November 30, 2013

アルバム

ずっと長い間の懸案だったアルバムの整理を開始した。
膨大な画像データが、さまざまな思い出とともにそこにある。

開始してすぐに、これがいかに大変な作業なのか判った。
今までのアルバムを整理して、裁断してダウンサイズしてから、タグを付けて
PDFファイルにしたものをデータベースにする。

今日はあの大きなアルバムをバラして
作業のスキャナーのテストをするだけで精一杯だった。

というかかなり体力の必要な事が判った。
アルバムって重いし、かさばる。
断捨離して、かなりスッキリしそうだ(現在進行形)

数年前に、僕と姉の子供の頃の写真が
母親が家の中を整理する時に出てきた。
母にとっては懐かしい写真でも僕らにとっては
特に思い入れのあるものではなかった。

自分の記憶が、そもそもない頃のことなので、
母が持っておきたいものだけで十分だった。
懐かしいという感覚は
意外なほど持てないものなのだ

結局、残されている貴重な画像を
できるだけ取り込んでおこうと
意気込んで始めたけれど、実際にはポイントとなるものを
押さえていれば、それだけで十分で、
むしろそのほうがいいのかな?と。

今回の子どもたちの写真にも同じような事がいえる。
アーカイブは必須なんだろうな
見る人のためにも

子供の頃の写真は親(あるいは爺婆)のために
撮っておくものだと再認識した。

それに、現代の子どもたちは、好むと好まざるに関わらず、生まれた時から様々なメディアで記録されているので、写真と動画や音声に関する敷居が完全になくなっている。
今後は更に進化し多様化するのだろうな〜。


宝くじ

 宝くじ
所詮、自分以外のことは「ひとごと」なのだ。
不思議なもので自分だけは「特別」だと思っている。
というか、皆そうやってバランスをとっている。

当たる可能性は冷静に考えれば限りなくゼロなのに、
「もし当たったら」と「夢を見る」
「もし当たったら、どうしよう?」と考えるのだ。
当選確率はきわめて低いことをわざと見ないようにしている

このささやかな「幸せ感覚」

10枚買って1枚あたるのが「ふつう」で10分の1 (10%) 300円 
100分の1(1%) 3000円 当たる率が100分の1

1等5億円は、たしかに一人には当たる。
しかし、その倍率は100万分の1すなわち、0.00001%

Good luck!

この「宝くじシミュレーター」の当たる確率などは以下のようになっています。 2013年の「年末ジャンボ 宝くじ」 (発売期間:2013年11月22日[金] ~ 2013年12月20日[金]、抽選日:2013年12月31日[火]) に近い感じになっていると思います。
等級当選金額当選条件当たる割合当たる確率100期待値
1等5億円組2ケタと
6ケタ
1,000万分の10.00001%50円
1等の
前後賞
1億円1等の
同組前後
500万分の10.00002%20円
1等の
組違い賞
10万円1等の
組違い
約10万分の10.00099%約1円
2等100万円組下1ケタと
6ケタを3本
100万分の3約0.000333%3円
3等3,000円各組共通
下2ケタ
100分の11%30円
4等300円各組共通
下1ケタ
10分の110%30円
特別賞5万円各組共通
下4ケタを3本
1万分の3約0.0333%15円

払戻率:約49.66333% 

November 25, 2013

りみっとさんの「ぐうたら防備録」

毎回のライブの詳細な記録を作ってくれる「りみっと」さんが、また素晴らしいレポートを作ってくれました。いつもありがとうございます!

ハックルベリーフィン1972ライブ 飛翔〜信じるものがあるのなら


http://gu-tara-bibo-roku.blogspot.jp/2013/11/1972.html

November 24, 2013

余韻に浸ってます

昨日は多くの方々にお集まり頂き、有難うございました。かぜ耕士さん初め、多くの皆さんにご来場いただき有難うございました。あれほど元気にステージに立てるとは正直思っていませんでした。まだ夢の中の出来事のようで実感が伴いません。また、多くの方々の温かい励ましの言葉を頂き、有難うございました。その場で皆さんと十分話すことも出来ず本当に本当に失礼しました。
取り急ぎ御礼まで。まだ余韻に浸ってます。

追伸:改めて書くのも照れますが、相方の篠根丈二くんとの出会いを感謝します。初めて中学1年で出会ってから、今までのことを思い出してライブ中3回泣きそうになりました。

November 21, 2013

エゴイズムについて

自分を抑えて周囲と協調することを良しとする文化がある
和を持って尊しとなす
無私
献身

私なんか
僕なんかと
自分を卑下することで
群れから外れるリスクを低くして

リスクの
傷を舐めあう
「差をつけない」
「同質性の社会」を
是とする日本

謙譲の美徳?
でも負けて言い訳をする
失敗して言い訳をする
日本人の精神性の脆弱な所と云われる

一方で

強烈な自己で自分を支える
個の力、自我の力
それがエゴイズム

つい最近まで、自己主張することを
エゴイズムとして日本では
協調性のない「悪い(とまでは言わないまでも良くない)モデル」
として存在していたのだ

でも時代は変わった
個性として伸ばす方向性に
異種を認める許容が広がった

みんな人に褒められたい
皆認められたい
注目を集めたい
誰よりも「自分」中心

ナルシストとエゴイストは同根なのだ

いい想いがしたい
特別扱いしてもらいたい
賞賛を浴びたい

賞賛を浴びている自分に
さらに高揚する
ナルシスト

自己の行動にカタルシスを感じる
ナルシストで
エゴイストの時代が
当分続くのだろう

今はそんな政治家や政治屋、評論家ばかりに目がいく。
要はバランスなんだろうけど、どうも
お行儀の悪さが目につく気がする

November 20, 2013

ad hoc な情報

大切な患者さんの情報をいかに
スムーズにシェアできるかどうか

紹介する側の情報
患者の属性
名前、性、生年月日、住所、その他の属性(紹介側の診察番号など)
主訴
既往歴
臨床経過
(箇条書きで時系列の問題リストが望ましい)
その他の情報(リファレンス、参照先)
各種の画像
各種検査のデータのサマリー

せいぜい30秒でプレゼンできる内容が望ましい。
それで大体その患者のことは把握できる。

臨床の経験値の高い人(同士)のものは簡潔で無駄がない。
未熟なものほど冗長でポイントが曖昧な事が多い。
プレゼンを見れば実力がわかる。

医療のプロとしての
的確な情報のやりとりはもちろん必須なのだが、
誰から紹介されたか?(紹介するのか?)
どんな状況で紹介されたか?
前もって伝えるべき特殊な問題はなかったのか?などの
(行間の)ad hocな情報が大切だったりする。

お互いの信頼感ある連携関係にある
医師同士は、電話一本だけで十分に
コミュニケーションがとれるはずなのだ。

あとは双方の優秀な事務方に任せればいい。
それが医療連携の理想形だと思う。

November 19, 2013

水は低い方に流れる

関西のホテルの偽装問題、誤表示(?)の問題
どう取り繕っても、許される事ではない。
信頼を受けるまでには何年何十年もかかるが、失うのは一瞬。
かなり根が深い

「ま、いっか」という甘え
皆で誤摩化せば怖くないという意識
「この程度なら」という甘え
どんどん低くなる敷居

水は低い方に流れる

日本という国の
さまざまな組織の持っていた
矜持はどこにいったのか?

一度、箍が外れてしまったシステムを
再構築する必要がある
今までの「善意」と「良識」が
アタリマエだった世界には
戻れない

今、日本でどこかの店に入って
出てきた水が汚染されているリスクはほとんどないと、
「みんな信じている」けれど、これって本当に大丈夫?

お店で出てくる水が汚染されていない保証なんてない。
世界的に見れば、自己責任が当たりまえ
日本が特別なんだろう

逆に安全がアタリマエになっている日本の「ひ弱さ」問題はないのか?
人間ってそんなに弱いものではないんだけどな。

November 18, 2013

この多忙が嬉しい

本日がDay 0で明朝6時より第20クールの予定。思えば遠くに来たもんだ。ということで、朝から東大医科研。幸いガンマナイフ後は順調とのこと。有り難い。
いつもの事だが座って待っていておしりが痛くなった。
臀筋が薄くなってるみたいだ。

終了後、一旦部屋に戻ったら、疲れが出たのか2時間近く爆睡。

午後から会合人事関連の会議、面談など
16時半より院内会議
終了後1時間、また爆睡

打ち合わせ3件
この忙しさは嬉しい忙しさだ。
緊急入院1件、予定入院1件
FBってすごい(意味不明かw)

18時半にじょうじ君&ともPが病室へ。ライブ打ち合わせ。
根津さんも合流。いつものメンバー。
18ー20時 スタジオ練習
今日が本番前の最後の練習だったが
さすがに疲れてへろへろ。
あとは本番まで自主トレ(笑)

やはり手と指が動かない
仕方がないけれど。

へとへと。でも嬉しい疲れ。
仲間の優しさに感謝

エンサイクロペディア

昭和40年頃の流行だったんだろう
オヤジと爺さんが、突然百科事典を買ってくれる、という。
エンサイクロペディア、科学大辞典、イラストレイデッドの3分冊になってたと思う。

アメリカの家庭では一家に一冊あるのが普通です。。。
これからの子供達は英語だ
英語を使いこなさなくてはいけない
各家庭に一つは百科事典があるのが常識 etc...

見栄もあっただろう
その後アメリカに行ってそれが真っ赤な嘘であることを知った。
販売員の華麗なセールストークだったのだ。

そこまで完璧に騙されたのには、
戦前の親世代の「知の欠乏」体験が大きい

「配本」(不思議な日本特有の制度だ)され、
2年位かかって我が家には立派な本が鎮座することになった。
どう考えてみても日本の居間には不釣り合いな立派な装丁
親達が読みこなせているとは到底思えない

大量に入ってきたアメリカの書物は、
僕にとって新鮮だった

アメリカの印刷の匂いが大好きだった
科学系
イラスト中心 日本にはないビジュアル
デザインと色彩を
うっとりと眺めていた
英語を読み始めるのは自然な事だった

日本特有の「配本」というシステムも大きい
雑誌の定期購読が普通だったし、
本は「つけ」で買えた
蔵書ということも
一般大衆が本を所有する意味がこの頃から変化した

その後の変化を考えると、
「本の文化」の成長した、もっともいい時期だった気がする。

November 17, 2013

暴れん将軍の思春期

FBで中学校の同期会が行われたことが書いてあった。
大盛況で皆楽しそうな様子が、FBにアップしてあった。

中学の同期会には最近はなかなか出席する機会がなく、失礼していた事も大きいのだが、今回の写真をみて驚いた。実は誰だかわからないのだ。
申し訳ないけれど、懐かしいという感情がわかないのだ。
というのは、朧げに記憶がある人がいても、誰だかわからない。
街で出会ってもたぶん誰だかわからないだろうし、
あれだけクラス会に出席する人がいても、ほとんどわからないのだ

懐かしいという感情は、後から想い出とともに
想起するものかもしれないけれど、
唖然としたのが、この時期(13歳〜15歳)の記憶があまりないのだ。
僕が特別周囲の人と付き合いが悪かった訳でもなく、むしろ社交的だったと思う。
親友のじょうじ君とは毎日犬コロみたいに遊んでいた。
いろんな事があったはずだし、写真やアルバムをみれば思いだす事も多いのだけど、
でもヴィヴィドな記憶が高校時代にくらべると極端に少ない。

そのくらい当時の僕は周りを見ていなかったってことなのか?

様々な経験を通して
自分の成長を戸惑いととともに
自覚する時期だった

毎日、わーわーきゃーきゃー走り回っていたはずだし、
勉強だって普通にしてたんだろう。
高校受験では早稲田に受かった(結局辞退して日比谷に行った)。
でも、大学で受験した事とか、発表の後に石神井公園(だっけ?)の駅にむかって歩いた事は記憶にあるけれど、誰とどこを歩いてどんな話をしたのか、その前後は全く憶えていない。つまり、当時としては「区切り」と記憶されるはずの出来事も曖昧な記憶なのだ。

なぜなんだろう?
高校になると急に鮮明になる記憶と対照的に
記憶が曖昧になっている。

あのころ何を考え
何を感じ
何をしていたんだろう?

その時期特有の
異様に過敏な暴れん坊将軍を
どう取り扱うべきか
「戸惑っていた」のは確かだけれど、
「悩んで」はいなかったな(笑)。

自尊心と劣等感

誰にでも自尊心があり、
自分が自分であり続ける為の「誇り」をもっている
生きている、生きてきた事の証

だれでも自分が一番大切
皆が自分を大切にする事は
自分以外の人をも大切にする事だ

つまり自尊心と劣等感は表裏一体なのだ

セルフイメージに
拘るのも大切な事があるが
人にどう見られていることばかり
気にするのは愚だ

今の時代、自分が常に
モニターされてていないと安心できない感覚が
あるのではないか?

ネット上の孤独感

一方でリアルの世界では
自我が若く未熟な時期には
こうあって欲しい
こんなふうに人から見られたいと
理想と現実の乖離に
悩む

傷や傷跡
障害
変形
異常 etc

先天的なもの
後天的なもの

ちんちんが大きいとか小さいとか
おっぱいの形だどうだとか
美醜の判断なんてどんどん変化するもので
普遍的価値のあるものではないことが
理解できない(でも、若いってそういう事だ)。

我々外科には様々な相談が来る。

自分が気にしているほど
他人は気にしていないし
見えていないものなのだけれど。

でも極言すれば
皆、自分以外のことなんて
実は全く関係ないって思っている

日本のチカラ

斜に構えて
皮肉に
ニヒルに
シニカルに
モノを見るひとがいる

否定、とは異なる
消極的反対?反対?
非支持

はっきりとモノをいわない
意見を「保留」している
「高みの見物」

「おとな」というのはこういうものかな?と思っていた。

「政治の世界」なんて「わからない」とか
「自分とは関係ない」とか

選挙で投票に行かずにあれこれ云うのは問題外
というより、非常識だという認識のない日本という国
平和ボケから目覚める日がくるんだろうか?

八重の桜とか見ていると、近代日本の歴史には
底辺から底上げをしてゆく社会の「向上心」や「勉強や努力を厭わない」態度がある。

社会が「健気」なのだ。
このベクトルが日本のチカラだと思う。



日本の底力

「インテリ」や「評論家」が
エラそうにしているのはどこの国も同じだ。

社会を動かしているのは、その周囲にいる
サイレントマジョリティの存在で、
その総意がコモンセンスであり「日本」なのだ。

今こそ
「普通の大人が、
「常識的な事を」
「主張し」
言葉にすることの
重要性を感じる

根底が動いている実感がある

あまりにも
行儀の悪い
連中には
ほとほと嫌気がさしている
大人達は多い

長く続いた不況
未曾有の大震災
原発問題
日本の政治の流れは
安倍で変った
この20年間」
ずっと変れなかった政治が
動いたのは事実だ

明るさの見えてこない未来に
一縷の光を点すのは
政治しかない

問題山積だけれど
立ち止まれないのだから
皆で前を向いて進むしかない

日本の底力を信じよう