October 22, 2010

初めっから羽田にすれば良かったじゃん。

空港って子供の頃から好きだった。その昔、遠い外国に行くゲートウェイとしての空港は、「晴れの日」の舞台だった。このブログでも何回か書いた事があるけれど、1963年にオヤジがアメリカに行く時は一族郎党大変な騒ぎだった。親戚一同が集まって、羽田空港のロビーで見送ったものだ。たぶんせいぜい1ヶ月くらいの会社から派遣されるアメリカ一周の旅行だったはずだけれど、大人達の興奮は子供心に鮮明に憶えている。日本を出て「海外に行く」という事自体が、当時の日本人にとって非日常的なことだった。その舞台が羽田。出発ロビーの赤絨毯は「夢の国」への入り口だった。

時は流れて、1974年。高校生だった僕ら(僕、じょうじ、さく、DAN)は夏期の短期留学のためにイギリスに旅立った。その時もまだ成田は開港していなくて、羽田の赤絨毯から出発した。僕らにとって初めての海外旅行だ。大学に入ってからの毎年のアメリカ放浪旅行の2回目までは確か成田から旅立ったんだ。1976年くらいまでだったか。その後の海外旅行は当然ながら成田から。一度だけ台湾の学会に出席する時に成田からチャーター機で出発した事があったかな。いずれにしろ今となっては、羽田は「懐かしい過去の思い出の場所」だった。

成田の新国際空港が稼働するまでには、大変な産みの苦しみがあった。当時まだ子供だった僕らも知っている「成田闘争」は、社会主義&共産主義の政党(注:今の民主党の連中の多くが支持をした)の支持する当時の社会運動のシンボルだった。彼らの主張では、帝国主義的な国の横暴で、清く正しく生きている農民達の先祖代々の土地を取り上げるのはケシカラン!というものだった。単純なストーリーとしては、どう考えても農民に大義があるように見える「論理」に酔う左翼達。つまり農民たちが自分たちの土地を強制収容されるのを(心情的な拘りから)拒否して(それは十分理解できる)、それに過激派が乗っかって階級闘争に仕立て上げたわけだ。そこで彼らの「利害が一致」した。そこに、差し当たって「弱者に見える方」に味方することを是とするマスコミが、(よせばいいのに<笑)援護した(特にA新聞系)。滑走路を妨害する鉄塔を立てたり、むりやり農地を作ったりして、自分たちの権利をごり押しする連中とそれを援護する「えせ良心的な」マスコミ。これがいわゆる「三里塚闘争」の実体だろう。

たぶん当時の新聞記事をレビューすれば、担当した記者達(ほとんどがすでに引退しているハズ)は大赤面するはずだ。1980年代になって急に彼らの活動が萎縮するのは(自分たちも含めて<爆)多くの国民が成田を利用して海外旅行をすることになって、成田の「農民の正義のために」という彼らの立ち位置がなくなってしまったからだろう。

小説の結末を読んでから、そのプロットを非難するのはフェアじゃないとしても、あの大騒ぎは何だったんだろう?って思う。
子供心に傍から観ていても、どう考えても虚しいものだったと思うのだ。時は流れて・・・昨日羽田の新しい新東京国際空港がオープンした。素晴らしい施設だ。誰がどう考えても、成田より羽田の方が利便性も安全性も高いだろうし、将来性も高い。

では、なぜ30年前に初めから成田の沖合を埋め立てて新しい空港を作ろう!というプランが具体化しなかったんだろう。わざわざ不便な成田に新しい空港を作ることにしたのか?という説得力とか妥当性がみえてこないのだ。うがった見方をすれば、当時の日本社会は「対立の構図」が必要だったのかもしれない。社会の不満のガス抜きとしての成田闘争。初めから羽田という計画だったら、それもないわけだから。そこまで政治家が読んでいたとすれば・・・、まあ、それはナイか。