助けあいジャパン

March 9, 2013

2年前のあの夜のこと:

2011-3-11 あの日。僕は午後14時予定の手術が延びて、14時半からになった手術をまさに開始しようとしていた。局所麻酔で中心静脈カテーテルのポートを挿入する手術だ。手術部位を消毒しドレープをして、メスを持ち手術を開始しようとしたその時、どーんっときた。開始していなかったことは本当にラッキーだった。もしも手術が進んでいたら途中で止めるわけにはいかなかった。

どっと来てから、グラグラっと続いた。それまで今まで経験したことのない揺れ。それもかなり長く揺れた。患者さんの安全を確保したことを確認して、まず初期の揺れが収まってから1階に上がった(カテーテルは地下一階でやっていた)。

ふつうの揺れではないことはすぐにわかっていたが、まだどこで何が起こっているのかはわからない。そのうち、院内の各セクションから続々報告が上がってきた。この時点で被害状況をまだ把握できたわけでなかったが、建物の損壊や院内の人たち(入院・外来)、職員のケガや事故もなさそうだ。非常事態として入院患者の搬出はこの時点では必要が無さそうだということで、病室に戻ってもらうことにした。

揺れによるダメージはそれほどのものではなかった。その時点で僕は、正直に言えば「この程度」で良かったなあ、とさえ思っていのだ。それがとんでもない誤りであることを僕らが悟ったのはその後だった。三陸海岸を襲う大津波の映像…その後に報道される映像をみて震撼した。とんでもないことがリアルタイムで起こっている。

その後、さらにどんどん情報が入ってきて未曾有の大災害の被害状況がわかってきた。実はそれでもその時点ではこれほどの事が起こっているとは思っていなかったのだ。信じられなかったし。実態が少しづつ明らかになったのはその夜になってからだ。

その夜は病院に泊まることにした。不思議なことにその夜は救急車が1台も来ない。異様に静かな夜だった。あとで分かってことは、あの夜は大渋滞で車が動かず救急搬送も機能不全だったのだ。また、通勤難民の人たちで道路は歩行者で溢れかえり、大変だったみたいだ。

その夜のことは忘れない。一睡もせずにテレビの報道とネット情報を観ていた。徐々にわかってきた信じられない現実。さらに福島の原発事故。今考えるとあの時点で、現場で震えながら救助をまっていた被災者や必死で頑張っていた人たちもいたことだろう。それを考えると忸怩たる思いがする。医師としてすぐにでも飛んで行きたかったが、初めて被災地(岩手県山田町)に入ったのは5月の連休。被災後1ヶ月で避難所生活がやっと少し落ち着いた時期だった。

あれから2年。早いものだ。
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