August 31, 2012

E-doctor より転載させていただきました


神津 仁 院長
神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
9

「夏にはいろいろなことが起きる~松村光芳先生とのこと~」

http://www.e-doctor.ne.jp/contents/kozu/1209/
 夏風邪といえば、プール熱に代表されるようなアデノウィルス感染が定番と思うのだが、今年の夏は「咽頭結膜熱」といわれるアデノウィルス感染の症状をあまり見なかった。2009年の夏には新型インフルエンザが流行した。暑い夏にマスクをするから、眼鏡が曇って困ったことを思い出す。その感覚があるから、高熱を出す患者を診ると、すわインフルエンザかと「インフルエンザ簡易テスト」をやってみるのだが、陽性になる患者はいない。時々見るのは「成人百日咳」で、まだまだ市中では流行っているようだ。長引く咳、咳き込んで夜も眠れない、という患者がいたら、是非百日咳抗体価を調べて欲しい。適切な指導と治療によって、感染の拡大を防ぐことが出来るからだ。国には、海外と同様に「青年用三種混合(Tdap)ワクチン」が早く使用出来るよう、さらに努力を重ねてもらいたいものだ。
 さて、8月3日から英国のHull York大学の5年生が3人研修に来た。世田谷区若手医師の会の幹事をしてくれている松村光芳先生が、ボランティアで海外の学生を日本に受け入れる窓口をしていて、その活動の一環である。当初から、松村先生の出身校である昭和大学と松村先生が院長をしている奥沢病院とがホストとなって学生を受け入れている。病院だけの実習では味気ないので、クリニックとして彼等を引き受けてもらえないか、と松村先生から頼まれた。松村先生はニュージーランドで小児外科のレジデントを経験し、とても親切にしてもらったから、その御礼にと海外の学生の地域医療実習を引き受けることにしたという。言葉で説明するのは簡単だが、実行するのは誰でもが出来ることではない。私もアメリカ留学で国際的な感覚を身につけていたし、言葉もそれほど不自由しないので、松村先生の依頼であれば、と毎年海外の学生を引き受けるようになった。私と同じようにアメリカでの暮らしが長く、英語が出来る外科医の島津盛一先生も研修生を引き受けてくれた。
 第一回の研修生受け入れは2003年、Manchester Universityの5年生のMark Ashton君だった。彼は柔道の有段者で、講道館で柔道をやるのが夢だったとのこと。とても優しい好青年だった。

 英国では、5年生が日本の6年生と同じ医学部の最終学年に該当する。この学年を終了すると医師になるのだが、卒後研修を受ける時に、病院勤務医になるのか、研究者になるのか、保健所などの公衆衛生の場で働くのか、あるいはcommunity doctorとして家庭医(general practitioner=GP)になるのかを決めなければならない。MarkはGPになることを決めていた。数年前に松村先生が彼の結婚式に呼ばれて英国に行ったと聞いた。今では立派なGPとして地域で活躍していることだろうと思う。
 第二回は2004年にカナダからPeter Pavlovich君が来た。

 大学はUniversity of British Columbia Medical Schoolで、やはり5年生。アメリカ、カナダでは、医学部のある大学に入る前にcollegeを出る。加えて社会的な活動をしたり、研究室の助手の経験をしたりすることが、医学部受験の時に有利な条件となる。Peterも物理系collegeを出ていて、学生の時にいろいろな奉仕活動をしていた。socialdanceが得意な好青年だ。彼は眼科志望だったが、カナダでは眼科医になるのは狭き門の様で、一年留年してまた翌年に日本に来ている。今は病理医としていろいろな病院で活躍していると聞いた。

 彼の日本贔屓は、愛車がNissan Skyline GTRというのでも分かる。一昨年久しぶりに日本に彼が来た時に旧交を温めることが出来た。私の愛艇に乗せて城ヶ島でマグロ寿司を食べたのは楽しい想い出だ。
 その後、香港の学生、フィリピンの学生、カップルで来たイギリスの学生、オーストラリアから来た学生など、様々な学生たちが来日して実習をしていった。このactivityが始まってから、もうそろそろ10年になる。最初のうちは松村先生のお知り合いの弁護士さんがhome stayの場を提供して下さって、そこから医療機関に通っていた。そのうちに昭和大学にある国際交流センターが受け皿になって、医学部構内から徒歩1分のstudent flatを宿泊施設として提供することが出来るようになった。本来、昭和大学の国際交流センターは、日本国外の他大学に昭和大学の学生を派遣して様々な経験をさせるということが目的の施設。ホームページの紹介文を見てみると「1年生には海外生活の体験と英語教育を中心に、2年生からはライフサイエンスのクラスに参加できるように、さらに高学年では臨床の現場で実習できるカリキュラムを組んでいます。2006年度より1年生に米国オレゴン州のポートランド州立大学での4週間のサマープログラムを提供しました。ホームステイは米国の生活を知る上で大きな意義があり、全学部から2006年23名、2007年13名が参加しました。専門科目の教育が本格化する2年生からは、長期休暇を利用して海外の提携校で基礎科目を中心としたライフサイエンスの勉強を学ぶ学生も増えています。ここでの海外生活体験記は、レポートとして毎年提出させています」とある。その逆に海外の学生を受け入れる、とは書いていないのだが、松村先生の趣旨に賛同して、支援をしてくれている。「理事会を通さないと…」などと、堅苦しいことは抜きにして協力してくれる昭和大学は素晴らしいパフォーマンスだ。今回も、国際交流センターの三浦さんがいろいろと準備を手伝ってくれた。
 実は、今回の英国のHull York大学の5年生3人の受け入れに関しては、いささか従来とは勝手が違った。というのも、いつもは松村先生が大方の準備をして、私と島津先生はclinicサイドとして学生を一日か二日預かればよかった。時には学生を飲みに連れて行ったり、家に呼んでうどんを食べさせたり、海に連れて行って船に乗せたりと、お互いに国際交流の機会を楽しめばよかった。しかし、今回は松村先生が病に倒れた。たまたま撮った頭部MRIに影があって、それが良くないものだった。手術をして放射線をかけ、化学療法をするのだが、脳機能の低下が時折起こるために、今までやっていたような全体をorganizeすることが出来なくなったのだ。「学生教育に慣れた先生に是非お願いしたい」と電話を頂いて、事情が事情だけに引き受けることにした。それから、学生たちとのメールのやり取り、昭和大学との連絡という、新しい仕事が出来た。大学側が必要な書類(CVやID作成用の顔写真の提供、ワクチン接種記録など)を用意するのに学生とメールで連絡を取るのだが、時差が8~9時間あるのでレスポンスが遅く、学生の方は4年生の期末試験で忙しくて連絡が取りづらい。まったくの初対面だから、最初はメールのやり取りも控えめになっていた。そのうち慣れてきて、割合と気持ちが通じる文面になって来た。その中で、何日のいつの便で来るのか、だれがどこに迎えに行くのか、など細かい打ち合わせが必要になって、何回もメールのやり取りをした。いくつかのメールを紹介しよう。
 そんなこんなで、8月3日、Jessicaから電話が入った。
「これからリムジンバスに乗ります。午後2時頃に着く予定です」
と。無事着いたのだ。
「私のwifeが迎えに行くから、セルリアンタワーホテルで降りて待っていなさい」
と電話口で伝えて、家内に迎えに行ってもらった。
 よく聞くと、この便で日本に着いたのは2人で、ポルトガル人のJulioは5日に来るとのことだった。イギリス人が二人、ポルトガル人が一人の三人が今回の実習生だ。クリニックには三人揃ったところで6日に来てもらった。午前中はクリニックのオリエンテーションをして、昼ご飯に三軒茶屋のキャロットタワーにある「三崎港」という回転寿しに連れて行った。このために「Sushi English」という、寿司ネタを英語で書いたネット上の資料を渡した。young yellowtailはハマチ、salmon roeはイクラ。イクラは初めて食べた、と喜んでいる。Julioが美味しいと言ったのはクジラだった。寿司の皿が色とりどりなのは、色や柄によって値段が違い、最後に皿の色と柄を揃えることで計算が簡単になるのだと説明すると、感心していた。

 実は、松村先生と私は彼らが日本に来る前に、どこを実習先にしようかと相談をしていた。7月の終わり、暑い日差しの中、松村先生を入院先の病室に訪ねたのだが、短パンにTシャツでリラックスした感じで私を迎えてくれて、思いのほか元気で安心した。昭和大学では連年通り小児外科病棟での見学をすることになっているとのこと。しかし、それ以上のmanagementは今の松村先生には難しいと分かった。「漢字が出て来なくて、変な文字になってしまうんです。英語はまったく問題ないんですが」と戸惑いを隠さない。それでは、八王子の永生病院と原宿の甲状腺疾患専門病院の伊藤病院にお願いをしてみましょう、とその場で永生病院の安藤高朗先生と伊藤病院の伊藤公一先生に電話を入れた。二人とも、一つ返事で快諾してくれた。永生病院は地域の中核的な医療・介護施設として、素晴らしい活動をしている。介護老人保険施設、認知症グループホーム、地域リハビリテーション支援センター、また一般救急対応まで、地域のニードに応じて展開する日本型の地域医療密着型病院を是非見て欲しいと思った。また、甲状腺疾患に特化した高機能型の市中病院が日本にあることを知って、彼らがどう考えるかも聞いてみたかった。
 さて、彼らはこの実習の間に京都へ行き、スカイツリーで買い物をし、富士山に登った。日本を楽しんで、日本の医療文化の一端に触れ、Fareastの国の人達を知ることによって、今後の医師の人生がそれまでと違ったものになったら、それはそれで良い経験なのだろうと思う。

 松村先生が作ったこんなに素晴らしい国際交流の場が、今年を最後に、なくなってしまうかもしれない。というのも、松村先生の病状がcriticalだからだ。この文を書いている今も、化学療法で叩かれて辛い思いをしているに違いない。しかし、そんな自分を医師の目で客観的に見ている、素晴らしいpersonalityがいる。松村先生の意思を、どのように繋いでいったら良いのだろうか。今こうしてHull York Universityの学生の面倒見ながらも思い悩んでいる。この夏、いろいろなことが起きて、空気は次第に秋の匂いを漂わせている。若い燃えるような命と引き換えに、終末に向かっていく命とその輝きを見つめながら。

 松村先生が、9月21日に講演会をすることになった。「めぐろパーシモンホール」だ。住所は東京都目黒区八雲1-1-1(TEL:03-5701-2924)。開場18時30分、開演は19時の予定だ。200人は入れるホールなので、読者が何人か来て頂いても大丈夫だと思う。以下、松村先生自身のアッピール文を載せておきたい。
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☆ 55歳、医師, ミュージシャン, ブロガー, marc の講演会です。
 生来健康で超元気。毎日を全速力で走っていた(はず)だった僕は、ある日突然脳腫瘍(神経膠芽腫)と診断され、自分の死と直面することになりました。
 近い将来の不可避な運命として、自分の死が迫ってきているとしたら、あなたはどうしますか?どんなことを考え、何をするでしょう?
 僕が今何を感じ、どんなことを考えているかを、できる限り自分の言葉で皆さんに伝えることが出来れば、と考えています。
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2012.09.01 掲載 (C)LinkStaff
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August 30, 2012

らーめんネタ:和光、ぴか一、万世麺店 など

高校半から浪人時代の、もうこれはマザーフードといっていいだろう。家のご飯を別にすると、週に2−3回、場合によってはそれ以上食べていたかもしれない。というか、当時はそんなにチョイスがなかったのだのだな。とにかくハマった。

まずは「和光」。
僕とじょうじ君の家の近くの文京区水道にあったいわゆる街の中華屋さん。ここは今思い出して本当に美味しかった。昼間の営業夜の営業。小柄で痩せていて、余計なことは一切言わない寡黙なご主人がカウンターのみで仕切っていたが、時々奥さんが手伝う。製版や印刷製本の会社が集まっているあの地域で、毎日21時くらいまでやっていたと思う。デフォルトのラーメンがしっかり美味しい。いわゆる東京ラーメン。サイドを固める軽めの餡がジューシーな餃子。でも、ここんちはなんといっても、焼肉定食(豚ばら肉)だ。今考えると、いわゆるサムギョプサル。ラードを熱した中華鍋に投入して塩コショウして仕上げはラーメンの醤油だれをジュジュっと入れる。千切りキャベツのてんこ盛りに乗せたお皿に油をじゅじゅっとのせる。それだけ。ご飯だけれ3杯食べられる(笑)。これに前述したラーメンか「野菜スープ」か定番だった。ラードの油膜が1ミリ位あって熱い(笑)。濃厚塩味。あとは野菜炒め、ソース焼きそば、たまにレバニラなど。おお、チャーハンも白眉だった。今でもいつでも恋しいあの味。

この店は、浪人時代は確かにあったが、僕が大学2年になって実家に戻ってきたらその頃はもうなかった。夜中のレコーディングをやっていた頃は、夜明け前の千駄ヶ谷のホープ軒だった。これはこれは懐かしい思い出で、ハックル的にはラーメンのイベント的には和光からのホープ軒に移行した感じか。ここも懐かしいがここ10年以上行ってない。当時の新しさがもうなくなってしまったのが残念。

万世麺の肉味噌排骨(パイコー)ラーメンは、1975年前後の僕の食事を考えると感謝を込めて書き留めておかねばならいけない。万世麺店に関しては、現存しているものの昔のものとは似て異なるものになってしまった。あのうどんのような超太麺、超大盛り、とんこつ鶏がら醤油味のスープ。万世麺店に関してもどこかで別稿に書いておこうね。

******
おまけとして神田駿河台下の「ピカいち」
今はスノボー屋さんになっている。昔はどこにでもあった感じの、いわゆる典型的な東京屋台ラーメンだった。逆に最近では絶滅してしまった感もあるシンプルな醤油ラーメンだった。
http://dondongi.cocolog-nifty.com/woodland_path/2007/01/post_6099.html
半地下に入っていく間口の小さなお店。固めに茹でた縮れの少ない麺。中細麺。スープは醤油濃い目透明。一番の特徴はねぎ油(たぶん)と生姜だと思う。あのころの定番でまず「耳かき」みたいな匙でチョコっと丼に味の素を入れて、その後にあの生姜の効いた鶏がらだしのスープを入れてた。チャーシュ(煮豚)は小さくメンマ少なめ、だったか?ご飯前なのに近くに行くと寄ってしまう麻薬的な(笑)味。「おやつ」的な雰囲気だったな、あの頃は。丼も小さめだった。1980年代に閉店したそうだ。色々探したけれど画像はない。ああ、懐かしい。[携帯]プロット。

食べれられることは素晴らしい!

今回のクールも無事終了。味覚嗅覚障害は殆ど無かっこととで、食欲が保たれていて本当に有難かった。吐き気や生欠伸はほとんどなし、嗄声に関しては様子見。概ね、今までで一番スムーズだったかも。お腹が減って普通にがっつり食べられることの有り難さ。改めて今回おいしく食べられることのことの大切さを感じる。午後からLAで公認会計士をしているきみちゃんが来院。彼とは幼稚園(!)以来の付き合い。ふつうはアリエナイこのお互いの驚くべき「ご縁」の深さに驚き感激する。夜は病院の同僚がお見舞いに遊びに来てくれたり、ハワイアンの素晴らしいレイを頂いたり…みんなの気持ちがうれしい。梅田先生とお祝いにトラジに遠征。細やかな幸せ!夕刻からは明らかに秋の風が吹いていた。奥沢神社の夕景。もうすぐ9月なのだ。

 

August 28, 2012

僕らの時代(追補変更、8/27)

55歳。1957年生まれ。太平洋戦争後の日本の復興期に生まれ、戦後の自由主義経済の恩恵を一番享受した世代。今考えてみれば、日本という国の様々なシステムが「完成形」に向けて恐ろしいスピードで進んだ時代だった。もちろん、その当時は高速で走っている自動車が自分の速度を意識しないように、イケイケで進んでいたのだけれど。

確かに日本の大量消費社会は成熟から爛熟へむかった超「熱苦しい」時代だった。その果実を実体験として持った世代なのだ。「僕らの時代」は。昭和40年からバブル崩壊。そしてその後の情報洪水の時代。この時代、本当に面白い激動の時代だったのだな。

あの昭和の時代、「ちゃんとした」「しっかりした」基本的構造は「どこか他のところ」で「自分以外のだれかが」しっかりとやってるはずだ、という根拠のない自信がどこかであった。そういう共同幻想があったんだと思う。

無我夢中で一所懸命やることの大切さ。つまりあの時代の一途な思いが日本があそこまで行く事ができた原動力になっているのは確かだ。情報の非対称ももちろんあるけけれど、流れる情報の量も質もその後は全く変わってしまったのだから。

昭和40年代の高度成長期
万博
どんどん豊かになる日本
バブル
バブル後
パソコン時代
ネットワーク

書き止めておきたいこと多数(だけど全然追いつかず/w)。

さとなおくん、ともPの二人の論客との対談2時間。個別の事例も面白かったし、気づきも多数。今日もいっぱいインスパイアしていただいた。ありがとう!

=====
追補(変更)
今夜(8・27)のニュースステーション。浅田次郎と古館キャスターの話。僕とほぼ同世代。我々は戦後資本主義社会の最も幸せ時代を生きた稀な世代であった事。これは前述したとおり。前項では「その先」については言及しきれていなかったと思う。

彼らの指摘通り、原発問題を経て僕ら(あの幸せな時代を享受した我々世代)には次に続く世代へ繋ぐ責任があるのだ、と。日本が世界に冠たる技術力をもって今こそやるべきであるのだ。その「変えるべき未来への舵取り」を託されたのが「我々の世代」のだと思う。責任は重大だ。

August 27, 2012

ああ憧れのFuka Lodge

北川先生がお見舞いに来てくれて、彼と3時間以上懐かしいアメリカ、ニュージランドでの生活の昔話。彼とは若い頃から医師として海外にキャリアを求めたという共通点があって、もう25年来のお付き合いだ。懐かしさとともに、自分が忘れかけていたあの頃の「熱さ」を感じて、今日は随分インスパイアしていただいた。

大学の医局を飛び出して、経済的に厳しい状況に自分を追い込んでまで海外で頑張った。そういうキャリア志向の根本にあったのは、何だったんだろう?当時でも外科医としていろんなチョイスがあったのに、僕らはとにかく海外へ向かった。あの時代(あの年頃?)の人生を動かすパッションとしか言えない「熱さ」。ミーハー的な単なる憧れだったのかもしれない。しかし、それがいくつかの人生の岐路であったことはたしかだ。

あの時代に本当に多くの経験があり、その後に繋がる多くの出会いがあった。大失敗も多くしたし、未熟だったことで遠回りをしたり失ったこともあったとは思う。でも、今考えてみると、多くのラッキーな出会いとご縁の賜物何だったと痛感する。

LAからあの後ネブラスカに移っていたら?デンヴァーに移っていたら?帰国してからKCMCに戻りそのまま残っていたら?大学に戻りそのまま大学病院にいたら?T大学に移っていたら?その後、NZウェリントンに移ったこと、そして帰国。大学を辞めるチョイス…。いろんなIfがあり、人生の岐路があった。しかしそれらの決断やチョイスに後悔はない。いろんな岐路があり、いろんな出会いがあり、タイミングがあり…つまり、それがすべてご縁でつながっているのだから。

ただ、尚子には苦労をかけたと思う。たまたま結婚した男がアメリカのライセンスを持っていて、自分では全然興味がないのにアメリカに連れて来れられて2人だけで出産子育て。彼女にとっては辛く心細いことも多かったはずだ。日本に帰ってからの引越しだけで横浜までに3回。まだ小さな子ども3人を抱えて大変な時期だった。僕は病院に入り浸っているし、呼だしは常にあるし海外での生活はストレスだったろう。その後にNZを2回往復の引越し、さらには帰国してから横浜で3回。今の家に決まるまでにさらに引越ししていることになる。まさに引越貧乏そのまま。今考えてみるとトンデモナイ生活を余儀なくさせてたのだねえ…。すまんすまん、ごめんごめん。

今日ニュージーランドのことを思い出していたら、やはりあの「ごく普通のNZ生活」がいかに至福の時間だったのかを痛感した。

本日の追加、憧れのFuka Lodge  http://www.hukalodge.co.nz/ 
現在入院中の今の僕の妄想として。

August 26, 2012

ケータイという言葉がなかった

James Blunt の1973のセンティメンタルに関しては、先日書いた。懐かしさと切なさ。あの歌とは偶然なのだけれど、僕らの青春時代の記憶の深いところに「あの時代」がある。僕らも2006に「携帯電話のなかった時代(ころ)」という曲を書いた。そのイメージをもとに、当時のことを1974年のイメージを中心に細切れ書きなぐった小説もどきを書いた。

1974〜1976くらいの渋谷、原宿、背伸びして六本木。シュンという高校生の男の子、タケルという親友、かおリとその親友の女の子(名前忘れた)、予備校の友達たち…実在のモデルは、いたりなかったりはしたけれど、本物とイメージはそうは離れていない。当時のどこにでもいた都内の高校生。リアルにイメージできる登場人物たち。もちろん自分とその分身たちもたくさんいる。

いつか完結へ話を進めようと思いつつ、もう6年以上経ってしまったのだ。昨夜、ふとしたことからこの書きかけのプロットのことを思い出した。それからがエンドレス。いろいろとイメージを膨らめていたらどんどん話がすすんだ(頭の中で)。おお、こんな所で随分長い間僕の知らない世界で自由に遊んでたのかい?久しぶりだね…という感覚。自分でイメージしつつ不思議な懐かしさがある。これから時間の許す限りリサーチと資料集めを楽しんでやってみよう。以前に試みて断念していた「縦書き」原稿も試してもるつもり。たぶん横書きで構想して、縦書きで書き出し(今までやってない)校正する作業になるのか?まあプロじゃないんだし、気楽に上機嫌で行こう!

August 25, 2012

紫煙の中にあったもの

たばこを止めてから数年経つ。みっともないのであまり大ぴらにカミングアウトできない話ではあるけれど。

たばこを吸い始めたのは高校2年、ロンドンのケンジントンのホテルの部屋だった。面白半分から常用するまでには時間はかからなかった。ヘビースモーカーだったオヤジの影響もあってオトナになればたばこを吸うもんだと信じていた。喫煙が自分や家族の健康にいいはずがないのは自明だし、その後も止める理由はいくらでもあったけれど、その後50歳くらいまではタバコを嗜んでいた。何よりタバコの煙を燻らす時間を愛していたし、あの一服のあとの「区切り感」が快感(依存)だった。

完全なニコチン依存症である。恥ずかしい話だ。海外での生活中は殆ど吸わない時期もあったし、仕事場(病院)では吸わなかったし、いつでも辞められると自分では思っていた。どうして止めることにしたかといえば、自分のためである。あ、家族からは随分前に三行半をつきつけられていたこともあるな。ベランダ蛍族。そんなこんなで、たばこを止めるメリットとデメリットを量ったのだ。ジムと週3−4回の水泳を初めて、あ、これは止めたほうが気持ちいいぞ、と。禁煙の圧勝(笑)。確信犯的喫煙歴うん十年だったわけだから、今更ながらまったくトホホの話だ。

結論を書くまでもなく、たばこを止めるほうがいいに決まっているし、タバコからの呪縛(呪い)から離れられて嬉しいのだけれど、最近になって自分の死を意識するようになって、少し考えが変わった。健康に生活するためにはたばこは吸わない方がいい。あたりまえだ。

でも、「健康的ではあるけれど不幸せに生きていること」と「不健康ではあるけれど幸せに生きていること」の差はどこあるんだろう?とも思う。人生は有限なのだ。

くわえタバコで海に出て一日を過ごし、漁から帰りビールとワイン、そしてシエスタ。夕方からは仲間と家族で海辺で歌を歌い踊る…
http://longtailworld.blogspot.jp/2009/04/enough.html?spref=fb
COPDも喘息も心筋梗塞も高血圧も、ソレがどうした?そんな人生くそくらえ!の価値観。この寓話のアメリカ人のビジネスマンに僕らはいつの間にかなっているんじゃないかと。あの未熟で若かった(不健康な)日々を後悔することは全くない。

あれ?何を書きたかったんだろう?
そうだ。タバコは健康に良くない。若い人は早く止めた方がいい(くどい)。

August 23, 2012

メモランダム:男の子の育て方

娘3人の子育てしか経験がないので、大して偉そうなことは言えない。でも、男の育て方についてのメモダンダムを記しておく。娘たち、あるいはまだ観ぬ自分の孫たちへのメッセージとして。

男の子は甘えん坊である。女の子が生物学的な個体ととしての「強さ」をはじめから持っているアドバンテージがあるとすれば、男の子はひ弱でデリケートだ。精神発達発育上からも、弱わっちーい。小さい頃から女の子としての個性があって自立する指向性があるのに対し、弱い男の子は、お母さんにべったり依存するが大好きだ。

というか、おかあさんのおっぱいの甘い呪縛から決して逃れることはできない。歴史上のどんな偉人もひとりの女性から生まれたのだ。

さて、様々な成長の過程を経て(大事なところをかなり端折っているが:笑)、男の子は男になるわけだ。厳密に言えば男として育てられその役割を演じるようになる。その状況で大切なポイントは「褒めてあげる事」だ。褒めて煽てて認めてあげれば、いくらでも仕事を喜んでするようになる。男は単純で刹那的に情熱的なので、感性とか知性とか正義をこねくり回す理屈より、若い頃は「さしあたりヤッテしまう」事の方にかなりのプライオリティがあるのは認めけど。

かように、上手に褒められ煽てられていれば、男はいくらでも女の下僕になる。このパワーは男女間の感謝の連鎖があれば、さらに幸せの連鎖が繋がり、さらに幸せになる。そういうものなのだ。古今東西、人類はそうやって生きてきた。

論理的飛躍は承知で上で、(女が)幸せになりたかったら、褒めることの大切さを知ることだ、と思う。

さらにこの文脈で、男の子の叱り方を考察すると、多くの女性がその配偶者、旦那、パートナー(まあどうでもいいけど)と口論の種になるものとして、

「どうしてあなたはXXXなの?」
「なんでXXXなわけ?」

と、何かおこってしまった事態に対して、Why と聞くのだ。多くの女性は。お母さんに対する男の子、あるいは奥さんに反論しようとする旦那の典型的な図。すごくざっくりした言い方をすれば、8割の怒り方(不平)はこれだ。

口喧嘩して女に勝てるわけない。

そんなこと言われてもさあ。。。というのが多くの男性からの一般的反応だろう。
口ごもって反論を試みる男性。でも勝てるわけない。
まあ、ふつうは不機嫌にイライラしつつ嵐の通り過ぎるのを待つわけだ。

でもこの喧嘩に勝者はいない。やめたほうが双方にとっていい。

何で?と聞かれて答えれるんだったら、はじめからトラブってない。女の方も、何で?という原因の「それ」を聞いているわけではないから。
これも幸せになるためには、できるだけ避けたほうが無難なことがら。

でも、それにしても多いよなあ、女の「なんで?」(笑)

以上、これから結婚をしようとしている君たちへ、のメモランダム

食いしん坊の神様

今晩は八沢川に発作的に行く事にした。鰻はもともと大好物なのに、病気してからは、あの「照り」と味が濃く感じる「異味症」で閉口していたのだ。折角の大好物を食べて逆にがっかりするのが怖くてずっと我慢していたが、今日の夕食前ふと思い出したら、もうタマラナイ。思い立ったら即実行。はじめは、おっかなびっくり食べ始めたけれど、大丈夫。美味しく完食した。女将もお店のご主人もお店の人たちも全員心配して顔を出してくれた。がっつりと美味しくいただけて幸せ。

食いしん坊の神様がまだまだ僕に味方してくれている感じ。満足満足。

明日早朝より次回化学療法のクールを再開予定。うなちゃんパワーでチャージしたし、これからやる治療の副作用で凹んでいても仕方ない。前向き上向きで、どーせやるなら上機嫌で行こう!

August 22, 2012

クラスメート的連帯感

眩しいくらいの朝焼け。まだ暑いけれど、いつのまにか季節が秋に進んだ。空気の密度がちがう。

午後から短時間だけれど往診。僕が来ることを待っていていただける患者さんの顔を見て、こちらの方が力を逆にたくさん頂いた。毎日のこういう出会いとご縁の積み重ねなのだ。ヘンな話ではあるが手を合わせたくなる心境。有難いことだ。

午後2時過ぎより、まさえちゃん&ひろこちゃんがお見舞い。高校生16歳の頃からのお付き合い。僕は高校2年(彼らは高校1年)だった。感受性豊かなその時期に、夏にイギリスに短期留学をした。今でこそいろいろな海外生活のチャンスがあるけれど、当時としては画期的な体験だった。いろんな意味で大人から子供の中間地点にいた僕らにとってものすごく意味のある時間だったと思う。

そんな意味でも「恵まれた子供たち」だったのだ、僕らは。その後、なんとなく疎遠になるわけれど、10年くらい前にまさえちゃんと再会。彼女の父上の主治医として最期を診ることになったのも、本当に不思議なご縁。まさに仏縁といえるだろう。若いころの共有体験とか価値観とかが非常に近いものがあるので、たぶんいろんな意味で「安心する」んだと思う。兄弟姉妹的な安心感というか。

今日話しをしていて思いだした数々のエピソード。医学部を目指したきっかけとなった出会いとか、その後お付き合いをした女性たちの話とか(結果的にはほとんど全員に振られた)とか、いろんな事を思い出して大笑い失笑苦笑。人生って面白い。そう言えば、今日も話したけれど、55歳という年齢の今が「もしかしたら一番異性にモテている」という事実に気づいた。シニカルな意味ではなく、実際にそう感じるから。ただ、今日思ったのは、僕がもう少し長生きができたら、彼女達ともっとすてきな「じじいばばあフレンド」の関係になれていたのにね。ヘンな意味でなく、かっこいい意味で。それがちょっと残念ではある。

その後、病室に大学同期の阿部君が来院。大学入学の初日に出会った彼ともいろんなご縁を感じるお付き合い。大学時代のこと、アメリカの旅、LA留学時代のこと、カンサスでのドタバタもあった。彼とはまだ小さかった加南子も連れてサンタバーバラへ旅行したし、車でドライブして、マンモスマウンテンに1週間スキー旅行をした。雄大なアメリカのスキー場もいい思い出。ロッジも快適だったなあ。アメリカ時代楽しい思い出を一杯思いだした。思い出に浸る、という至福はもちろんあるのだけれど、さらに言えば「その人生の至福の時間を共有できる」という幸せ。

人生はご縁であり、日々感じる幸せの環のもとには、必ずそれがある。

August 19, 2012

あきん亭(岐阜)食べに行く価値あり

名古屋の叔父から「お取り寄せ」を送っていただいた。岐阜の恵那市の「あきん亭」。
彼によく若いころ連れて行ってもらった湯河原の「大西」のラーメンを彷彿とさせる。
ばっちり好みの味。スープの澄んだ醤油味、縮れの少ない直麺。もちろん固めでいただく。スープは上品な魚介系プラス鶏がらで優しい。全体的なバランスがとても良く、クラシックの直球勝負という感じ。厚みがあって食べごたえのあるチャーシュも美味しい。メンマも僕の好み。大満足で食べ終わった直後にもう一杯食べられそうって思ったのは久しぶりかも(笑)。うまうま。

人生の収め方(レクチャー・メモ)

4月9日に脳腫瘍が発見され、12日に緊急入院で16日に緊急手術。あまりにも緊急事態だったので、医師である僕でさえ状況を把握するだけで精一杯だった。前日までまったく健康の不安もなかったし身体の不調もなく普通健康に生活してきた「元気なおっさん」に突然起こってしまった人生の緊急事態。人生一瞬先はわからないのだ。でも、誰にでも起こりうるのだ。

その直前まで全力疾走で社会生活を送っていた。だから、入院や手術で突然生活を中断することになって、これは困ったぞー、と。「身辺の整理」だけでも、最低でも1−2週間はかかるだろう…と思ったのだ。いろんな人に連絡したり調整したり複雑で気の重いあれこれがあるもんだと思ってた。

ところが、実際には愕然とするほど生活の整理はできてしまうものだった。それも驚くほど短時間に、それほどの労力を使わずに。これは本当にオドロキだった。様々な人と複雑に関わっている仕事関係、人間関係、組織のこと、プライベートでは保険とかローンとか教育の様々な事柄も、もっともっと複雑で多大な労力を費やすものだと思い込んでいた。しかし、結局時間が限られてしまうと、大切な連絡を2−3箇所入れるだけで、ほとんどすべての連絡は済んでしまった。結局は「なるようにしかならない」わけで、事実「なるようになる」(する)ものなのだ。僕の場合、数時間で概ね終わり、事務的なことも大きな方針さえ決まれば、その他のことは1日で大部分は終わってしまった。結局入院までの2日間くらいで、呆気ないものだった。

つまり、その程度なのだ。結局は、自分が思っているほど複雑でも大変でもなく、多方面に大きな影響を与えることもなく、あっけないほど簡単に整理できるものだった。つまり、僕らは自分では結構いろんなことをやっているつもりも、実際には大きな「ご縁の環」のなかで、人間は小さく細やかに存在しているにすぎないということなのだ。

August 17, 2012

1973


ここ数日、James Bluntの"1973"が耳から離れない。このシンプルでセンティメンタルなメロディ・ライン。今日じょうじ君が見舞いに来てくれて、この歌の世界に浸る。
「携帯」の世界と通じるんだわ、これ。心のどこかに置いてある、大切な何かをリコールさせる

1973
SimoneYou're getting olderYour journey's beenEtched on your skin
SimoneWish I had known thatWhat seemed so strongHas been and gone
[Chorus:]I would call you up every Saturday nightAnd we both stayed out 'til the morning lightAnd we sang, "Here we go again"And though time goes byI will always beIn a club with youIn 1973Singing "Here we go again"
SimoneWish I was soberSo I could see clearly nowThe rain has gone
SimoneI guess it's overMy memory plays our tuneThe same old song
[Chorus x3]
And though time goes byI will always beIn a club with youIn 1973

August 16, 2012

ニュージーランドの週末

最近、ニュージーランドで生活をしていた頃のことを懐かしく思い出す。当時まだ小さかった娘たちが、もうみんな成人しているわけだから、あれからもう20年近く時間が経っているのだなあ。しみじみ。

ニュージーランドの週末。ほぼ毎週末の土曜日はどこかの家のパーティがある。昼からのBBQも一般的。昼間のパーティの場合、子供たちが主役というか「屋外で皆でわいわいごはんを食べる」ということがメインで、これはこれで楽しいものだ。子供たちは多くの社会的なルールを大人たちから学ぶ。昔の日本だったら当たり前だった、近所付き合いとか親戚付き合いに近い親密な人間関係に近い。いつのまにか僕らが忘れてしまった「あの感じ」というか。

「他にやることがない」とも言えるし、豊かでのんびりしている、ともいえる。アメリカとはぜんぜん違うのだ。素朴で温かい。

各家庭に集合するのは午後4−5時くらいから。ポットラックで、皆で食材やワインを持ち寄るのがお約束。ちょっとした日本料理(肉巻きとか手巻き寿司とか)は大人気だった。みんなが三々五々到着するとパーティ開始。子供たちは子供たちで遊ぶのがルール。部屋に入れてしまうと勝手に大人の世界に入ってくることはない。このあたりの「大人と子供」のルールがしっかりとしているのは感心したものだ。ピザとかチキンのテイクアウトと飲み物を食べながらご馳走を食べる。年長のこどもが小さな子供をの面倒をみるのがルール。みんな部屋から出ないでゲームをしたりして遊ぶ。22時くらいになるとみんな勝手に大人しく雑魚寝。

大人たちはゆっくりとワインやビールを楽しみながら食事と会話。この時間の使い方は日本にはないゆったりとしたものだ。慣れないと時間とか会話を持て余してしまう。カジュアルな大皿料理もあれば、サーブされるような料理もある。会話を楽しみながら深夜まで。英語では全然僕のほうがコミュニケーション能力があるはずなのに、パーティでの会話では尚子はいつも人気者だった(笑)。それぞれ抱腹絶倒のネタがあったなあ。それを繰り返し繰り返し楽しむ。音楽はかかってることもあったけれど、テレビは皆無。間接照明かロウソクの明かりの下でのお喋りも多かった。大人が大人の時間を皆で共有できる世界というか。

日本に帰ってきてから、あのNZ風のホームパーティを思い出して日本でもやってみようと思っても・・・今まで実現したことはない。時間の流れが全然ちがうのだな。
ああ、懐かしい日々。

August 14, 2012

Sand and Gem 講演会(The 1st call)

http://www.facebook.com/events/185939554871729/

9月21日(金曜日) 18:30 開場 19:00 開演
めぐろパーシモンホール

人生で最も良い時期に、死と直面することになったとしたら…


医師、ミュージシャン、ブロガー、助けあいジャパン・・・etc
今日までmarcを支えて頂いた、多くの方々との素晴らしい出会いに感謝しつつ
講演会&懇談会を行います。

悪性脳腫瘍(神経膠芽腫)と「たまたま出会ってしまった」僕が今、何を感じどう考えているのか?について、僕の言葉で語ることができればと思います。

詳細については後日改めてご案内の予定です(第一報)。

August 13, 2012

Q−Life記事(memo

この文章はQ-Lifeの紹介記事で、1時間くらいのインタビュー。瀬尾さんという女性ライター。
短時間の中でいろんなことを引き出してくれている
記録として

http://www.qlife.jp/square/professionals/story11844.html

画像そのほか:別項

第63回
奥沢病院
松村光芳先生
医者になるきっかけを与えてくれたのは…
 高校生のときは勉強もそこそこに音楽にのめりこみ、バンドを組んで歌ばかり歌っていました。親戚一同に医者は一人もいないし、親父は銀行員。漠然と自分も文科系に進み、将来はどこかの企業に勤めるサラリーマンになるんだろうなと思っていたんです。
 大学では社会学を勉強したかったので一橋の社会学部を受けたのですが、勉強していなかったので落ちてしまい、予備校生活が始まりました。そんなとき母親が倒れ、慈恵医大病院に入院したんです。病院で若い医者やナースを見て、僕は単純に「かっこいいな」と思ってね。「こんなふうに、医療の現場で仕事をしたい」と思うようになりました。
 でも「医学部受けてみようかな」と仲間に言ったら、真剣に止められまして。それまで文科系で、まったく理数系の勉強もしていない、しかも浪人生です。止められて当然かもしれないけれど、僕は悔しくてね。もっと悔しかったのが、当時つきあっていた彼女にも止められたことです。彼女は僕より成績も全然よくて、何も勝てなかったから、見返してやろうと思いました。結局見返す前に振られてしまうんだけど(笑)、今思えば、彼女に止められたことが僕の背中を押してくれたんだと思います。約半年の猛勉強の後、僕はほとんど勢いで、医学部に入りました。

世界の医療現場を見たかった
 ヒューマニズムとか、高邁な思想がきっかけではなかったけれど、僕は医療の道を選んだことを後悔したことは一度もありません。僕はもともと人に興味があって、人と話したり、接したりするのが好きなほう。診察は患者さんとのコミュニケーションであり、そのなかから判断すべきポイントをつかんでいくものですし、医者はそういう能力が求められる職業です。医療を学ぶうち、これこそが自分の求めていた世界だと思いました。
 専門を決めるとき、はじめは小児科にすべきか、産婦人科にすべきかで迷いました。僕は子供が好きだし、赤ちゃんが生まれるのはとてもハッピーなこと。どちらも魅力的でね。
 しかし何より、僕はまずアメリカに留学したかった。僕は英語が得意だったので、大学時代は毎年アメリカに旅行していました。移動するために行くような、バックパックで放浪するだけの旅。医学部の6年間で、50州のうち32州に行きましたね。そこでアメリカの病院を見る機会もあり、「医療を学ぶなら日本だけでなく、世界の現場を見ておかなければ」というのが、僕の考え方だったんです。アメリカの医師国家資格であるECFMGを取得したのが医学部卒業の年。そんなとき、僕に留学のチャンスを下さったのが、昭和大学医学部外科学教室主任教授で恩師の石井淳一先生です。石井先生は都立日比谷高校の大先輩でもあり、僕の思いを知って「僕のところに入局したらすぐに留学させてあげるよ」と。「はい、それなら外科に入局します!」ということで即決して(笑)、大学の外科に入局しました。

人生の岐路には、いつも「引っ張ってくれる人」がいる
 日本での研修医生活を終えたあと、1985年から南カリフォルニア大学のロスアンジェルス小児病院に勤務しました。そのまま別の州に移りレジデントに進む道もありました。しかし当時結婚して子供もいたので、このままアメリカに居続けてよいものか悩んだ末、1988年に帰国。小児外科をやろうと決めたのもその頃です。神奈川県立こども医療センターにて、4年間勤務しました。
 その後、再び海外へ。今度はニュージーランドで勤務することになりました。なぜニュージーランドかというと、アメリカにいたときCCSG(小児がん研究グループ)の共同研究を通して知り合ったケビン・プリングル医師が、ニュージーランド人だったからです。
 ニュージーランドというのは小さな国で、医者は海外、主にアメリカで学んでから故郷に凱旋帰国し、自身のクリニックを持ったり、高いポジションに就くことが多い。ケビンもその一人で、アメリカで学んでウエリントンに帰り、そこで僕に「マーク、こっちに来ない?」と呼んでくれたわけです。「Why not?(もちろん!)」と、あと先を考えずまた即決(笑)。家内には呆れられました。
 ニュージーランドでは、小児外科のシニアレジストラーという臨床の第一線で仕事するだけでなく、研修医や医学部学生を教える立場でした。欧米の医学教育を経験できただけでなく、患者さんとのコミュニケーションのしかた、医療の考え方など、たくさんのことを学びましたし、手術や診療に関してもケビンから多くの影響を受けました。
 こうして振り返ってみると、僕には人生の岐路で、いつも引っ張ってくれる人がいた。医学部へ行くきっかけになったのは当時の彼女ですし、アメリカではワイナー教授という方が、右も左もわからない僕に多くのことを教えてくれました。それこそ、親のように親身になってね。ワイナー教授も、恩師の一人です。それにケビンがいなかったら、今の僕はなかったでしょう。本当に、僕は人に恵まれていたと思います。

スタッフの「グラウンド」と、医療連携の「場」でありたい
 戸田中央病院グループ(TMG)副会長で当医療法人の理事長である横川秀男も、僕を引っ張ってくれた一人です。ニュージーランドから帰国した僕は、日本の医局で「はぐれもの」でした。所属こそしているけれど、ほとんど日本にいなかったでしょう? 周りからはプラプラしている奴にしか見えなかったと思いますし、僕自身も体質が全然合わなくなっていて、とてもやりづらさを感じていました。そんなとき、医局の1年先輩である横川が僕をTMGが新しく作る奥沢病院の開設スタッフとして呼んでくれたんです。
 今までプレイヤーとして医療に携わっていたのに、今度は院長というマネージャーとして、病院を経営する立場になる。最初はまったく勝手が分かりませんでした。だけど幸いにも、母体であるTMGは事務方がしっかりと医者の仕事以外の仕事を引き受けてくれるので、僕らは医療行為に専念することができました。自分のやりたい、やるべき医療に集中して病院を創ってゆくことができたんです。
 それに、僕はスタッフにも恵まれていました。この病院は、院長はたいしたことないけど(笑)、素晴らしいスタッフが集まってくれています。医局のスタッフだけでなく、特にナースは、どこに出しても恥ずかしくないくらい。これは本当に有難いことです。
 院長としての僕の仕事は、もちろん手術など医療行為もあるけれど、主にスタッフがよいプレーをする「グラウンド」を提供すること。草むしりして、地面をならして、玉拾いをして、誇りとやりがいを持って働ける「場」を創ることなんです。それを行ってはじめて、患者さんに質の高い医療を提供することができると思います。
 僕はさらに、周囲の開業医の先生たちと協力しながら、地域医療のネットワークを強化して行きたいと思っています。医療連携というのは、今の日本にとても重要なことです。高度に専門的な医療は総合病院・大学病院にお任せします。そのかわり、我々は地域の誰かが手を切った、子供が何かを飲み込んだ、お腹が痛い、癌の検査をしたいなど、困ったときに備えて守備を固める役割を担っている。その役割をまっとうするためには、地域の病院がしっかりと連携して、フットワークよく患者さんを診ることが大切です。そのための「ハブ(つなぎ目)」として、この病院を活用してもらいたいですね。

医者も患者さんも、向かっている方向は同じ

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 僕は、求められている結果を出すのはプロとして当たり前だと思っています。そのうえで、「この人はこういうことを欲しているんだな」と察して、求められる以上のことをしてあげられるのが理想ですね。
 たとえば、お腹が痛い患者さんを診察して、お薬を出して良くなりました、それは当たり前。だけど実は、原因が職場のストレスなこともあるわけです。そんなとき、患者さんとコミュニケーションをとっていると、何となくそれが顔に書いてあったりする。それを医者が汲み取って、必要と思ったら院内の臨床心理カウンセラーに診てもらう。
 そんなふうに、患者さんやご家族の悩みを一緒に感じて、悩む。その結果、求められていること以上のことをしてあげられたら、患者さんも喜んで下さるし、僕らも心から嬉しい。そういう感性は、大事に持ち続けていたいなと思います。
 僕らは、ベストをつくして診療を行います。だから、患者さんにも医者に言いたいことを何でも言ってほしいですね。患者さんは、どうも遠慮する方が多いんですよ。病院には多くのスタッフがいて、みんながベストをつくしているけれど、なかには至らないことがあるかもしれません。でも、お互い向かっている方向は一つです。欧米の病院では、今日の具合はいかがですか? と回診の時などに聞く時、How are we? ってよく言います。You(あなた)ではなくwe(私たち)。つまり、あなた(患者さん)と私達(医療サイド)は一緒に病気と闘っている、だから「私たち(we)の具合はどうですか?」って聞くんです。
 僕らは患者さんの意思を尊重して、心のこもった質の高い医療サービスを提供します。だからこそ患者さんには「どうぞ何でも話してください、遠慮しないでいいんですよ」と伝えたいですね。気負うことなく、地域の病院として気軽に使って頂けたらと思います。

異なる世界の人々と触れ合う、それがリフレッシュ
 僕はプライベートと仕事は、しっかり分けたいと思ってます。だから本当は、バンドで歌っていることも内緒なんですが…(笑)。音楽は高校生の頃からやっていて、インディーズバンドでレコードを出したり、ラジオに出演していました。でも医者になってからは忙しくてできなくなり、自然消滅。今も本業のほうではFMラジオの番組に毎週出演していますが、「奥沢病院のマーク先生」としてです。
 2004年ごろでしょうか、某掲示板サイトで昔の僕らのバンドが話題になったことがありまして。それを相方に教えたら、「また音楽やろうか」という話になってね。今はオヤジバンドとして、2~3ヵ月に1回くらいライブを行っています。あとはCD用のレコーディングをしたり…集まると、ただの飲み会になることもあるけれど(笑)。
 医者の世界では、プライベートも医者どうしでくっつくことが多いんです。飲みに行ったり、ゴルフしたり。でも、僕はできるだけ仕事関係以外の人と付き合いたいと思っています。音楽仲間のなかには、僕の職業を知らない人もいっぱいいますし、僕も相手の本名とか仕事を知らなかったりする。でも、その空気が新鮮で、リフレッシュになるんです。今までは必死で仕事をしていたけれど、最近は少しだけそういった時間が持てるようになったかな。

取材・文/瀬尾ゆかり(せお ゆかり)
フリーライター・編集者。編集プロダクション勤務を経て独立。医学雑誌や書籍、サイトの編集・記事執筆を多数手掛ける。ほかに著名人・文化人へのインタビューや、映画・音楽・歴史に関する記事執筆など、ライターとして幅広く活動している。
戸田中央医科グループ(TMG) 医療法人柏堤会 奥沢病院

医院ホームページ:http://www.tmg.or.jp/okusawa/

24時間365日救急診療と万全の体制。小回りの利く「都市型コミュニティーホスピタル」がコンセプト。
東急目黒線「奥沢」駅より徒歩約3分。東急東横線・大井町線「自由が丘」駅南口より徒歩約7分。
詳しい道案内は医院ホームページから。

診療科目

内科・外科・整形外科・放射線科・小児科・総合診療科外来・東京都二次救急指定病院

松村光芳(まつむら・みつよし)院長略歴


1982年 昭和大学医学部卒業
1985~1988年 ロスアンジェルス小児病院フェロー
1988~1992年 神奈川県立こども医療センターシニアレジデント
1993~1994年 ニュージーランド・ウェリントン病院外科シニアレジストラー
1997年~ 奥沢病院 院長


■資格・所属学会他
日本外科学会・日本小児外科学会専門医、日本医師会認定健康スポーツ医、産業医、昭和大学医学部・薬学部兼任講師

ロンドンオリンピック終了。

なんとなくスローな日々で無為な時間を過ごしてしまっている。特に不調というわけではないのだけれど、だらだらとしてることが多い。集中力の問題なんだろうなあ。散漫で思索の浅い読書ばかりしてる。文字を追っているだけで寝ちゃうよりはいいけれど。

そんなこんなで、生産性が低いのは仕方ないとしても、スローでも前に進みたいは思っている。困ったもんだ。やりたいことはたくさんある(はず?)なのに、どうしても「ま、いっか?」という「誘惑」に負けそうになる。この「普通の生活」の有り難さというものは、普通じゃなくなって初めてわかるものなのだ。負け惜しみじゃなくて。

ブロク「愛の日記」@ボストン さんより。
http://yokichi.com/2012/08/post-342.html?fb_action_ids=400237553370902&fb_action_types=og.likes&fb_source=aggregation&fb_aggregation_id=246965925417366

人生をまっすぐ見つめて「死ぬまで生きたい」と思う。

August 7, 2012

眠い、ねむい、睡い

そのうち食欲も戻るだろう…と待っているうちに、週末が終わってしまった感じ。ここ数日経ってしまった。四六時中眠いので、ちょっと油断すると寝入ってしまうのだ。ぼーっとしているうちに、一日が終わってしまう。脳機能が停滞している自覚がある。焦っても仕方ないけれど、出来ることを出来る時に少しづつ進めるしかないのだ。
今日はイギリスから医学部の学生3名。体調もなんとか保ってくれていてよかった。

August 2, 2012

聖母性について

「梅ちゃん先生」を毎日見ている。というか、正直かなり好きなのだ。堀北真希という女優さんが嫌いな人は、この世の中にいないんじゃないか?。決して飛び抜けて美人というわではなく、可愛らしく清楚で、むしろ「どこにでもいそうな」(よくある褒め言葉だけれど)NHK的な「正しさ」(美しさ、ではない、正しさ、だ)。

他のあまたの女優と明らかに違う彼女の特異性は、うまく言葉が見つからないれど、「聖母性」だと思う。未来は(すべて)女性が握っている(大昔から)のだ。そのシンボルとしての聖母性といえるか。

この項、要追加。
やはり以前からの持論だけれど、古今東西世の中は女性が変えてきたのだ。