4−4−2011「リスクヘッジについて」より引用(部分)内田樹研究室ブログ
「考える前に考えるんだ」
よいことばである。
最適な戦略的選択をためらわない冷血さと同胞に対する制御できないほどの愛情という矛盾を同時に引き受け、それに引き裂かれてあることを常態とすること、それが「戦争ができる人間」の条件である。その「引き裂かれてあること」を徹底的に身体化するというのが、「考える前に考える」ということである。
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私は別のところで、「考える前に考える」能力を「先駆的直感」と言い換えたことがある。どちらも同じことである。
エビデンスについて「存在する・しない」を論じるのは本質的にはナンセンスなことである。エビデンスというのは、「その時点での手持ちの計測機器の精度の関数」に過ぎないのだから、エビデンスは本来「感知できる・できない」という言葉で語るべきなのである。
感知できる人間に感知できることが、感知できない人間には感知できない。それは単純にメカニズムの精度の差に過ぎない。「数値的に考量できるものだけが存在するものであり、数値化できないものは存在しないものだ」と思いなすのは、「エビデンスが検知できないのは自分の手持ちの計測機器の性能が低いからではないか」という自省の習慣をもたない怠惰な知性である。そのような人間は「想定外」の事態の出来に対応することができない。
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危機に対する緊急避難的な手立ては、それが「正しい選択だった」というエビデンスが示されたときは、もう選択肢には残されていない。
4-7-2011 「荒ぶる神の鎮め方」
神仏習合以来、日本人は外来の「恐るべきもの」を手近にある「具体的な存在者」と同一視したり、混同したり、アマルガムを作ったりして、「現実になじませる」という手法を採ってきた。一神教圏で人々が「恐るべきもの」を隔離し、不可蝕のものとして敬するというかたちで身を守るのに対し、日本人は「恐るべきもの」を「あまり畏れなくていいもの」と化学的に結合させ、こてこてと装飾し、なじみのデザインで彩色し、「恐るべきものだか、あまり恐れなくもいいものだか、よくわかんない」状態のものに仕上げてしまうというかたちで自分を守る。日本人は原子力に対してまず「金」をまぶしてみせた。これでいきなり「荒ぶる神」は滑稽なほどに通俗化した。
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原発は人間の欲望に奉仕する道具だ。
そういう話型にすべてを落とし込むことによって、私たち日本人は原子力を「頽落し果てて、人間に頤使されるほどに力を失った神」にみせかけようとしてきたのである。もちろん、そうではなかった。