July 10, 2013

吉牛BEEF BOWLのおもひで

1985年初夏。
無知であるが故の、まさに怖いもの知らずで、アメリカで生活が始まった。
「はったり」と「くそ度胸」と仕事のコツを覚えるのは昔から得意だった。
というか、それしか勝負するものがなかったのだ。
医師としての実績はゼロ。ライセンスの書類1枚、紹介状1通のみ。
日本の医局からのコネのある「お留学」とは全然違う。

もう今さら帰れないし(笑)。

何カ所面接に行っただろう?
それぞれの場所での真剣勝負のプレゼンで
サヴァイヴする術(といえば聞こえは良いが、いわゆる口八丁手八丁だ)
を駆使して、その年の秋口に正式なフェローになれた。

自分で言うのも何だけどよくやったと思う。
ひとつも決まらなければ、その時点で日本に帰ってくるしかなかった。
ラッキーな事に、人と出会いに恵まれた。
恩師Weiner先生のおかげが大きい。

USC(南カリフォルニア大学)のフェローとして
まず職を得たのがパサデナのCCSGだった。
LA小児病院の仕事との掛け持ちすることは、大変だったけれど、
給料を貰える事と健康保険が使えるようになった事は大きかった。
自分から頑張るしかない状況に追い込んだのだ。

さて、また食い物ネタ。
その当時の事で、今日思い出したのが、
当時良く通ったYoshinoya Beef Bowl。

あの若き日々。
多くの若者達が、当時アメリカで
どれだけ牛丼に励まされ、助けられ、癒されたか!
(誇張ではなく、本当にそう思う)
やはり日本人は米飯じゃないと
力が出ない

パサデナの店には
安くて旨くて、
本当に良く通った。
オレンジ色の看板を観ると
条件反射で入ってしまう位だ

CCSGのLab には
Larry君という黒人の青年がいて
彼といつもツルんで食べに行った。
Beef Bowl クラブだ!なんて言って
僕も彼も牛丼が好きで、
週に2−3回は行っていた。

彼はCal TechとCal Stateの工学専攻の学生
ナイジェリアからの留学生。
人懐っこい笑顔の良い奴だった。
その後、没交渉となっているのが残念だ。
元気だろうか?探してみたい人だ。

驚いた事に、パサデナの吉野家は
いまでも同じ場所にあるみたいだ。
http://www.yelp.com/biz/yoshinoya-pasadena
写真を見ると、似て異なる「別物」か?

ということで、僕の吉野家牛丼LOVEは筋金入りなのだ(笑)。

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原稿メモランダム

当時の僕の神経芽細胞腫Neuroblastomaの研究では
日本でも取り上げあれ、
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/3379552
その後の研究はイギリスの雑誌ランセットでも紹介された
http://www.lancet.com/journals/lancet/article/PII0140-6736(91)91072-3/fulltext
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/1678107
アカデミックキャリアを引退する前の、今は昔の話だ。

CCSG
http://en.wikipedia.org/wiki/Children's_Cancer_Study_Group