助けあいジャパン

August 4, 2009

黄色いコルベットとモスグリーンのトライアンフ



母方の叔母が、当時アメリカ大使館に勤務していたハロルドと結婚した関係で、子どもの頃からわりと英語らしきものを自然にしゃべる環境にあった。中学校で初めて英語というものを学校の教科として学んだ時に、へえー、ああ、あの言葉はそういう意味だったんだ、なんて感じたから。話すことにストレスがなかったことは、その後の学業や社会に出てからの仕事上のキャリア形成にとって役に立って、子どもの頃からいい経験をさせてもらったこと感謝してる。

1960年代の原宿は、軍属のハウスや大使館に勤務している職員の家族がたくさん住んでいて、独特の雰囲気があった。夕暮れ時になると人気の少ない表参道で、近くに住んでいたアメリカ人&日本人のガキ達と「缶蹴り」ができた時代なのだ。

週末にオリンピア・アパートメントの裏手のマンションに住んでいた彼らの家に遊びに行くと、当時憧れて観ていたアメリカのTVドラマの生活がそのまんまの現実としてあって(実際には虚構の世界だったことは1976年に初めてアメリカ本土に旅行して判る訳だけれど・・・)、本当に当時はわくわくした。冷蔵庫にぎっしり詰まっているコークとか、オーブン(彼らはストーヴと呼んでいた)で作る巨大なハム料理とか、当時は珍しかったイースターのターキーディナーのグレービーソースの美味しさに仰天したり、今はどこか判らないけど表参道の裏にある広場(公園?)でやったBBQで、ハインツのBBQソースの甘い香りに陶然となったり。ハローウィンのパーティでは、大人も子どもも無邪気に楽しんでいて、「まじめに遊ぶこと」を経験したかな(当時の日本では、「遊ぶ」ことはまだ罪悪だったと思う)。

1960年代のキティランドは、すでにハローウィンのデコレーションが飾ってあった。従姉妹が女の子(キャレン)だったためか、ハロルドは僕を息子みたいに可愛がってくれた。アメリカに帰国するたびに、日本には売ってなかったレベルというアメリカのメーカーのレーシングカーを買ってきてくれた。

彼はレストランに入ると、いつもコークを一度に2本頼んでた。当時の日本のコークは180mlだったから、巨漢の彼にとっては物足りなかったんだろう。

以前どこかに書いたけれど、オリンピアの前の並木道にいつも駐車していた、黄色いシボレー・コルベット・スティングレイと、モスグリーンのトライアンフのオープンカー。この二台が憧れの車だった。どんな人が乗っていたんだろう・・・.同じ車種の画像を探していて見つけたのが上の画像。このブルーのメタリックも人気色だったな。もしかしたら黄色でなく、この色だったかもしれない。記憶があやふや。

懐かしい記憶。その後、僕が医者になったことを、ものすごく喜んでくれた素子(もとこ)叔母さんは1988年僕らがアメリカから帰国した年に亡くなり(僕が看取った)、ハロルドは1992年、僕らがニュージーランドに住んでいた時に、フロリダの静養先で亡くなった。もう二人ともこの世に居ないんだね。従姉妹のキャレンは多分フロリダに居るとのこと。どうしているのか。。。。
今日、ふとしたことから、思い出した、懐かしい1960年代の原宿の記憶。
Powered By Blogger