昨年暮れに急逝した親父の四十九日の法要。7週間、49日間「喪に服する」という日本の慣習は、昔の人の生活の知恵なんだなと、その絶妙な長さに感心する。この時間の中で故人を偲び自分の人生を見つめ直すにはこの49日は短すぎず長すぎず。僕自身、仏教徒としての具体的なお務めもしていないわけで、この機会(いわゆる「ご縁」、仏教的には)に宗教/心の拠り所としての「仏教」に改めて向き合ってみようと思った。医師というのはリアリストで科学者であることが求められる。しかし、当然ながら人の死と向き合う者として、哲学や宗教は切り離せないことは自明だ。特定の宗派を信じ込んでのめり込む気はもちろん全然ないけれど、教養というか人生の糧としての宗教は大切なものなのだと再認識した。
今日、導師からもらった雑誌にかいてあった文章の「大慧禅師発願文(ダイエゼンジホツガンモン)」からの引用で、
・・・臨命終の時、少病少悩、七日已前に予め死の至らんことを知って、安住正念、末後自在に此の身を捨て了って、速やかに佛土に生じ・・・
ふむふむ、今までふつうに聴き流していた意味不明のお経に、こんな意味があるんだ!という、アタリマエの真実に気付いた。