最近、アメリカでの生活のことを思い出すことが多い。
John M Weiner(ワイナー)先生と奥さんのGayle(ゲール)
初めてワイナー先生とあったのはUSC医学部のメインキャンパスだった。まだLA に来たばかりでSSCGの本部機能も小さな木造の建物だった。パソコンを初めてさわったのもこのころ。1985 年。BASICでMS-DOSではなくてL-DOSというTandy-Radioshakというマシンの時代。はじめはの仕事はたひたすらデータを入力すること。山のようなデータをトレイに運びただひたすら入力。2週間くらいして初めて口をきいてくれた。それまでは普通の挨拶程度。そろそろ焦れてきたかなというタイミングだった。
ここで初めて1時間ちかく面接があった。
たぶん彼は僕を試したんだと思う。質問の嵐の厳しい面接だったけれど、耐え抜いた。あとから聞いてみれば、笑い話なんだけれどかなり必死だった。
本当にものすごく厳しい人で、その後知る限りで正規のフェローとなった日本人はいない。そのくらい要求されるものも厳しいし、甘えは一切許されなかった。
厳しかったけれどパサデナでの研究所での生活は快適だった。そこそこ給料もでたことが大きい。CHLAと半々の感じだけれどプライベートでも本当に彼らにお世話になった。
ワイナー先生は本当に厳しい人なのだ。きちっとしている。まじめ。そして頑固。こっぴどく起こられた事も何回もある。でもけっして見捨てない。仕事が終わらずひとりでオフィスにのこっていてもさりげなく後でフォローしてくれる。どれだけ多くの事を学んだか。
仕事を離れると一転してプライベートな顔になる。一旦心を許した人にはこれ以上ないくらい親切をくれる。僕らもそれに応えるべく一所懸命になる。
そういう付き合いなのだ/ユダヤ人特有の温かさなのだ。一旦仲間にしてもらったら本当に心から歓迎してくれる。
奥さんのゲールにも尚子がお世話になった。生まれたばかりの赤ちゃんだった加南子を本当の孫のように可愛がってくれた。アメリカから日本と全く逆の立場で孫がいた両親にとっても嬉し偶然だったんだろう。息子と娘みたいに。食事に何回も連れて行ってもらったし、いろんな所に行った。彼らの自慢の馬を見せに行ってもらったり(素晴らしい馬)、親戚一同の集まるパーティに家族ぐるみでおつきあいをしてくれた。僕は多くの事を彼らに教えてもらい助けてもらった。有能な秘書のルーシー、PHD のグレンダも随分助けてもらった。当時学生だったラリーにもお世話になった。多くの人たちに感謝。
そしてアメリカを去る日が近くなった或る日。
Marc 話があるからオフィスに来なさい、と。
なんだろう?オフィスに行ってみたら。。。。
ワイナー先生がニコニコしている。
大きめの封筒を手渡された。
中にはLAから成田までのファーストクラスのチケットが入っていた!!
驚きと喜びで言葉が出ないほど。
彼らの優しさと心遣いが嬉しかった。
あのチケットは宝物だ。
LAでの生活、パサデナでの日々
その後、ゲールが病気に倒れてバッファローに転居してからは一回LAでお会いしたのが最後。消息不明になってしまった。その後僕らも横浜、ニュージーランド、転居などをしているうちに時間が経ってしまい連絡もできなくなってしまった。不義理をしているうちにお礼もちゃんと出来ないまま20年以上経ってしまった。本当に申し訳ない気持ちがする。