December 14, 2010

ストーリーを語れる人

今の立場上、壇上に立ってスピーチをすることが少なくない。オフィシャルな場での挨拶だったり、学会や研究会での講演だったり、学生への講義だったり、毎週の職場の朝礼だったり。最近では毎週のラジオの番組のコーナーもある。決して人前で話す事が「得意」なわけじゃないのだ。場慣れというのか、昔からあまりアガるということはないけれど、やはり緊張してしまい、内容的には自分で「まあ、うまくいったな」と思うことは十に一つだ。いつも「ああ、もっと巧く話せたハズなのになあ・・・」と後悔とも反省ともつかない忸怩たる気持ちになる。その昔、先輩達がいとも簡単に上手なスピーチするのを「すごいなー!」と羨望の眼差しでみていた。それに比べれば、僕の話なんて取るに足らない「時間の無駄」みたいな気がする。ブログやHPでの独り言や日記だって、自分の書いている内容を考えればどーでもいいことを書きなぐっているだけだし。

こんな話を人にすると、皆信じられない顔をする。もちろんお世辞もあるんだろうけれど、いつも自信満々で余裕で話をしているように見えるらしい。トンでもない!自分的には、全然本当に話したい内容のフォーカスからズレているし、ロジックも話し方も選んだ言葉も全然「ダメ」なのだな。結局、自意識過剰なのだと思う(笑)。正直なところ、どの場でも僕の話なんて、誰もろくすっぽ話を聴いていないんだから(笑)もっと気楽にやればいいのだけれど、「人によく思われたい」とか欲が出るのだろう。この歳になっても。修行が足りない。

で、今日昼休みにふと考えた。僕が好きなスピーカーにしてもブロガーにしても小説家にしても評論家にしても、上手に「自分の意見を語れる」人たちの共通点は、その時間内で「自分(なり)のストーリー(ノンフィクションでもフィクションでも)を構築できる」人なのだ。もちろん、スピーチであれは、声質とか、話す言葉とか、語るスピードとか、間とかの「語りのテクニック」も大切だろうし、書き物であれば、論理のシークエンスの巧みさとか、紡く言葉(単語)の的確さとか、比喩の上手さとかのテクニックも重要だろうけれど、本質的なところは同じだと思う。

ストーリーを自分なりに構築して、いかに人の心に届けられるか?という事じゃないかと思う。ストーリーのないスピーチは面白くないし、文章でも僕がシンパシーを感じるものには、必ず語る人独自の「ストーリー」と「世界」があるのだ。小説はいわずもがな。蛇足だけれど、いいスピーカーって人の見えない所で地道な「努力(原稿の推敲と練習)」をしてるものなんだね。自然に見えるスピーチほど、練習しているみたいだ(例:Steve Jobs)。僕自身、これはうまくいったなというスピーチは、例外なく十分時間をかけて練習している。そうそう、それをしないのが一番も問題なんだ。今、気づいた(笑)