「人間の心(気持ち)のキャパシティ(容積)」というのは、どうやら決まっているものらしい。
うれしい、楽しい、哀しい、ツライ、心配だ、面白い、愛している、好きだ、嫌いだ、欲しい、欲しくない、憎い、残念だ、気持ちいい、気持ち悪い・・・様々なサイズの「質量をもった感情という塊(カタマリ)」を、人は皆その「心の袋」(暫定的仮称)みたいなものの中に持っていて、その限られたキャパの中で、「右往左往」しつつ生きているのではないか?と思うのだ。
これらの、ごろごろ&どろどろ&ふわふわした・・・色んな質量の「塊s」(複数形)の出し入れが、自由自在にコントロールできるのは(つまり「悟りを開いた状態?」は)、常人ではアリエナイ。だって、過酷な修行を修めて悟りを開いて空を飛べるようになっても、つい女に見とれて川に墜落して、さらにその女とヤッてしまう久米仙人みたいなこともあるんだから(爆)。つまり、我々は皆悩み、様々な感情に翻弄されながら日々を送っている。いい意味でも悪い意味でも。
悩んだり考え込んだりしている事があったとしたら、その人の「心の袋」(ふたたび暫定的仮称)は今、その重い塊(カタマリ)で一杯になってしまっていて、その他の塊sの入る隙間がない。でも、そのちょっと前まで悩んだり心配していた別の事については、いつのまにか「どーでもいいこと」になってしまっている。
つまり、今のカタマリは、時間が経てば必ず、別のカタマリに取って代わられる運命にあるということなのだ。
そのくらい「心のキャパ」は限られたもので、我々の感情というものは揺れ動くものなのだ。脳には必要にして十分な柔軟性と可塑性があって、無意識的に優先順位をつけて処理してくれるということなのだろう。医学的には脳の基本的な防衛反応とも云える。別の観点からは「今、この瞬間を大切に」という、普遍的な「宗教的真理」に繋がるのかもしれない。
マスコミで指摘されるように、僕も「心が病んでいる人」が最近では確実に増えている気がする。これを「ストレスフルな社会の病理」として捉えられることが一般的で、ある意味正しいとは思う。でも、もっとシンプルな別のロジックがあっていいような気がするのだ。ポジティブ&楽観的&陽転思考などのセミナーやら啓発本やらが、いつの時代にも巷には蔓延していて、つまりそれだけニーズがあるということだけれど、僕は違うと思う。それほどノー天気なことじゃないはずなんだ。
このブログでも書いているように、このところ僕も個人的な問題&課題山積で、さてどーすっかなー?といろいろと思い悩んでいることがある。まあ、些細な事と言えば些細なことなのだけれど、自分的にはそれなりに悩んでいるつもり。でもその観点から言えば、その厄介な塊は、今たまたま僕の心のなかにあるだけで、好むと好まざるに関わらず、そのうちいつのまにか別の塊が入ってきて、なんとかなっちゃうんだろうな。そう思ったら、ある意味スゴく楽になった。
やっぱり仏教の本を読んで勉強してみよう。