August 7, 2013

生きてきた証

人生には終わりがあり
誰にでも例外なく死がある
そして生物学的な死は連続性があるが
どんな死も「必ず突然」に起こる

テレビやドラマでは
「うっ!」と絶命したり
「す〜と眠るように、モニターが平坦になった」
のような表現はするが、
本来「穏やかな連続性」のある死生物学的な死を
便宜的に「定義している」だけだ。

死亡宣告する(される)状態の「死」であっても
生命反応の「ほとんど停止した」時期でも
細胞レベルでは生きている

不可知の神聖な何かによって
こっち側とあっち側の
どちらかに分けられる

リアリストでサイエンティストである医師として
僕は、そこに異議を申し立てる余地はまったくない。
そのくらい死の瞬間は白黒つけられるくらい明瞭な方が良いと思う
(だからこそ、セレモリーとしての葬式、グリーフの習慣等は、社会の中で生きた証として意味のある事なんだろう。)

断崖絶壁から突然落ちるようなモノだろうか?
滝に向かって川下りをしているイメージが近いか?
それともすーと、天に向かって昇って行くイメージなんだろうか?
死を前にして、茫洋とした意識の中で
人は何を感じるのだろうか?

古今東西言われてきた事だが
後悔のない別れ=死なんて
ありえない
誰だって死にたくないし
死ぬのは怖い
そして、死ぬその時まで人間は
社会に何らかの形で
コミットしている

これからの時代
自分の死を
様々な形で(様々なメディアで)
残しておく事が可能に
なっている時代

人生の新しい時代の人生の
クロージングの仕方について
様々な方法論について
このところ考えている