助けあいジャパン

November 14, 2010

学ぶ姿勢と社会の階層化

内田樹さんのHP(11-10-2010)、階層化する社会について 
うううむ、と唸った。まったく同感。「自分らしく生きる」とか「自分探し」とか、ぬくぬくと耳に心地よいフレーズに、日本社会は毒されてすぎているんじゃないか?って僕も思っていたから。

以下、メモとして引用。
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「まわりの他人の動作の模倣を繰り返すことによって、子どもは自分の脳神経回路を、まわりの人間(大人と子ども)の脳神経回路と同様にすることによって、自己を形成してゆく。すなわち、まわりの他人の心を部分的に模倣して組み合わせることで、自分の心を作っていくのである。」(『日本人の脳に主語はいらない』、2008)
思考も感情も私たちは外界から「学習」するのである。
外界を遮断して、自分の内側をじっと覗き込んでいるうちに自生してくるような思考や感情などというものは存在しない。ところが、「自分らしさ」イデオロギーはこれとまったく逆転した人間観に基づいている。

問題は「私がすでに潜勢的に所有しているもの」を現勢化するための「チャンス」(しかるべき地位や年収、しかるべき敬意や配慮)が(誰かがそれを不当に占有しているために)まだ「私」に分配されていないことに尽くされる。
そのようにして、「自分らしさ」「自分探し」イデオロギーは「無権利者が占有している資源はほんらいの所有権者たる『私』に戻されねばならない」という「政治的に正しい」社会的格差解消論に結びつくことになる。

それは、「自分らしさ」を追求している人間は、「学ぶ」ことができないからである。
「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」
これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。
けれども、「自分らしさ」イデオロギーはこの言葉を禁句にする。
「自分らしさ」を追求する人間が前提にしているのは「私には知らないこと、できないことはない」だからである。

「私には学ぶべきことはない」と宣言してしまったものは、まさにその宣言によって社会の流動性を停止させ、社会の階層化と、階層下位への位置づけをすすんで受け入れることになる。
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冒頭に書いてあるように、内田さんは「上から目線で、学ばないものを叱咤している」わけでは決してない。社会階層の下位にあるものを正当化するイデオロギーの危険性について危惧しているのだ。

国民全員が「学ぶ」ことで、よりよい生活を目指すハングリーな社会(たとえば明治から昭和高度成長期までの日本)には、活力と未来があった。これからの日本は、階層化がさらに進むのだろうな。内田さんは「階層化」という言葉を使っているけれど、まさに「格差」のことだ。自分探しに奔走し、一発逆転みたいな夢(それも自分の努力とは無縁の宝くじが当たる的な夢)を見続ける幼児的なコドモ大人ばかりの国に将来はない。

一方、昔も今もたぶん将来も「超格差社会」の中国の知識エリート達の記事(Newsweek 11-12-2010)「中国エリートは欧米を目指さない」も興味深かった。別の意味でギラギラしているエリート達。この記事の論点は、中国のエリート達は欧米なんでメじゃないってくらい自信をつけているってことなんだけれど、このスケールで自分の将来の夢を描ける学生が日本に何人くらいいるのか?は心もとない。
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