September 20, 2006

失うもの、喪うもの

外来でのUさんと会話。結腸癌の手術をして早いもので6年目になる僕の患者さんだ。

「鬱、というわけじゃないんでしょうが、最近気分が塞いでしまうことがあります。この歳になってもメランコリーな気分になるものなんですね。」

「はい。」

「歳をとるというのは、哀しいことです。先生はまだお若いから、わからないでしょうが。こういう気持ちは・・・」
「・・・はい。でもUさん、僕にも少しはわかる気もします。今年で僕は50歳になります。」

「そうですか。ええ、そうかもしれませんね・・・。私も、あなたの歳頃には、毎日毎日必死で仕事をしていましたな。」

「はい。」

「この歳になると、毎日毎日{失うもの}や{喪うもの}ばかりなのです。」

「失う(喪う)もの、ばかりですか・・・。」

「病気の妻(彼の妻も末期ガンなのだ)を、喪う日のことを考えますと、真夜中に気が狂いそうになるほど寂しい気がします・・・例えが悪いかもしれませんが、二人で若い頃買った瀬戸物が、突然一昨日割れたりするし。先生もご存知でしょう、12年一緒に過ごしたロンが、私たちの犬ですが、先月死にましたし・・・。学生時代の友人達の便りは、ご家族からの死亡通知ばかり。生き残っている自分達が、逆に特別な存在みたいで・・・」

「でも、失う(喪う)ものばかりではないでしょう?日々の生活では{いろんなこと}があるし。ああ、そういえば、末の息子さんのお子さんもこの春に生まれたし、お孫さんの成長は見ていてうれしいものでしょう。」

「ええ、もちろんです。でも私たちの日々の生活は、単純で淡々としたもので、先生のおっしゃるような{いろんなこと}っていうのは、そんなに多くはないんですよ。私と妻にとっては、残された、限られた人生の時間の中で、圧倒的に失うモノのほうが多いんです。」

「(頷きつつ)でも・・・」

「でもね、先生。こんな気持ちのよい秋を感じるに日は、少しは私も{救われた気持ち}にもなります。人間ってのは単純なものですね(微笑)」

「はい。」

「人生はね・・・冬に始まり秋に終わるんだそうです。中国の古典ですが・・・。」

「収穫の秋っていう意味ですね?高校の漢文の先生から聞いたことがあります。」

「はい、冬を背負った秋は、本当に悲しくて、寂しくて、切ない・・・です。でも人生の終着駅というもんは、そんなものなんでしょうね。最後に{すべて}を失って、たった一人のマッサラの自分に戻り・・・。それを神様は(Uさんと奥さんは敬虔なクリスチャンなのだ)、生きながらえる人間達に、実り(収穫:ハーベスト)を与えてくださる。」

「Uさん。今考えたのですが・・・、あなたから見れば、こんな若造の言うことに気を悪くなさったらごめんなさい。逆に、{人生の中で失われないもの}って、あるんでしょうか?」

「は?どういう意味ですか?」

「僕は仏教徒です。特定の宗派ではありませんが。実は先日、夏休みを頂いて、高野山に行ってきました。奥の院に向かう森の中の、巨大な墓地の中で思ったんです。太く・短く生きた武将達や、歴史上の偉人達、大金持ち、軍人達、若き英霊達、その他の多くの、名もなき(僕みたいな)普通の人生を生きた人たち・・・そんな、いろんな人たちの墓と向かい合って、人生は終わってみれば、皆同じなんだ、ただ土に還るだけなんだ、と(いい言葉が見つからないんですが)僕はすごく{安心}したのです。」

「(はい)」と、静かにうなずくUさん。

「で、そう思ったら、なんだか吹っ切れた気がしたんです。実は、ここ2-3年、僕もずいぶん悩んでいて、折り返し地点は過ぎている自分の残りの人生をどうやって全うするべきか、って考える時がありました。{鬱}っていうほどはっきりしたものではないのですが、焦燥感とか不安感を感じることがありました。」

無言で僕を見つめるUさん。

「色即是空」っていうのは、厳然とした、決して動くことのない真理です。諦念ではなくて・・・、どんな人も生きている限り、いつかは真正面から向かい合わなくてはならない、ものなのでしょう。宇宙の存在の中では、泡沫のような人の人生なのですから・・・青臭いかもしれませんが、雨の高野山を歩いていて、僕は確かにそう感じました。うまく言葉に出来ないのですが。」

「いい夏休みでしたね、先生」

「はい」

「私も先生の話を伺って、高野山をまた訪れたくなりました。前に旅行したのは60年前ですか・・・学徒出陣で一足先に逝った親友の墓があるのです。」

「そうだったんですか。Uさん・・・」

「こんな爺の話を真剣に聞いていただいて、ありがとうございました。」

「とんでもない、Uさん。僕こそ偉そうなことを言って失礼しました。それでは、来月お会いしましょう。お大事に・・・」

微笑してUさんは席を立った。

救われたのは、実はこの僕だった。

そんな秋。