January 9, 2008

promised young men

Promisedという言葉は、「将来有望な」というニュアンス。今日午前の外来では、司法試験の勉強に一所懸命の女子の学生、公認会計士試験を目指して頑張っている浪人中の男の子、午後は医学部の学生のSGD講義ということで、いわゆるpromisedな若い人たちと話をする機会があった。みんなそれぞれが自分の将来を信じて頑張っている人たち。でも彼らはラッキーなわけだ。自分の将来の夢に向かうパスが見えるし、一応今現在進行形でその路線を進む権利を得ているわけだから。ま、そのまま精々頑張りなさい(爺笑)。

今の世の中、僕らの世代が若かった頃と違って、出世や成功パターンが描きにくくなっている。キャリアパスにしても社会システムそのものが激動期にあって、ほんの10年前の常識が非常識になってしまい、新しい知識や技術がすぐに陳腐になってしまう。その変化のスピードに、皆ついていけなくなっているということで、上記の「勝ち組」以外の大部分の若者にとっては、きわめて厳しい現実が待っている。いい(というか高偏差値の)学校を出て、いい(給料や社会的信用のある)職場に就職をすることがイコール「将来にわたっての幸せ」を必ずしも意味しないことが、みんなわかってしまったワケだ。

じゃ、勉強しても意味ないじゃん、楽に楽しく過ごそうやって気持ちになったとしても、そんなに不思議じゃない。でも将来、相当厳しい状況が待ち受けているわけだ。成り上がるっていっても、それはそれですごく大変なことだ。昔も今も。チマチマと机に向かって勉強するとか、へりへろになるまで没頭して修行するとかが軽んじられてしまい、どうも「一発逆転」みたいなギャンブルを志向する若い人が多くなっているような気がするのは僕だけだろうか?

もちろん、僕らの時代にも「勝ち組」と「負け組」の間には厳然とした「格差」はあったんだけれど、僕を含む大多数の「普通の人たち」=「どっちでもない組」にとっても、そこそこの明るい未来は用意されていたんだけど、これからはその「格差」が更に大きくなっていくんだろうな、日本の社会では。

じゃ、どうすりゃいいのか?

やはり基本に戻って若いうちは「勉強すること」なんだと思う。学校の成績は二の次としても、自分のための勉強をすること。人生どこかで必死になって何か学んだり、技術を取得したり、自分に向き合った時期があるかどうかがポイントなんだろう。そういう泥臭いことってやはり尊いんだよ、やっぱり。

その努力もしないで、今の自分は「仮の姿」で「本当の自分」は別にいるっていう幻想を持つのは、若いうちはよくあることだ。自分探しの旅に出たりしてね。でも、根拠のない自信や努力に裏打ちされていない夢は、残酷なようだけど単なる「淡い希望」や「現実からの逃避」でしかないんだよね。

やっぱり精進するこったね>すべての若い人