July 18, 2008

Looking for Dr. Weiner(その1)

今までの人生の中で、お世話になった師を一人挙げるとすれば、僕はDr. John M. Weinerを第一に挙げる。彼に出会えた幸運を感謝したいと今思うのだ。

1985年5月に結婚して3週間後、僕は身重のかみさんを日本に残して一人でLAXに降り立った。しゃがみこみたくなるような不安を、精一杯の虚勢を張ることでバランスをとりながら・・・。手許に握り締めていたのはほぼ連日の当直のバイトで貯金した2万ドルとアメリカのECFMG(医師国家試験)の免許のみ。その時の気持ちを日記に書いているのだが、熱い期待に燃えている自分がいる。今読み返してみると、その根拠のない自信と楽観的な見通しの甘さに赤面を禁じえないのだが。しかし、若さというのは、そもそもそういう「恥ずかしい」ものなんだろう。

その前年のサンディエゴの学会で会ったCHLAのHays教授の研究室でお世話になることは決まっていたが、9月までに正規採用のフェローにならなくては給料をもらえないので食っていけない。秋には子供が生まれるし。まずレジデントの宿舎に落ち着いて、アパート探し、カリフォルニアの運転免許の取得,SSの申請などであっという間に2週間が過ぎた。

クリニカル・フェローとしての面接が始まった。日本の形式だけの面接とは違い、最低でも2時間かかる真剣勝負の面接。初めから採用する気がないのがミエミエのものもあったし、日本からのフェローを露骨に差別するヤツ(今まで雇った日本人のフェローのように、どうせまともに英語が話せないんだろって感じ)もいて、毎日がストレスで押しつぶされそうな日々。最悪、1年くらいでDr.Haysのプライベートファンドで論文を一本仕上げて帰国するしかない・・・というところまで追い詰められた時期に、Dr. Weinerと出会った。

その時期のカリフォルニアとしては珍しくしとしと雨の朝だった。

Hays先生の秘書から渡された地図で探した当時Zonel Ave.にあったUSCの彼のオフィスに入る時、肩の力が抜けて自分でもすごくリラックスしているのを感じた。部屋に入り、まずは自己紹介。Jewish特有の風貌と彼ら特有のシニカルで含みのある言葉。眼光鋭く、繰り出される辛辣な質問の嵐。履歴をチェックしながら的確な急所をつく質問に緊張しつつも、まずまずうまく答えられたかなと思った瞬間、彼の最後の言葉。

「まーく。経歴も君の英語も問題ないと思う。君の英語は僕の日本語よりマシなだけだけどね(笑)。実は朝鮮戦争の時、日本で過ごしたことがある。日本人は本当に親切で素晴しい人たちだ。横須賀のバーの思い出は人生で一番の体験だったんだ!明日からオフィスに来てほしい!」

横須賀で何があったのかは知らない(笑)。でもその場で僕は合格し、僕は晴れてUSCのフェローとして正式採用されたのだった。しかし、実はそれからが大変な毎日だった。(続く)