April 16, 2009

チャンバラな人々

週刊文春の浅田次郎の連載小説「一刀斎夢録」。御一新(大政奉還)の後、明治時代にまで生き残った、新撰組の斎藤一が昔話を語る形式で幕末の日本を描く物語。毎週欠かさず読んでる。幕末の尊王攘夷、幕府側と倒幕勢力の入り乱れて、いかにも混沌としているように見える時代でも、普通の人の生活は生々しくあった。当たり前の話なんだけれど。どろどろした権力闘争の先兵として動いた新撰組の幹部は、みんな華々しく散ったのかと勝手に思っていたけれど、そうでもなかった訳だ。その場に居合わせて直に観てきたかのような、浅田次郎の想像力と発想の素晴らしさには、いつもながら感心する。

さて、戦国時代から江戸時代を舞台としたいわゆる「時代物」サムライ・ドラマでは、あまりにも多くのチャンバラ場面があって、どうも僕なんかはあの時代は、斬った張ったの殺し合いが日常茶飯事的に起こっていたものと思い込んでいたのだけれど、さすがにそれは大きな誤解なんだね。つーか、そういう事を改めて知った感じ。

刀を差した侍が闊歩していたチャンバラな時代であっても、ちょっとやそっとでは刀は抜かなかっただろうし、義や志はどうあれ、一人でも斬ってしまえば殺人という重い事実を背負い込む事は確かなのだから。とはいえ、お侍は皆刀を持っていて、そこらを歩き回っているわけで、それはそれで「緊張感」のある世の中であったんだろう。つまり身分が人格を高める義務を求め、社会制度がその正当性を担保していた。

日本の社会のすばらしいところは、士農工商のすべてのクラスの日本人が上昇志向というか、慎ましい生活をしつつ努力して自分を高め、結果として国力を高めていったという「背骨」の文化がしっかりしていたことだろう。その辺りが、植民地化された中国や朝鮮、中近東の諸国と違っている(優れていた)ところなのだろう。覚悟と気概が為政者にあったという事か。