December 27, 2012

バチ(罰)が当たるということ

どの文化圏でも「因果応報」という概念がある。悪いことすると必ず罰(ばち)が当たる。だから、人間はみんな正直に正しく生きていかねばならない、という道徳観。これはわかりやすい。僕らの子供の頃は、今の子供達よりもっと言われた気がする。「バチがあたるぞ!」と。だから子どもたちは(大人も)舌を抜かれたり地獄に落とされたりしないために、良い子でいる。そのペナルティが厳しいものであるほど、倫理的に「正しく」あるべきと求められるのだ。

面白いのは、良いことが起きすぎても調子に乗ってはだめだよという意味で罰が当たること。バランスが肝要なのだ。

さらに、その罰(バチ)が当たるのは本人とは限らない。大災害を例に出すまでもなく、トンデモなく悪いことが起こってしまった場合に、それは人間が「悪しき事をした」からだ、という考え方をすると(そんなことはないのに…)辛い。さらに別の事象に因果を求めると悪いことが起きたのは「人間どもが飲めや歌えやと呆けていたからだ…」みたいな、まったく事実とは離れた感情論になってしまうと、これも逃げ場のない言葉の遊びになってしまい、厳しい。

今回自分が病気してよく判ったことがある(患者になって本当に多くを学んだ)。人は身体的不調を「何かのため」という理由付けをしたいものなのだ。さらにはこの「不幸な状態」は科学的な事実とは離れたところでわりと説得力のある「何か」(例えば自分にバチが当たった)のせいにしたい。誰も傷つかず納得できるから。病気になってみんな自分を責めるのだ。誰のせいでもない自分のことなのに。その患者の寂寥感、孤独感、不安感…etcについて、僕は医療者としてどれだけわかってたのか?今考えてみると甚だ心もとない気持ちになる。現在進行形の患者の一人としても。

考察を続ける。