うざかったのだ、Facebookを実際に使い始めた当初は。お節介だし、うるさいし、プライバシーを晒すのがリスキーみたいだし。まあ、こんなものはリアルの人脈の乏しい若者達のための「出会い系」サイトなんだろうなって思っていたのだ。たしかに、去年の夏頃からだったか、アメリカを初め海外の友人知人達が盛んにFacebookのアドレスについて言っているのを「ほへー?なんだろ?」と思っていた。でも当時の日本ではtwitterの方が人気があったし、その匿名性の気楽さは、それなりに心地よかったのだね。ネコも杓子も、もちろん僕もどーでもいいことを「つぶやき」始めてたんだ、あのころは。
なぜ今世界中の人たちに使われているのかが、今になってやっとわかってきた。オッサン世代は保守的で新しいものに対して「まず疑ってかかる」ことに慣れているので、偏見で随分遠回りをしてしまった気がする。リアルの「繫がり」を今の時代に最適化すると、こういう感じになるんだろうな、と今になって気がついたのだ(おそっ!<笑)。というのは、最近関わらせてもらっている「助けあいジャパン」プロジェクトは、FBを駆使して動いている。時代の最先端でFBを使いこなしている人たち。目からウロコだった。リアルに会った事がない人たちと、アップデートされた情報を共有し、ディスカッションし、アウトプットしていくプロセスは、アナログ主流の医療の世界の住民の僕にとっては新鮮だ。まだまだ機能的には未熟で現在進化中のものも多いのだけれど、進化し続けるはずのFBを使いこなしていけば、今まで以上に空間軸と時間軸を縦横無尽に動けるようになる気がする。いい勉強になった。今まで僕が知らなかった時間軸と空間軸の移動の仕方、かな。カッコつけて言えば。
それともう一つ。FBが出来上がって来たプロセスについては1月に観た映画「ソーシャル・ネットワーク」で知った訳だけれど、ある個人の属性を表すのに、年齢とか性別とか出身地とか職業だけじゃなく、卒業した高校とか大学とか大学院とかを書く事になっていること。これは学生の考えたネットワークだから...と、使い始めた当初は胡散臭かった。でも使ってみるとこれが意外に有意義なのだ。学歴や職歴をみればだいたいその人がどのような価値観でどんなことを考えているのはわかってしまう。ネット上に実名で(脱がないまでも)パンツ一丁でストリートを歩いているみたいな不安感があるんだけれど、実はここに意味がある。だって歩いているがみんなパンツ一丁だから(笑)。その素性が「なんとなくわかる」安心感というのは、意味が有ると思う。匿名性の高いネットの世界(2ちゃんとか)は人間の汚い部分がどうしてもどんどん淀んでくるけれど、FBのような世界では性善説でポジティブなベクトルに進む気がする。仮に悪い方向に進みそうになっても軌道修正のベクトルができるし。あ、パンツじゃなくてパジャマくらいのカジュアルさかな?