August 13, 2012

Q−Life記事(memo

この文章はQ-Lifeの紹介記事で、1時間くらいのインタビュー。瀬尾さんという女性ライター。
短時間の中でいろんなことを引き出してくれている
記録として

http://www.qlife.jp/square/professionals/story11844.html

画像そのほか:別項

第63回
奥沢病院
松村光芳先生
医者になるきっかけを与えてくれたのは…
 高校生のときは勉強もそこそこに音楽にのめりこみ、バンドを組んで歌ばかり歌っていました。親戚一同に医者は一人もいないし、親父は銀行員。漠然と自分も文科系に進み、将来はどこかの企業に勤めるサラリーマンになるんだろうなと思っていたんです。
 大学では社会学を勉強したかったので一橋の社会学部を受けたのですが、勉強していなかったので落ちてしまい、予備校生活が始まりました。そんなとき母親が倒れ、慈恵医大病院に入院したんです。病院で若い医者やナースを見て、僕は単純に「かっこいいな」と思ってね。「こんなふうに、医療の現場で仕事をしたい」と思うようになりました。
 でも「医学部受けてみようかな」と仲間に言ったら、真剣に止められまして。それまで文科系で、まったく理数系の勉強もしていない、しかも浪人生です。止められて当然かもしれないけれど、僕は悔しくてね。もっと悔しかったのが、当時つきあっていた彼女にも止められたことです。彼女は僕より成績も全然よくて、何も勝てなかったから、見返してやろうと思いました。結局見返す前に振られてしまうんだけど(笑)、今思えば、彼女に止められたことが僕の背中を押してくれたんだと思います。約半年の猛勉強の後、僕はほとんど勢いで、医学部に入りました。

世界の医療現場を見たかった
 ヒューマニズムとか、高邁な思想がきっかけではなかったけれど、僕は医療の道を選んだことを後悔したことは一度もありません。僕はもともと人に興味があって、人と話したり、接したりするのが好きなほう。診察は患者さんとのコミュニケーションであり、そのなかから判断すべきポイントをつかんでいくものですし、医者はそういう能力が求められる職業です。医療を学ぶうち、これこそが自分の求めていた世界だと思いました。
 専門を決めるとき、はじめは小児科にすべきか、産婦人科にすべきかで迷いました。僕は子供が好きだし、赤ちゃんが生まれるのはとてもハッピーなこと。どちらも魅力的でね。
 しかし何より、僕はまずアメリカに留学したかった。僕は英語が得意だったので、大学時代は毎年アメリカに旅行していました。移動するために行くような、バックパックで放浪するだけの旅。医学部の6年間で、50州のうち32州に行きましたね。そこでアメリカの病院を見る機会もあり、「医療を学ぶなら日本だけでなく、世界の現場を見ておかなければ」というのが、僕の考え方だったんです。アメリカの医師国家資格であるECFMGを取得したのが医学部卒業の年。そんなとき、僕に留学のチャンスを下さったのが、昭和大学医学部外科学教室主任教授で恩師の石井淳一先生です。石井先生は都立日比谷高校の大先輩でもあり、僕の思いを知って「僕のところに入局したらすぐに留学させてあげるよ」と。「はい、それなら外科に入局します!」ということで即決して(笑)、大学の外科に入局しました。

人生の岐路には、いつも「引っ張ってくれる人」がいる
 日本での研修医生活を終えたあと、1985年から南カリフォルニア大学のロスアンジェルス小児病院に勤務しました。そのまま別の州に移りレジデントに進む道もありました。しかし当時結婚して子供もいたので、このままアメリカに居続けてよいものか悩んだ末、1988年に帰国。小児外科をやろうと決めたのもその頃です。神奈川県立こども医療センターにて、4年間勤務しました。
 その後、再び海外へ。今度はニュージーランドで勤務することになりました。なぜニュージーランドかというと、アメリカにいたときCCSG(小児がん研究グループ)の共同研究を通して知り合ったケビン・プリングル医師が、ニュージーランド人だったからです。
 ニュージーランドというのは小さな国で、医者は海外、主にアメリカで学んでから故郷に凱旋帰国し、自身のクリニックを持ったり、高いポジションに就くことが多い。ケビンもその一人で、アメリカで学んでウエリントンに帰り、そこで僕に「マーク、こっちに来ない?」と呼んでくれたわけです。「Why not?(もちろん!)」と、あと先を考えずまた即決(笑)。家内には呆れられました。
 ニュージーランドでは、小児外科のシニアレジストラーという臨床の第一線で仕事するだけでなく、研修医や医学部学生を教える立場でした。欧米の医学教育を経験できただけでなく、患者さんとのコミュニケーションのしかた、医療の考え方など、たくさんのことを学びましたし、手術や診療に関してもケビンから多くの影響を受けました。
 こうして振り返ってみると、僕には人生の岐路で、いつも引っ張ってくれる人がいた。医学部へ行くきっかけになったのは当時の彼女ですし、アメリカではワイナー教授という方が、右も左もわからない僕に多くのことを教えてくれました。それこそ、親のように親身になってね。ワイナー教授も、恩師の一人です。それにケビンがいなかったら、今の僕はなかったでしょう。本当に、僕は人に恵まれていたと思います。

スタッフの「グラウンド」と、医療連携の「場」でありたい
 戸田中央病院グループ(TMG)副会長で当医療法人の理事長である横川秀男も、僕を引っ張ってくれた一人です。ニュージーランドから帰国した僕は、日本の医局で「はぐれもの」でした。所属こそしているけれど、ほとんど日本にいなかったでしょう? 周りからはプラプラしている奴にしか見えなかったと思いますし、僕自身も体質が全然合わなくなっていて、とてもやりづらさを感じていました。そんなとき、医局の1年先輩である横川が僕をTMGが新しく作る奥沢病院の開設スタッフとして呼んでくれたんです。
 今までプレイヤーとして医療に携わっていたのに、今度は院長というマネージャーとして、病院を経営する立場になる。最初はまったく勝手が分かりませんでした。だけど幸いにも、母体であるTMGは事務方がしっかりと医者の仕事以外の仕事を引き受けてくれるので、僕らは医療行為に専念することができました。自分のやりたい、やるべき医療に集中して病院を創ってゆくことができたんです。
 それに、僕はスタッフにも恵まれていました。この病院は、院長はたいしたことないけど(笑)、素晴らしいスタッフが集まってくれています。医局のスタッフだけでなく、特にナースは、どこに出しても恥ずかしくないくらい。これは本当に有難いことです。
 院長としての僕の仕事は、もちろん手術など医療行為もあるけれど、主にスタッフがよいプレーをする「グラウンド」を提供すること。草むしりして、地面をならして、玉拾いをして、誇りとやりがいを持って働ける「場」を創ることなんです。それを行ってはじめて、患者さんに質の高い医療を提供することができると思います。
 僕はさらに、周囲の開業医の先生たちと協力しながら、地域医療のネットワークを強化して行きたいと思っています。医療連携というのは、今の日本にとても重要なことです。高度に専門的な医療は総合病院・大学病院にお任せします。そのかわり、我々は地域の誰かが手を切った、子供が何かを飲み込んだ、お腹が痛い、癌の検査をしたいなど、困ったときに備えて守備を固める役割を担っている。その役割をまっとうするためには、地域の病院がしっかりと連携して、フットワークよく患者さんを診ることが大切です。そのための「ハブ(つなぎ目)」として、この病院を活用してもらいたいですね。

医者も患者さんも、向かっている方向は同じ

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 僕は、求められている結果を出すのはプロとして当たり前だと思っています。そのうえで、「この人はこういうことを欲しているんだな」と察して、求められる以上のことをしてあげられるのが理想ですね。
 たとえば、お腹が痛い患者さんを診察して、お薬を出して良くなりました、それは当たり前。だけど実は、原因が職場のストレスなこともあるわけです。そんなとき、患者さんとコミュニケーションをとっていると、何となくそれが顔に書いてあったりする。それを医者が汲み取って、必要と思ったら院内の臨床心理カウンセラーに診てもらう。
 そんなふうに、患者さんやご家族の悩みを一緒に感じて、悩む。その結果、求められていること以上のことをしてあげられたら、患者さんも喜んで下さるし、僕らも心から嬉しい。そういう感性は、大事に持ち続けていたいなと思います。
 僕らは、ベストをつくして診療を行います。だから、患者さんにも医者に言いたいことを何でも言ってほしいですね。患者さんは、どうも遠慮する方が多いんですよ。病院には多くのスタッフがいて、みんながベストをつくしているけれど、なかには至らないことがあるかもしれません。でも、お互い向かっている方向は一つです。欧米の病院では、今日の具合はいかがですか? と回診の時などに聞く時、How are we? ってよく言います。You(あなた)ではなくwe(私たち)。つまり、あなた(患者さん)と私達(医療サイド)は一緒に病気と闘っている、だから「私たち(we)の具合はどうですか?」って聞くんです。
 僕らは患者さんの意思を尊重して、心のこもった質の高い医療サービスを提供します。だからこそ患者さんには「どうぞ何でも話してください、遠慮しないでいいんですよ」と伝えたいですね。気負うことなく、地域の病院として気軽に使って頂けたらと思います。

異なる世界の人々と触れ合う、それがリフレッシュ
 僕はプライベートと仕事は、しっかり分けたいと思ってます。だから本当は、バンドで歌っていることも内緒なんですが…(笑)。音楽は高校生の頃からやっていて、インディーズバンドでレコードを出したり、ラジオに出演していました。でも医者になってからは忙しくてできなくなり、自然消滅。今も本業のほうではFMラジオの番組に毎週出演していますが、「奥沢病院のマーク先生」としてです。
 2004年ごろでしょうか、某掲示板サイトで昔の僕らのバンドが話題になったことがありまして。それを相方に教えたら、「また音楽やろうか」という話になってね。今はオヤジバンドとして、2~3ヵ月に1回くらいライブを行っています。あとはCD用のレコーディングをしたり…集まると、ただの飲み会になることもあるけれど(笑)。
 医者の世界では、プライベートも医者どうしでくっつくことが多いんです。飲みに行ったり、ゴルフしたり。でも、僕はできるだけ仕事関係以外の人と付き合いたいと思っています。音楽仲間のなかには、僕の職業を知らない人もいっぱいいますし、僕も相手の本名とか仕事を知らなかったりする。でも、その空気が新鮮で、リフレッシュになるんです。今までは必死で仕事をしていたけれど、最近は少しだけそういった時間が持てるようになったかな。

取材・文/瀬尾ゆかり(せお ゆかり)
フリーライター・編集者。編集プロダクション勤務を経て独立。医学雑誌や書籍、サイトの編集・記事執筆を多数手掛ける。ほかに著名人・文化人へのインタビューや、映画・音楽・歴史に関する記事執筆など、ライターとして幅広く活動している。
戸田中央医科グループ(TMG) 医療法人柏堤会 奥沢病院

医院ホームページ:http://www.tmg.or.jp/okusawa/

24時間365日救急診療と万全の体制。小回りの利く「都市型コミュニティーホスピタル」がコンセプト。
東急目黒線「奥沢」駅より徒歩約3分。東急東横線・大井町線「自由が丘」駅南口より徒歩約7分。
詳しい道案内は医院ホームページから。

診療科目

内科・外科・整形外科・放射線科・小児科・総合診療科外来・東京都二次救急指定病院

松村光芳(まつむら・みつよし)院長略歴


1982年 昭和大学医学部卒業
1985~1988年 ロスアンジェルス小児病院フェロー
1988~1992年 神奈川県立こども医療センターシニアレジデント
1993~1994年 ニュージーランド・ウェリントン病院外科シニアレジストラー
1997年~ 奥沢病院 院長


■資格・所属学会他
日本外科学会・日本小児外科学会専門医、日本医師会認定健康スポーツ医、産業医、昭和大学医学部・薬学部兼任講師