この歳になるとクリスマス・イヴといっても、ごく普通の夜なのですね。でも、若い頃はそれなりにイベントの夜だった(笑)。今日、ふと憶い出した1989年のイヴの夜のことを書いておこう。懐かしい、そして、今思い返してみれば珠玉の夜だった。
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その頃僕は、アメリカから帰ってきて医者として自分の進む道を模索しつつ、四苦八苦していた。神奈川県立こども医療センター(KCMC)の小児外科のシニアレジデントとして忙しい毎日。朝7時からの回診から始まり深夜まで走り回っていた。昼夜を問わず緊急で呼び出され、プライベートと仕事の区別のほとんどない生活。敷地内にある家賃2万円のぼろぼろの官舎に住んでいて、長女かなPが幼稚園、次女ゆっつんがよちよち歩き位、三女さーちゃんはまだ生まれてなかった。かみさんは子育てで本当に大変な時期で、ゆっつんをおんぶしながら近くの幼稚園に送り迎えしてた。正直、子育てはかみさん任せで、僕は自分の仕事で日々生活するので精一杯だった。
クリスマスの近づいたある日。サンタさんを信じているかなPに聞いてみた。
「ねえ、今年はサンタさんは何をプレゼントしてくれるかな?」
「ううん、わかんない。でも、たぶんサンタさんは、本当にかなちゃんの欲しいものを知っているよ。」
「えっ?でもさ、サンタさんは世界中の子供達にプレゼントするから、かなちゃんの欲しい物を忘れちゃうかもしれないよ?」
「そうだね。たくさん、だもんね」
「うん。忘れちゃうといけないから、パパとママが今日サンタさんに電話しておくよ。」
「わーい、じゃ、『かなちゃんのお家が欲しい』って、サンタさんに言っておいてね」
「(ええっ?)お家ってどんなお家なの?」
「かなちゃんが住む家だよ。かなちゃんのお家だよ」
「そっか・・・・・・。わかった、じゃサンタさんに伝えておくよ」
1989年のイヴは日曜日で、僕は前日の23日の土曜日の午後、当時の上司の外科部長の西先生に事情を話して許可をもらい(今改めて考えてみて、こんな馬鹿げた話を真剣に受け止めてくれた今は亡き西先生は本当に素晴らしい人だ!)僕は子供用のお家のおもちゃ探しをするために、16号線沿いにあったトイザラスへ。でもそこにあったのはビニール製のチャチなおもちゃばかり。これじゃ、ダメだ・・・。どうしよう?かなPの欲しい物とは違う・・・。結局、そこでは何も買わず、一旦帰宅してから、横浜の東急ハンズへ向かった。
大きな発砲スチロールとカッター、接着剤とカラースプレーを購入。かなちゃんに気付かれないように、狭い官舎のベランダにそれを置いた。そして24日の日曜日の夜。我が家のクリスマス・イヴのささやかなご飯&ケーキ。サンタさんは、今夜はすごく忙しくて、ゆっくりご飯も食べられないだろうから、このクッキーをツリーの下に置いてあげる...という、かなP。そうだねと僕とかみさん。
お腹が一杯になり、ご機嫌で布団に向かうかなP&ゆっつん(まだよちよち歩き>笑)。大人になっちゃった今でも憶い出すけど、彼女達は(少なくともあの時代は>爆)天使だった。
彼らが寝入ってから・・・僕とかみさんは二人で一所懸命発砲スチロールで子供達の「お家」を作った。2−3時間はかかっただろう(爆)。結構必死で作った。今考えてみればかなりの重労働(笑)。適当に作ったのだけれど、最後に色を吹き付けて屋根に綿のスノーを飾ったら、それなりの「ハウス」になった。最後にツリーの下のクッキーをひと齧りして・・・
1989年のクリスマスは月曜日。
朝早くまだ暗いうちに起きたかなちゃんは、リビングに鎮座した「彼女のハウス」に狂喜乱舞。少し開いた窓、ツリーの下には一口齧られたクッキー。
「わー。わー。パパ、ママ、サンタさんが本当に来てくれたよ!早く、早く起きてよ!!」
寝不足気味の僕とかみさんは、布団の中で「ガッツポーズ」をした(笑)。
幼稚園と官舎のお友達をたくさん連れてきて一日中遊びまくったために、彼女の「お家」はその日のうちにぼろぼろになって倒壊してしまったけれど(爆)。