June 17, 2013

いい加減にしなさい!という魔法の言葉

 上方漫才。ボケ役が笑いをとってから、最後にツッコミ役が「いい加減にしなさい!」と、相方の肩口を軽く叩く。ここで大袈裟にコケて場内爆笑!で幕引きとなる。これこそ予定調和の笑いだ。
 
 同じような場面で、江戸の落語では、すったもんだの挙げ句、え〜い、べらぼうめ「たいがい(大概)にしておけ!」となる。血の気の多い江戸っ子の喧嘩の仲裁役となる長老が、一喝するときの決め台詞だ。つまり、街場の喧嘩はある程度自由にさせておいて、最後は親分の一言で決まる。大岡越前も、遠山の金さんも、水戸のご老公も、皆同じだ。

 当人達は本気で怒っている訳ではない。それほど困っている訳でもない。つまり「落としどころが既に決まっている」という予定調和の「お約束」なのだ。

 「もう我慢がならね〜、いい加減にしろ!」とか、「いい加減、待ちくたびれた」とかの「いい加減」というのは、許容される範囲がすでに決まっている事が多い。

 マスコミやネットから世界中に流される膨大な情報の中で、我々は本来の感受性を失って不感症になってしまっている。バランス感覚は常に意識していないと、ヴァーチャルな世界があたかも実体験を越えた錯覚さえ持つことになる。

 本気で怒ったら「いい加減」ではなくなってしまい、シャレにならない。逆に言えば、ここまで許容範囲だが、これからは「本気」になるぞ、という意思表示ともいえる。そこには日本人特有の優しさ(と甘えが)が透けて見えるようだ。 

 否定的な文脈で扱われる事が多いように感じるが、この「いい加減」に相当する日本語の巧い訳語は見当たらない。決してappopriateとかsuitable の「反対語」ではないのだ。この適当さ(曖昧さ)が日本の偉大な「発明」なのではないか?と思う。シニカルな意味でなく。

 逆に、定義をしないと「幸せかどうかわからず」安心できないという不安が、現在の日本人の不幸の種になっている気がする。精度を高めていくのが従来の「科学」だとすると、その「いい加減」さは、モラルであり、そして文化だろう。

 かように、日本語にはかなり高度な心理的葛藤をオブラートに包む術がある。もともと日本文化の洗練されたところは「いい加減に」良い加減なのだ。