April 2, 2013

ランデブー rendez-vous って死語?

i-Phone5 にして、まだ慣れていない。LTEの設定のせいなのか接続が不安定。原因があるはずだけれど、集中力がないので「ま、いっか」の繰り返しで日々過ごしている。使えているんで、ま、いっか(笑)。

それにしても、携帯にしてもメールにしても様々な「繋がる」ことが可能となったことから、逆に「繋がってないと不安」という新たな不安に僕らは苛まれている。ほんの少し連絡がとれなくなるだけで、社会からの疎外感や孤独感を感じてしまう。

個々のリアルな関係性は疎になっているのに、流れるコミュニケーションの質も量もスピード感も明らかに変わった。身体と感性の方がテクノロジーに追いついてない。僕らは今までになかったストレスに晒されているのだ。

僕らの世代でさえそうなのだから、その上の世代からしてみると大きな壁があるんだろう。まさにデジタルデヴァイドなのかもしれない。

さて、東横線のホームが大改装して新しくなった。そのプラットフォームに、甘酸っぱい思い出がある僕らオジサン、オバサン世代は多いと思う。すごくベタな言い方をすれば、渋谷〜原宿周辺は僕らの青春の現場そのものだった。

その昔、1970年代の少年少女たち…

♫ 凍えるような 風のなかで
   コインを握りしめて
  夜の街を
   ひとり走った
  あの頃 切ない夜

 初めて出会った時の
  お互いの気持ちを
 僕は忘れたくなくて
  自分勝手な思い込みだとは思いたくないから
 声を聞いて 眠りたかった
(携帯電話のなかった時代 Huckleberry Finn, 1972)

まずデートそのものをする事自体が大変だった。まず彼女の家の電話番号を入手することから始まる。電話が掛かったとしても、だいたい初めに出るのはその家のお母さんで、爽やかで真面目ないい印象を持ってもらう必要がある。それが第一関門(笑)。うまく彼女に電話に出てもらいデートの約束をするまでが第二関門ということになる。

僕らの場合には渋谷〜原宿周辺で悲喜こもごものドラマがあった。もちろん日本中で同じようなことが起こっていたんだろう。

何時にどこで会いましょう、というのが普通の約束で、少なくともその10分前までにその場所に到着しているのが当たり前(の常識)だった。だから約束の時間に遅れる場合に様々なドラマが生まれる余地があった。たまたま待っていた場所がちょっとずれていたり、言葉のスレ違いで場所とか時間とかで誤解を生じたり…だから男も女もドキドキしながら約束の時間にランデヴーの場所に向かった。

携帯電話やメールがないので自分の状況を知らせる術がない。つまり外出したら出会うまでは待ち続けるか歩き続けるしか(あとは諦めるか)しか方法がなかったのだ。

その場所で会えなかった場合、もしかしたら何か相手にあった(事故とか?)のではないか?とか。変わって突然会いたくなくなったんじゃないか?とか…それぞれが(相手を思って)様々なことを考えるわけだ。どうしたのかな〜なんて、街には人待ち顔で立っている若者(男も女も)が駅にはたくさんいた気がする。ある意味、のどかな時代だったのかもしれない。

相手を思う気持ちは同じでも、かんたんに個対個で繋がってしまう今の時代の若者たちは可哀想だなんて負け惜しみを言ってるオジサン達である。