最近我が家がハマっている韓流α「華麗なる遺産」も、そろそろエンディング。昼間放映なので、夜帰宅してから録画を観るのが楽しみ。あと2回で終わってしまうのが残念だ。いいドラマっていうのは、「えーーーもう終わっちゃうの!もっと続いてほしい!」って思うものだけれど、コレもその一つ。登場人物の設定もキャラも絶妙だし、ストーリー自体はある意味正統派でクラシックなんだけれど、絡み合った伏線と複雑な人間関係が実に面白い。韓国特有の血族内の関係の濃さとか熱さも興味深いし、なんといってもヒロインのコ・ウンソン(ハン・ヒョギョ)という女の子のキャラは魅力的だ。息子の嫁に是非って感じ(・・・いないけど>笑)の、僕の考える典型的な「あげまん」。彼女とソヌ・ファン(イ・スンギ)の関係、それをとりまくスンミとジュンセたちとの関係。これも、じつにクラシカルで切ない恋愛なんだな。
このドラマを観ながら「異性を見る目」ということについて考えた。つまり自分のパートナーを(それが妥当かどうか)評価する「目」とは何か?ってこと。顔かたちやスタイルなどの外見が好きだとか、その人の雰囲気や考え方が好きだとか、恋愛ってのはふつう自分勝手な「思い込み」から始まる。当事者同士が気づかないうちに、引かれ合うきっかけとなる「何か」が、どんな恋愛のストーリーでもあって、徐々に心が向き合って行く。そのプロセスの中で、それぞれ「相手をもっと知りたい」とか「自分を理解してほしい」ということなってきて、そこに様々な(悲喜こもごもな)ドラマが生まれるわけだ。なーんてわかったようなこと爺くさく書いちゃっているけど(爆)。ところが、そんな燃えるような恋愛であったとしても、それが長期的に持続する保証なんて全然ない。もちろん「太く短く」が「細く長く」よりエラい(笑)っていう意味では全くないんだけど、前者のほうがドラマチックであることは確かだ。とにかく、長い短い関係なく恋愛というものは不確定で不安定なもので、しかるに、古今東西「結婚」という社会的システムを人類は作ってきたわけだ。
相手(異性)を見る目がないと、人生とんでもないことになるのも古今東西変わらない真実。若くて未熟な人間が、同じく若く未熟な相手の「将来性」をどう見極めるか?。結論から言えば予測するのは「かなり難しい」(笑)。自分のことだってわからないのに人のことをわかる訳がない。もちろんいろんな人生経験をすればある程度「見る目」は養えるとしても、絶対確実なものじゃない。この韓流ドラマの、どうしてもファンを諦めきれない女の子スンミとか、完璧にいい人なのにウンソンにふられちゃう男ジュンセ。苦悩する彼らに「見る目」っていうのが、あるのかないのか、僕は判断できないわ。まあ惚れた腫れたに理屈はない、と言ってしまえばそれまでなんだけど。
それでも親としては、うちの娘達に是非とも「見る目を養ってほしい」とは願うわけだ。25年間も、かみさんと僕は夫婦なわけだけれど、これまでなんとか続いて来れたのはお互い「見る目があった」というより、「運が良かった」ということなのだろう(爆)。つまり「持って生まれた運」みたいもののほうが大きいものなんだろうな。今回の韓流ドラマを観ながら、あげまん論についてはもう少し考察を進めよう。
「あげまんには無意識の自覚(つまり天性のもの)があり、さげまんは意識的な無自覚(後天的な資質)がある」