July 14, 2013

失い喪うもの(訂正加筆)

失うもの 喪うもの
2006-9−20
http://sandgem.blogspot.jp/2006/09/blog-post_20.html
8年前のエントリー。

以下の文章はオリジナル改で、脳腫瘍(膠芽腫)が発見される2012-4以前の文章

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失うもの、喪うもの

外来でのTさんと会話。結腸癌の手術をして早いもので6年目になる僕の患者さんだ。一通りの診察を終えたところで、Tさんが切り出した。

「最近、人様に「鬱」というほどでもないのですが、気持ちが何となく重く、塞いでしまうことがあります。この歳になってもメランコリーな気分になるものなんでしょうか。」

「ええ。」

「歳をとり身体が衰えるというのは、哀しいことです。先生はまだお若いから、わからないでしょう。こういう気持ちは・・・」

「Tさん、僕に少しはわかる気もします。今年で僕は50歳になります。」(膠芽腫の発覚前で、今から6年前の話だ)

「そうですか。ええ、そうかもしれませんね・・・。私も、あなたの歳頃には、必死で仕事をしていましたな。悩む暇がないくらい忙しかった。忙しくて家族が生きて行くのに必死だったけれど、充実した毎日でした。」

「はい。」

「ところがこの歳になると、毎日毎日{失うもの}や{喪うもの}ばかりなのです。」

「失う(喪う)もの、ばかりですか・・・。」

「病気の妻(彼の妻も進行ガンなのだ)のことを考えますと、真夜中にどうしようもなく寂しくなります。もう十分覚悟は出来ているはずのに・・・」

「夫婦で若い頃に買った瀬戸物が、先日突然割れたと思ったら。。。先生もご存知でしょう、12年一緒に過ごしたロンが、私たちの犬ですが、先月急に死んでしまいました。学生時代の友人達の便りは、ご家族からの死亡通知ばかり。生き残っている自分達が、逆に特別な存在みたいで・・・」

「でも、Tさん、日々の生活では、いろんな楽しくなることもあるでしょうし。ああ、そういえば、末の息子さんの所の御孫さんも、この春に生まれたし、お子さん達の成長は、嬉しいでしょう

「ええ、もちろんです。でも私たちの日々の生活は、単純で淡々としたものです。先生のおっしゃるような{いろんなこと}っていうのは、そんなに多くはあるものじゃない。私と妻にとっては、残された、限られた人生の時間の中で、圧倒的に失うモノのほうが多いんです。」

「(頷きつつ)ええ、でも・・・」


「(にっこり微笑んで)でも、先生。こんな爽やかな秋を感じる日は、少しは私も「救われた気持ち」になります。今日先生とお会いして話を聞いて頂いたただけで、ずいぶん気持ちが楽になりました。人間ってのは単純なものですね」

「はい。」

「人生は・・・冬に始まり秋に終わるんだそうです。中国の古典ですが・・・。」

「収穫の秋っていう意味ですね?高校の漢文の先生から聞いたことがあります。」

「はい、冬を背負った秋は、本当に悲しくて、寂しくて、切ない・・・。でも人生の終着駅というもんは、そんなものなんでしょうね。最後に「すべて」を失って、たった一人のマッサラの自分に戻り・・・。そして神様は(Tさんと奥さんは敬虔なクリスチャンだ)、人間達に実り(収穫:ハーベスト)を与えてくださる。」

「Tさん、こんな若造の言うことに気を悪くなさったらごめんなさい。逆に{人生の中で失われないもの}って、あるんでしょうか?」

「は?どういう意味ですか?」

「僕は仏教徒です。特定の宗派ではありませんが。実は先日、夏休みを頂いて、高野山に行ってきました。奥の院に向かう森の中の、巨大な墓地の中で思ったんです。太く・短く生きた武将達や、歴史上の偉人達、大金持ち、軍人達、若き英霊達、その他の多くの、名もなき(僕みたいな)普通の人生を生きた人たち・・・そんな、様々な人たちの墓と向かい合って、人生は終わってみれば、皆同じなんだ、ただ土に還るだけなんだ、と(いい言葉が見つからないんですが)僕はすごく{安心}したのです。」

「(はい)」と、静かにうなずくTさん。

「で、そう思ったら、なんだか吹っ切れた気がしたんです。実は、ここ2-3年、僕もずいぶん悩んでいて、折り返し地点は過ぎている自分の残りの人生をどうやって全うするべきか、って考える時がありました。{鬱}っていうほどはっきりしたものではないのですが、焦燥感とか不安感を感じることがありました。」

無言で僕を見つめるTさん。

「色即是空」っていうのは、厳然とした、決して動くことのない真理です。諦念ではなくて・・・、どんな人も生きている限り、いつかは真正面から向かい合わなくてはならない、ものなのでしょう。宇宙の存在の中では、泡沫のような人の人生なのですから・・・青臭いかもしれませんが、雨の高野山を歩いていて、僕は確かにそう感じました。うまく言葉に出来ないのですが。」


「いい夏休みでしたね、先生」

「はい」


「私も先生の話を伺って、高野山をまた訪れたくなりました。実は奥の院に、学徒出陣で一足先に逝った親友の墓があるのです。」

「そうだったんですか。Tさん・・・」

「こんな爺の話を真剣に聞いていただいて、ありがとうございました。」

「とんでもない、Tさん。僕の方こそ偉そうなことを言って失礼しました。それでは、来月お会いしましょう。お大事に・・・」

にっこりと微笑して、Tさんは席を立った。


救われたのは、実はこの僕だった。