものとは思えない位美味しかった。当時小学校低学年。三つ子の魂百までじゃないけれど、強烈な印象だった。

今でも大好きな「スマトラカレー共栄堂」(神保町)については別稿にて。

ちょっと1年位前に知った関西の「インディアンカレー」
こーめい先生のお土産の「ブラックカレー」
ああ色々書きたい内容がある。
それにしてもB級大好きのワタクシ。

今は化学療法中で妄想ばかり。実際は食べられないんだけど(w)

憧れの自衛隊カレーついてはメモランダムとしておきます。


January 15, 2013

病院食はダントツ世界一

今日こーめい先生と話していて、現在の日本の病院食は世界一(たぶん)素晴らしい!と、大絶賛になった。質・量・メニューそのほかの心配りについてもダントツだと思う。クリスマスとか七夕などの院内食のレベルも素晴らしいことは以前にブログに書いた。
古今東西、ずっとベッドに居る患者にとって、3度の食事は何よりの楽しみ(であるはず)なのだ。

ほんの20年前までは日本も酷かった。食事の内容も、質も量もpoorだった。だいたい3食が病院食ということが「アリエナイ」話で、院内にてんやもんの出前がたくさんあったものだ。病院食は冷たくなった魚とご飯とおつゆ、つけものだけが定番ご飯だった。そういった状況を織り込み済みで、病院の運営がなされていた。保険診療の療養費用のコストを下げられるだけ下げないとどの病院も赤字になってしまう時代。この状況はある時点で劇的に変わった。質・量・バランスともに世界一になった。

経済的は日本はすでに十分豊かになっていたが、その当時はまだ社会的弱者である患者が恩恵を受けるだけのが余裕がなかったのだ。国外の医療を経験し、そのいいところを取り入れて日本的な色を出すという、その時代の厚生官僚が素晴らしい仕事をした。この彼らの努力はもっと称賛されていい。さらに言及すれば、栄養管理の意識が向上して褥瘡(とこずれ)で苦しむご老人が激減したこと。1995〜2005年頃のこういう地味な努力は明らかに実っている。

その意味で、アメリカの大富豪やアラブの大富豪は別として、世界中でもっとも不平等がなくどんな社会階層の人でも公正で医学的な医療を受けられる国は日本が一番なのだ。今でも。

話がそれた。
言及したかったのは、医療サイドの意識が変わったことで、日本の病院食は世界一の内容となったことだ。さらにいえば、患者も医療者も舌と眼が肥えて、厨房の設備の進歩や給食システムが向上したこともあるだろう。

お粥も、日本の場合、流動>三分粥>五分粥>七分粥>全粥>常食と区別がある。医学的には余り意味がなくて「文化的な」ものではあるけれど、このきめ細やかさが日本の良さ。日本の主食はご飯、お粥を中心として、麺ではうどん、そば、中華麺、やきそば、らーめん (温かい味噌ラーメンですぜ)etc 飽きないように工夫されている。これも素晴らしい。

欧米では流動食(水、コーラなどのソーダ、ミルクなど)、次のステップ(抜くこともよくある)がスープ、オートミール、パンなどのドロドロの食事、食べられれば最終段階のsolid mealだ。簡単にいえば3段階。それもチキン、ビーフが多い。宗教的な理由がある場合などはveg meal。感じとしては一昔前の機内食のイメージか。勿論アメリカの場合には(もちろん日本にも)上には上があるけれど、味も内容も平均では断然日本の方が上だと思う。というか、日本の場合、彼らと比べられたら失礼かも。

ネットで韓国の事情を調べてみると、韓国では入院の時付き添いのおばちゃんを雇うのが一般的だという。食事はさすがにお粥文化の国なので、内容が各種あるみたいだ。キムチとかナムルとかは必須で品数も多い。しかしメニューの内容は全然単調で変化がなさそうだ。日本と同じで主食(米飯、粥)と副食にわかれている。サイトに韓国の病院食が紹介されていたけれど。日本のほうがヴァリエーションがあって全然おいしそうだ。

台湾の病院食についてはちょっと興味がある。調べてみよう。やっぱり海鮮粥が美味しいのか?、ちがうってばっ(笑)

追補:ネット情報によると、台湾で入院する場合、食事は基本的には持ち込み!らしい。国民皆保険だが自費診療は高くなるらしい。それでも日本と比べれ1/2~1/3ば安いとのこと。

ということで、本日から第9クール開始。食べ物のことを考えられるだけいいかな。頑張りましょう!

January 14, 2013

雪の日の情景

成人の日。朝から予想以上の雪となり、あれよあれよという間に風吹の大変な天候になってしまった。風も強く体感温度はかなり低かったようだ。20cm近くの積雪(横浜)は20年近く記憶が無い。連休だったので病院から外泊していたのだが、明日からの化学療法があるので早めに自宅から戻ってくることにした。

雪の日の記憶は多くがセンティメンタルだ。特別な出来事があったわけではないのに何故か忘れられない「雪の日の情景」。いろいろ記憶を辿っていたら、さまざまな場面を思い出した。

ハックルの相方・しのねじょうじと作ったCalifornia Dreamingは、1975年頃の自分たちの姿だ。この頃の事については「携帯電話のなかった時代(ころ)」に纏める予定だけれど、サボっていてなかなか進んでいない。そろそろ再開しなくては!
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California Dreaming
作詞・作曲
篠根丈二・松村光芳 (2010)

あの頃の僕たちは なぜ生まれてきたのか
わからないまま はしゃぎまわっていた
あのころの僕たちは やるせない想いを
持て余していた 泣きだしそうな気持ちで

  粉雪 舞い散る 真冬の坂道 
  僕らが口ずさんだ
  California Dreaming
  まだ見ぬ世界に 夢を馳せ 憧れた
  町並みを歩いた ただ 君を憶い

あの頃の僕たちは 時間を忘れ見つめ合う
そんな言葉をさがす 幼い恋だった
あの頃の僕たちは 知らぬ間に傷つき
出逢った街で 後ろ姿を見送る

  粉雪 舞い散る 真冬の坂道 
  僕らが口ずさんた
  California Dreaming
  まだ見ぬ世界に 夢を馳せ 憧れ
  まるで未来が 僕らのために

あの頃の僕たちは 時間を忘れ見つめ合う
そんな言葉をさがす 幼い恋だった
あの頃の僕たちは 知らぬ間に傷つき
出逢った街で
はしゃぎまわっていた
泣きそうな気持ちで
幼い恋だった

January 13, 2013

ディクテーション文化

欧米の医師はカルテを手書きにする事はしない。正確に言えば、メモは手書きだが正式な記録はそのほとんどがディクテーションされたものだ。hand writingが汚くて読めないということもあるが、記録するコンテンツは殆ど全てタイプする。欧米の医師のカルテは皆美しく読みやすいというのは、全く誤解だ。ディクテーションがなければどうしようもないというのが正直な所だ。

ディクテーションで殆どすべてを記載する。必要な内容は翌日(遅くとも翌々日)には秘書がファイルを自分のデスクに持ってきてくれる。医師は内容を確認後サインアウトする。電子カルテになった今ではもっと迅速にデータのやりとりが可能になってるはずだ。

僕も当初、ディクテーションには苦労した。英語にはそこそこ自信はあったのだが、毎回の手術後にディクテーションのブースに籠って記録することが、ストレスだった。慣れないうちは一本(1症例)を記録するのに何回もやり直して1時間近くかかったこともある。ボスは僕が始めから「当然出来るものだろう」と思っていたけれど、慣れるまでの一ヶ月くらいは必死だった。あとで気付いたのだが「英語的に間違ってない様に話す」ことに捉われて、一所懸命になってたのだ。ポイントはそこではなくて、自分のスタイルでいかに記録をするかなのだ。

ディクテーションルームのおばちゃん達とそのうち知り合いになり、marc のくせ(アクセント)がわかったわ、と言われる様になってからは、随分スムーズになった。そのうちに適当に正しく直しておいてくれるようになった。

今となっては懐かしい思い出だ。

同僚達は若い頃から皆、例外なく巧い。欧米の(医学)教育の中で症例報告は基本中の基本技術なのだ。だからその教科書もあるし様々なレベルの講習もある。日本の医学教育にもプレゼン演習はあるが、要求されるレベルは全然違う。今まで個人レベルで勝負していたけれど、これからは基礎技術とされるだろう。

このディクテーション、実はコツがある。難しい事ではない。プレゼンには「型がある」のだ。病棟での症例報告、ディスカッション、手術記録、外来記録、サマリーetc、この「型」を理解して自分のものにすれば、あとはずっと楽になるものだ。

と、ここまで書いてきて気がついた。

ディクテーションの時代はもう既に終わっている。今は音声認識ソフトを使った医療情報の時代なのだ。ということは、従来のディクテーションの技術や文化はもう過去のものになりつつあるという事だ。欧米の現場じゃ既に普及していると思うけれど、僕は経験はない。

反面、これからもTEDなどのプレゼン技術は進んでいくのだろう。

January 11, 2013

総子化(そうしか)

博報堂生活総合研究所より

この30年間で日本の人口構成は様変わりした。一言で言えば、皆長生きして寿命が長くなったのだ。今日本は全人口に占める割合でも、人生における時間でも「子供」であることが多数になり、まだその時間が伸びていく。これを「総子化」と呼ぶ。

たしかに僕らが医師になった1982年頃の状況とは全く異なっている。看取る立場の僕らの意識も随分変化した。例えば当時は、胃癌にしても大腸癌にしても80歳以上で開腹手術をすること自体がそれなりにリスキーで稀なことだったのだ。それが今では80歳代でも90歳代でも元気であれば安全な手術が可能となり、それが標準になった。

長生きが当たり前になるとともに「子供」が増えている。それも未成年ではなく、成人であり、かつ自分自身の親が存命である「成人子供」が増加している。

1950年には総人口の29.0%にとどまっていた成人子供の割合は、1965年までに未成年子供人口の割合と逆転、2000年には総人口の約半数を占めているという。たしかに世の中には元気な爺婆とその子供世代が確実に増えている。

2010年の総「子供」数は成人子供と未成年子供で8,700万人という。特に注目すべきは30代以上の「中高年チルドレン」の割合の増加が顕著で、2030年には総人口の約4割を占める込みだという。また、結婚していない30歳代40歳代男女のマスは大きい。未成年に成人子供を加えて「総子供平均年齢」は32.8歳だ。これでは子供は増えないし社会の活性化は期待できそうもない。

親子共存年数は約60年になり、人生の2/3は「子供として」過ごすことになるという視点はおもしろい。いつまでも親のスネを齧って生きていくということでななく、普段は核家族として分散している個々の子供たちの力を集結させ、一族というチーム力で困難かつ不透明な時代を乗り切ろうという「一族発想」という考え方だ。家族の生き方の多様性という観点からも興味深い。

日本にある(ことになっている)個人資産のシフトと流動化と絡んで、これが本当に進めば面白いと思う。というか、もうそのくらいしか日本の産業構造を変えて、景気をBreak throughできるインパクトのあることないと思う。ただ、ここまで核家族化が進み生活の多様化が進んだ現代の日本の社会で、どこまで世代間のインテグレーションとかコラボレーションが可能なのか?まさにその先に日本の未来の家族の姿が見えてくる気がする。

さすが博報堂生活総研、興味深く読みました。

http://www.hakuhodo.co.jp/archives/newsrelease/8060

January 10, 2013

青春は切ない時期なのさ

http://youtu.be/WXaXKS7kofM

Bruno Mars:
”Unorthodox Jukebox”
When I Was Your Man.  新しいけど懐かしい感じ。歌詞もセンティメンタルで胸キュン(w)。FMサルースの森田まなさんに教えてもらった楽曲。

歌詞が切ない若い恋愛の歌。ウチらの「携帯電話のかなかった時代」のイメージと勝手にシンクロしてるんだけど(笑)。

Same bed but it feel just a little bigger now
Our song over the radio but it does't sound the same
When our friends talk about you, all it does is just tear me down
Couse my heart breaks a little when I hear your name

なかなかいい曲です。


January 9, 2013

猫は甘みを感じない


白倉先生からの受け売り。メモランダムとして記録しておこう。彼は日比谷の1年後輩にして、大学の同期(つまり彼は現役)の優秀な耳鼻咽喉科のスペシャリストだ。

ウィキペディアで下調べしてみると、様々な研究が進んでいるらしい。味覚や嗅覚というのはprimitiveな感覚で、定量化定性化が難しく未知の分野がまだ多くあるみたいだ。今回化学療法の影響で、食欲がなくなったり、味覚や嗅覚が変化して苦労した経験から、味覚がいかにQOLに関係するか再認識したのだ。やはり美味しい物を美味しく食べるのは生きていくことの基本。

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味覚には個人差があり、味の好き嫌い(嗜好性)は人によって異なる。味覚の鋭さ、言い換えると味覚の感受性にも個人差がある。味覚の感受性も、嗜好性と同様に、その人の食習慣や経験などによって後天的に変化しうるものだが、それとは別にその人が生まれもった、味覚受容体遺伝子レベルの違いが存在する。


味覚受容体の遺伝子に変異があると、その受容体と反応するリガンドとの結合性(親和性)が変わることがあり、これによって閾値が変わる。例えば、マウスではT1R3の変異によって、甘味の感じ方が系統ごとに異なる。またネコは甘味を感じないことが知られているが、これはT1R2の遺伝子が変異した結果、正しく受容体として発現しなくなっているためだ。またヒトでも、特定の味物質を感じない人がいるということが報告されており、このような現象を「味盲」と呼ぶ。ヒトでは苦味物質の一つであるフェニルチオカルバミド(PTC)に対する味盲が有名で、その受容体であるT2R38の変異によることが判明している。

ふむふむ、様々な因子が関与しているものの、究極的には遺伝子レベルの個体差なんだね。



さらに・・・甘・塩・苦・酸味のほかにうまみセンサーを持っているのが多いのはラテン人、揚子江以南の支那人、日本人とのこと。アングロサクソンや朝鮮人、華北支那人は少ないらしい。これは非常に興味深い。フランス料理、地中海料理、広東料理そして日本料理とそれ以外の地域の料理の味付けをを考えると、なーんとなく判る気がする。やはり旨いもののあるのはこの地域。フレンチの根っこにイタリアン(というか地中海・ギリシャ料理)、中華料理は別格として、我が日本料理は極東で独自に発達したものなのだ。比較文化的に興味深い。

January 8, 2013

消費生活世代

大量消費生活の恩恵にどっぷり温々と使った我々の世代。

生まれて初めての大きな消費が自動車だった。今じゃ想像もできない話なのだけれど。
猫も杓子も、お金がないくせに車を持った。みんな一所懸命お金を貯めて頭金を作ってせっせとローンを払った(当時はトンでもなく金利が高かった)。車を持って初めて「一人前」という風潮もあったし。踊らされているだけで、都内で実際に車を所有する必要性なんてないのに。

とにもかくにも「自分の車を所有して彼女をデートに誘う」ということが、当時の若者達にとっては今では想像できないくらい大切な事だった。猫も杓子も必要もないのに車を買い、その周辺のモノを買ってお金を使うわけで、日本の景気を左右するくらい大きな原動力になってはずだ。ちなみに2000年ごろの韓流ドラマをみていると留学など欧米の大学生活を経験して、車を自由に乗り回す事がカッコいいという世代が出てきて、もうそれをとっくに卒業している日本との違いが面白い。ざっと20年の差がある。マスの大きさを考えると中国の消費活動がどう変わるかで大きく未来がかわるはずだ。

車ひとつとっても一事が万事そうだった。その恩恵に浴した我々の世代は何をしたか?大量消費世代の先兵として、テレビもオーディオもパソコンも、真っ先に飛びついた。ある意味で「いいカモ」世代だった。ずいぶんいい想いもしたけれど、堅実な若い世代とくらべると良い悪いでなく確実に価値観が違う気がする。でも、そうして大きな経済の歯車が回っていて、景気を持ち上げて様々な恩恵に浴していた。良い時代だったことは確かであるけれど、ハリボテみたいに実体以上に見栄を張った世の中だった。殆どの消費者はモノの良さについては判ってなかったと思う。

値段が高ければ「きっと良い物なんだろう」と思いたかった(笑)。価値がわからないから、値段が高いと安心するのだ。先日のテレビ番組の番組の一流芸能人、ニ流芸能人みたいな格付、面白かった。所詮そんなものなのだ。


January 7, 2013

キメの細かい親切さ

We will "soon" make a "brief" stop at Jiyugaoka.
(もうすぐ)自由ヶ丘に(ちょっとだけ)止まります

soon とbriefは不要だと思う。というか、そもそも必要な情報ではない。敢えて言えば次の駅が自由ヶ丘だってことだけで十分だろう。そ

僕が知る限り、これほど親切に、行き先、乗り継ぎ、乗り換え、さらには所要時間までアナウンスする国はない。業客を子供扱いしているのか、パターナズムなのか。以前からあの大きな音の発車前のベル(出発の合図)だって、当たり前のことみたいに慣れてしまっていれど、世界的に見れば稀有なことだ。

改めて考えてみるとあのアナウンスも、乗客へのnoticeというよりは鉄道会社の自己防衛のためって気がしてきた。曰く、電車が揺れるので気をつけろとか、急停車をすることがあるので注意しろ、とか当たり前のことじゃないか!女性専用車両だって、今更特別アナウンスする必要なんてないだろう。必要を感じれば勝手に動くわけだし。つまり、もしそういう事故や不都合なことが起こった時に、「ほーら、だから注意しするようにいったじゃない」という言い訳になる。

でもね、要はバランスだと思う。社会が「みんなに親切なこと」は多少面倒くさかったとしても素晴らしいことなのだ。この洗練された「キメの細かい親切さ」みたいなところが「おもてなし日本社会」のお得意な部分。

これからの超高齢者社会にむけて、さすが日本!っていわれるコンテンツになりうると思う。あの繊細な超高機能ウィッシュレットを普及させた日本のことだから、その未来に期待している。それ、ちょっと違うんだけど(w)

January 6, 2013

八重の桜が始まった

「八重の桜」綾瀬はるか。堀北真希の「梅ちゃん先生」の時も書いたけれど、この人も特有の「聖女性」を持っている。あくまでも見た目の印象だけど、彼女のことが嫌いな男性はいないだろうな。美しい、可愛い見た目の人は世の中に沢山いるけれど、こういうドラマ性のある雰囲気のそうそういない。

今日から始まった大河ドラマはFB でお友達になった菱川勢一さんがタイトルバックをやっている。音楽は教授。テンポも素晴らしく初めから引きこまれた。やはりNHKの底力はすごいものがある。

若いころ郡山に1年間出張していた関係で、以前から福島には親近感があり、会津ものは以前から興味を持っていた。歴史の教科書は、日本の近代史は薩長中心に書かれているのでどうしても会津のことはあまり知らないことが多い。幕末と御一新後、さらに戊辰戦争や西南戦争のあたりはぐちゃくちゃで、たぶん当時の日本人でさえも事態が把握できていなかったんだろうと思う。

もうひとつのポイントは、敵味方がはっきりしない(事にしている)のと、本気で殺し合いをしていない(だって立場をかえれば皆日本人で同胞である)という認識があったことだと思う。この曖昧で複雑な時代背景が少し理解でてはじめて、僕は明治維新とか幕末とか理解できた気がした。

会津の什の掟のことは知らなかったけれど、誇り高いこの時代の日本人の凛とした素晴らしさは、世界に冠たるものだったと思う。そして保守的でありながら革新的で上昇志向があるあの時代の素晴らしさ。

新島八重という女傑についてどんな描き方になるのかすごく興味がある。八重さんの写真を見ると綾瀬はるかとは全然雰囲気(笑)が違う女性みたいだけれど、進取の気性のある女傑であったことは間違いない。そうそう、新島襄についてもさまざまなエピソードがあるらしく、同志社の歴史も含め、あの時代が楽しみ。日曜夜の楽しみができた。

January 5, 2013

C&Pしているんでしょ?(笑)

有名な経営コンサルタント(というのかな?)がいる。いつからかFB友達になっていて、その人がほぼ毎日FBで発言するので必然的に彼の発言を読むことになる。毎回アップされる内容に殆ど変化はない。

「・・・昨日と同じく今日も仕事のあとジムに来て、自転車バイク10キロ、筋トレ、ストレッチ、クロールと平泳ぎを交替交替にノンストップで水泳1200メートル終了・・・」

はじめは、へえ、スゴイなあ、エライなあ、と感心していたのだ。でも、だんだんウザくなってきた。なぜなら殆ど毎回その内容に変化はないし、わざわざ他人のトレーニング内容を知る必要なんてないから。

つまり、その彼がどれだけ運動しようが節制しようが他人からすれば「大きなお世話」なのだ。とんでもない記録を打ち立てたわけでもないし。100歩譲っても、それを報告する必要ありませんから…(笑)。あまりにも毎回内容が一緒なので、毎回copy & pasteしてるんじゃないか?って疑ったりして。それもサバを読んで記録してるんだろうなって思ってる。

日々の記録は人に見せることなく、別の所に記録しておくのが普通だろう。多くのアスリートがそういう記録をとっているのは、自分のためなのだ。ところがこの人はFBでエントリーをすることが目的化している。まるで自分の存在を誇示する犬がマーキングのおしっこをするよううに。普通ならば「みっともない」「恥ずかしい」と思う。

そうは言っても、週3−4回はジムに行き身体を動かしていた頃と違って、残念ながら今の僕には何も言う資格はないよね。

January 4, 2013

こまとうな人々

僕は都立日比谷高校の出身だ。公立学校のナンバースクールとしての長い歴史があるので、ある程度のスクールカラーはあるにはある。でもそれは私学のスクールカラーとはニュアンスの違うものだ。僕らの場合、凋落の一途を辿っていた名門都立高校の最後の栄光の歴史のおこぼれを貰ったにすぎない(現在は復活しているらしい)。

東京の私立の学校の場合、学力もさることながら、保護者の職業や属性、考え方etcの様々な要素でスクールカラーが決まってくる。だから僕らは出身校が判ると、その人の雰囲気、興味、趣味、考え方 etc、ある程度の想像ができてしまう。つまり男子も女子も出身校でイメージできるのだ。もちろん最近の事情についてはわからないけれど。

さて、ある学校の出身者には特有の雰囲気がある。
その学校は駒場東邦。

中高一貫の名門男子校である。僕はこの学校の出身者と何故か気が合って、以前から親しくしてもらっている。というか、異様に僕の周りに出身者が多いのだ。進学校なので出身者に医師が多いこともあるけれど、様々に繋がったご縁がある人たちが多い。

彼らの特徴としては、やさしくて穏やかな人柄(一言で言えば「いい奴」)が多いことだ。声を荒げることは皆無で、いつもニコニコしている印象。みんな礼儀正しく上品で、育ちのよさがにじみ出ている感じがする。人の足を引っ張ったり人するあまりいない。

視野も広くて、偏差値至上主義のガリ勉はむしろ少ないのも特徴か。学校の勉強だけでなく、音楽や文学の世界に向かう人もいる。

反面、やさしすぎて「ぬるい(微温い)」あるいは「ぬくい(温い)感じがあって、他の進学校(たとえばKとかA)とは、一線を画している感じがする。人を押しのけてでも!というポリシーは、もともと育ちのいい彼らの辞書にはなくて、その位なら自分が身を引いて別の道を探す方がいいやって考える感じがする。

僕はこの「温い感じ」が駒東生の最大の特徴じゃないかと思ってる。
本当に良い奴が多いのだ。

January 3, 2013

嬉しい誤解

年末からこの正月にかけて病院から脱出(笑)して自宅で過ごした。直前まで外出できるかどうかわからなかったけれど、幸い体調も良くて年末年始を過ごすことができた。有難いことだ。

ブログやフェースブックを読んでいる人から見ると、割と元気に見えるらしい。実際、かなり元気だし、時々外出もしているし、結構美味しい物も食べに行ってるみたいに見えるらしい。人によってはもう病気が治っていると思っている人達もいるみたいだ。実際には大変な時もあるのだけれど。まあ、滅入っても仕方ないし、カラ元気という事もあるけど(笑)。

逆に、敢えて否定する必要はないけど、少しは病人らしくしないと、本当に元気なように誤解されるみたいだ。こういうポジティブな誤解は良しとしなくては。

人生にはまだまだ体験してないことがある

昨夜のBSでやっていたNHKのTED特集のひとつ。マルコ・テンペストの素晴らしいパフォーマンス「テスラの人生」。最近流行りのプロジェクション・マッピング。ふへ〜、スゴイねえ…と感嘆符しか出ない圧倒的な素晴らしさ。
http://www.ted.com/talks/lang/ja/marco_tempest_the_electric_rise_and_fall_of_nikola_tesla.html

January 2, 2013

優秀な人達

小学校から大学、医師になってからも、さらに社会に出てからも、多くの「優秀」と言われる人たちを見てきた。そして常に「上には上がいる」ということを学んだ。

僕らのような常人レベルを、完全に超越した才能と力量をもった人たちが、世界にはいくらでもいるのだ。本当にキリがないくらい上がある。それでがっくりしていても仕方ない。本当に「出来る人」は何をやってもできる人なのだ。でも負け惜しみをいえば、みんながみんなイチローになれるわけではないし、出来る人が必ずしも幸せになれるわけでもない(と思う<笑)。

我々「普通の人」にとっては地道に努力することが結局は近道で、大学受験なんて一番わかりやすい例だ。特別な才能は要らないし、ある程度の努力でそこそこの結果を得られるわけで、勉強してシコシコと地味に力を蓄えるしかない。後はある程度の勘と解答テクニックか。とにかくどんな試験でも点数を取ることなんて「なんてことはない」マターなのだ。多くの受験生はそこを勘違いするんだけれど。

努力して高得点を取れる人たちと、ここでいう3−5%の「天才たち」は全然違う。彼らは例外なく「すごいこと」をあっさりと「ふつうにできる」のだ。彼らは受験勉強なんてハナから問題にしていない。こういう人たちには彼らには日本の教育システムの枠を超えて飛び級なんかもっと進めて、どんどん成長してもらいたいと思う。それが世のためになるわけだから。

ということで、ここ2−3年くらいで少し潮流が変わった様に感じている。311とFUKUSHIMAを経験して日本人のDNAに組み込まれた何かが目覚めた感じというか。
日本の優秀な若い人たち ”promised young” に期待したいと思う。

January 1, 2013

元旦2013

30日から外泊して自宅で静養中。やはり自宅はいいなあ。この正月は自宅でおせちとお雑煮という幸せ。とくに何をするというわけでもなく、うだうだと過ごして年が明けた。体調もまずます。新春メッセージをこのブログに書こうかとも思ったけれど、止めとくことにした。ふつうの生活をふつうに続ける事。これが今の僕にとって一番大切な事だから。

今はささやかなことでもできるだけ書き留めておくようにしたい。やれる事をやれる範囲で。その意味で、ちょっとリセットして途中で中断している書き物も再開したい。自宅(とか病室)で書き物をしてると、どうしても睡魔に襲われてしまうという悩みを、先日さとなお君に言ったら、ノマドの効能について教えてもらった。ふーむなるほど、やってみる価値は十分ありそうだ。