May 13, 2008

桃李

桃(もも)や李(すもも)は何も言わない(ただ、そこに在るだけだ)けど、そのかぐわしい香りに誘われ、歩きつかれた旅人がその果実を食べる。ひとり、またひとりと。その動きに沿って、自然に細い径(こみち)ができる。

その径から蹊となり、そしていつの間にか往来ができ、小さな路となり、桃李の木の下には道ができる。桃や李の花と果実は、それでも「何も言わない」。だた咲き、散り、果実を実らせ、そして落ち、四季を繰り返すだけだ。

何年、何十年、何百年・・・の悠久の時間の流れの中で、いつの間にかその道の周辺に集落・村ができ、町になり街になる、そして都市になるのだ。

きっかけは、桃と李の存在「だけ」。

「桃李不言自下成蹊」

H高校のS先生から学んだ言葉。授業で初めてこの話を聴いたときに、すごく感激したことを憶えている。
16年前、4年過ごしたKCMCを去るにあたり、桃李に喩えてそんな文章を書いたことも思い出した。

どちらかといえば右翼だから(笑)、今の中国(あっ、中華人民共和国のことです)という国家体制は大嫌いだけど、昔の中国(これは本来の意味の支那)の古典(特に仙人の話)は好きだなぁ。いつかこのプロットで何か書いてみたいと思う。近未来SFの「杜子春」はここ数年のテーマ。

話は変わるけど四川省の大地震のニュースを聞いて、僕らに何ができるのかをも考えたりして。国家体制は大嫌いだけど、そこに住む人たちは僕らと同じ人間で大切な隣人なのだから。でもあの国のことだから、国家間の支援について、北京オリンピックを前にしてひと悶着あるんだろうな。

やれやれ(そういうところが嫌い!)。
そんな地震の大混乱の中にあっても、今でもそこに「桃李は在る」んだと思う。

それを信じよう。