June 21, 2011

「一定のめど症候群」

毎週火曜日朝の職場の朝礼。開院以来14年間すっと続けている。冒頭にちょっとだけスピーチをすることになっており、そのネタは大体その日の朝の通勤電車で考える事にしている。今日のネタは、朝の産經新聞に出ていた「一定のめど症候群」について。この記事は教育現場で子供達が「いますぐにやるべき事をやらない言い訳」として「一定のめどが立つまで」という言葉を使って困るという教師の言葉から始まる。まあ、これは絶対にウソだと思う。ヤラセではないまでも事実をかなり自己中心的に誇張しているだろう。「今やろうと思ってたのに!」というのが古今東西のこどもの言い訳だ。仮に本当だとしたら、実に子供っぽくない言い訳だと思う。さはさりながら、この記事の本論は日本人の美意識では一番みっともないとされる、例の「引き際が汚い、勘違いバカ男」のことを糾弾したいわけだけれど。

「一定のめど」を設定する事は、有象無象の跋扈する浮き世で流れていくためには「しかたのないこと」なのかもしれない。でも、これは浮き世に生きる僕ら市井の民の話で、「震災後」の国家の一大事に、旧来の古い秩序や権威やシステムも壊して新しい事を始めるためには、スピード感が大切なのだ。そこで「ちょっと待ってね・・・今やってることのめどが立つまでは・・・」は問題外だろう。退場は潔く速やかにというのは常識だろう。試合はエンドレスで続行しているのだ。

 そして、そのパラダイムの大変換に際して「それが出来ない理由」は簡単にいくらでも出す事が出来る。その言い訳としては耳に心地よいのは「今やっている事の一定のめどが立つまで」なのだ。でも大きな過ちや失敗に気付いた時に「もう始めちゃったんだから”一定のめどが立つ”まで・・・」というのは自殺行為だ。まさに今回の震災復興のプロセスの大切な時期に、愚かな男はその言葉をはいた。僕の30年間の医師としての経験から、5月の時点で彼は視野狭窄と思考停止に陥っていて、正常の判断は出来ていないと判断した。側近はどうして動かないんだろう。刺し違えるくらいの覚悟はあってしかるべくなのに、自己保身が大切なんだろうか?それほどのもんでもないでしょう?

 太平洋戦争末期の大本営首脳部がそうだったろうし、最近では原発の問題がまさにそうだろう。小さいながらも組織の長としての自戒の言葉として意識した。あとは時間の問題。

夜は地区医師会の災害時医療支援チームのミーティングの司会進行。今回の震災を経験して真剣なディスカッションが出来たかな。