助けあいジャパン

August 21, 2013

医療相談

パソコン通信の1988年頃、
いわゆる医療相談を始めた。
当時はまだ珍しかった事もあり
海外に住んでいる日本人(アメリカとは限らない)方達から
さまざまな相談が届くことになった。

その後、日本、ニュージーランドに移ってからは
インターネットでの医療相談が中心となった。
1995年頃から爆発的に質問や相談が増えたのには
そういう時代背景がある。
ネットでの医療相談が当時はまだ珍しく、
新聞雑誌のメディアに紹介されたくらいだ

患者を診ないで診療する事(無診察診察)は
法的に禁じられているが
多くの患者と家族が
「医者なら解る筈だ」と
広く誤解している。
この点の誤解については別項にて述べた
(拙文 "Father Knows the Best")

いつでも(昼夜関係なく)、
誰でも気軽に医療情報に
アクセスでき、Wikiなどのデータベースや、
ネットでの検索可能となったことで
飛躍的に便利になった

もちろん医学的に誤った内容ではいけないし
学問的にcontroversial な内容でも
相談では踏み込まないと意味がないことが多い。
つまり多くの相談は「一筋縄でいかない」ことが多い。

個々の相談に
ボランティアの個人が
「回答」をすることに
さまざまな問題が出てきた。

真摯に応えようとすほど
求められる内容も複雑で
深刻な相談が増えたのだ。

その後、紆余曲折ののち、10年くらい前から
ネット上の医療相談は「卒業引退」している。
FMサルースの香月さんの番組で「教えてマーク先生」
というコーナーを1年ちょっとやらせて頂いた位

インターネットが一般に普及してから約20年が経過し、
相談する側もされる側も、成熟してきたのか?
まだ解らない。

全然別の事を書き出したのだが、長くなったので次項へ。

August 20, 2013

水路

緩やかな
カーブのある
水路に沿って

海岸線を
どこまでも
歩いて行きたかった

ゆっくり
ゆったりと
流れる

風の音(ね)に
耳を澄ますと
遠くで誰かが
呼ぶ声が聞こえた

反芻する波の音に
かき消されないように
あなたの言葉が
消えてなくならないように

淡い残像(おもかげ)が
渚に長い
影を曳いた
夕暮れ時

暑かった夏の日
火照る肌
 
胸騒ぎがした

たぶんあのとき
確実に
あなたに
恋をしていた

時間の止まった夏 

(2013)
〜〜〜〜〜〜

「初恋」かどうかさえ、あやふやな記憶。
東京オリンピックは終わっていたので、1966年頃だと思う。
当時大学生だった叔父の運転する車(日野コンテッサ)に乗せてもらって
湯河原の家と湘南方面によくドライブした。
ラジオか、あのガシャっと入れる
「8トラック」が主流だった。
ああそういえばエアコンも付いていなかった。
車のクーラーが一般化するのは、もっと後だ。

茅ヶ崎のホテルパシフィック
当時の憧れの場所
そこにいるだけで
夢現つ(ゆめうつつ)に
なってしまう場所だった

西日の眩しい車の中
ぼーっと外を眺めていたら
突然、同級生の女の子のことが
思いだされて、苦しくなった。

何とも自分で表現できない
「やるせない気分」
「切ない想い」
になったことを
憶えている。

あれが初恋だったのか?

『夕日、湘南、ホテルパシフィック、スパイダーズ』で
記憶に刻まれている。

1966年
「夕日が泣いている」スパイダーズ

日本人らしい所作(しぐさ)

立ち振る舞いや
動きを見れば
どんなバックグラウンドの人か
推察できる

例えば、日本人の場合、
歌舞伎などの演芸文化
武道の所作
茶道などの「道」などの
動きは特有で
オフィシャルな「立ち振る舞い」がある

本来の日本人としての生活習慣と
この訓練修練の賜物だろう

日常生活では、欧米人が戸惑うくらい
やたらとぺこぺこお辞儀をしている
そのお辞儀の仕方も
日本特有のものだ。

会話の時に目を合わせないのも
不思議な感じがするみたいだ。
日本の場合あまりじろじろ見る方が
失礼なので遠慮している訳だけれど(笑)

だから日本人同士は「なんとなくわかる」
不思議なもので話さなくても雰囲気でわかるのだ。

LAで生活していた時期、
僕らの住んでいたアパートで
エレベーターで一緒になると
僕はほぼ100%
韓国人には韓国語で話しかけられ
中国人には中国語(多分広東語)で話しかけられ
日本人には英語で話しかけられた
僕は日本人には見られなかったみたいだ。
尚子は一発で日本人と判って日本語で話しかけられるのに(笑

韓流ドラマで驚いた事がある
多くの共通点がある反面、
微妙な違いもある

我彼のお互いにしかわからない
アジア人としての同胞感覚とか
近いが為の「近親相姦的」な
嫌悪感とかが混在していて、
医学で云う「免疫学的不寛容」みたいな
微妙な違いがあるみたいだ

ま、それはそれとして

ぺこりと頭を下げる仕草や
挨拶の際の目上、年少者への目線など
立場による違いなど
日本以上に上下関係が
ハッキリしている感じがする。

年齢や立場に相応の所作は、現代の日本以上で、
僕は礼儀正しく気持ちいい印象だと思う

僕がドラマを観る限り、
韓流ドラマには「溜め息」が多い気がする。
は〜という「落胆の溜め息」が特徴的
血族や因縁や怨恨など、どろどろの人間関係が
ドラマの中(ばかりではないのだろうけど)では
どんどん起る(だから女性達がハマるのがよくわかる)

だから泣きもエキセントリックな印象だ。
もちろんドラマの世界なので
かなりデフォルメされるけれど
啼きに関してはプロがいるらしい

アメリカのドラマ
欧米のドラマ
インド系のドラマ
ラテン系
中東系。。。

これらも分析するといろいろ面白いんだろう。

August 19, 2013

いつでも夢を♬

「あまちゃん」つながりで、
流行っていたあの曲を想起した。
昭和30年代の大ヒット曲。
「いつでも夢を」

あの当時は日本中の大人も子供も
同じ曲を聴いていた。
演歌とは違う「歌謡曲」。
曲想もメロディも展開も
たぶん当時としては
新しい感覚の楽曲だったんだろう

吉永小百合のスター性は群を抜いていた。
子供心に、美しい人だなあ。。。と思っていた。
ゆきはしお じゃなくて、橋幸夫は
「おまけ」みたいなものだった。

あの曲は、子供の頃から聴いていた歌であるか故に、
誰でもある程度歌えるけれど、
全て歌えることが少ない
謎の多い歌詞である。

1番だけでもさまざまな謎がある。
(どーでも良い事だけど、トリビア的に)

まず「星より密かに、雨より優しく」とは、一体どんな状態なのだろう?
比較級で、星とか雨「〜より」っていわれてねえ(笑)。ここでまず困惑する。
「星のように」とか「雨のように」だったら「ふつう」。
逆言えば、そこが新しかった?
判るようで解らないフレーズ

で、愛しいあの娘の歌っている歌。
歌に恋心が募る。恋しくて「涙で濡れる」わけだ。
この辺りは、ごく普通で、ボクにでもわかる(w)

しかし、ここから先が解らない
というか、解らずに歌っていた

言っているいる、お待ちなさいな

はあ? あまりにも唐突ではないか?
それも突然、小粋な「芸者言葉」みたいになっちゃう(w)
そもそも「言っているいる」とは意味不明。ヘンな言葉だ
「お待ちなさいな」とかわれてもね〜

でも、なぜかここで心機一転しちゃって
「いつでも夢を いつでも夢を」と続く

これが絶妙に気持ちよく収まって
どんどん盛り上がって行く〜
すごいな、この展開

2番なんてもっとスゴい(笑える)けれど、
この昭和歌謡の名曲にケチを付ける気は全然ない。

それにしても、吉永小百合は可憐で美しかったなあ

いつでも夢を(橋幸夫、吉永小百合)
作詞:佐伯孝夫
作曲:吉田正

星より密かに
雨よりやさしく
あの娘はいつも歌ってる
声が聞こえる 寂しい胸に
涙に濡れたこの胸に
 言っている いる
 お持ちなさいな
 いつでも夢を いつでも夢を
星よりひそかに
雨よりやさしく
あの娘はいつも歌ってる

August 17, 2013

彼岸のアルバム

誰にでもアルバムがある
僕らの世代だと、記録媒体は
まだ多くは写真であり
プリントされたものがアルバムに
保存されている事が多い

自分の写真
子供の頃から今までの
さまざまな記念写真
パートナーの写真
子供達との家族写真
友達との写真 etc

アルバムとは
人生のさまざまな瞬間の記憶が
切り取られている
膨大な画像情報

いい写真を見ると
その時代、その時に
身体ごと移動する。

大袈裟に言えば
シズル感に心が震える。

そしてその感覚に
新しい旧いの違いはない
何故なら写真はその人の
「個人的体験」だから

僕らの世代頃から、テクノロジーが急速に進化して
「写真を撮る」ことの敷居が下がり
バーチャルな世界とリアルな世界の
記憶そのものの境目も曖昧になった

自分が死んだ後
自分と自分にタグ付けされている
膨大なデータは
どこに行くのだろう?

以前書いたように、
http://sandgem.blogspot.jp/2013/02/blog-post_5.html
ボクの死後ブログはどうなるのか

生身のその人を
記憶しているのは
3世代(孫世代)までが
せいぜいだろう

どんなに立派な
偉業を達成しようが
市井の人間がごく普通の
人生を送ろうとも
実はたいした差はないのだ。

つまりそれ以上の
世代の広がりは
匿名性を持った
任意の個人として
記録されるに過ぎない

まだどこにも答えはなく
その未来をこの目で見る事は出来ないと思う

つまり浮き世のことすべてが泡沫の夢
全て土に還る

あらら、オチはいつもの話になっちゃった(笑)

August 16, 2013

『春の嵐アルデンテ』

春の嵐アルデンテ ←クリックするとYouTubeで御聴き頂けます

ハックルベリーフィン1972
作詞:松村光芳 作曲:篠根丈二 (2013)

1)
今日は 彼のバースデイ
まだ憶えてる 彼のバースデイ
春の嵐のあと
桜の散った 
カフェテラス

ケーキでも食べようかと
思ったけれど
お腹が空いたので
パスタにした

 私ってバカみたい
 小娘みたいに
 今日はなぜか
 センチメンタル

 私ってバカみたい
 小娘みたいに
 泣けたらどんなに
 いいでしょう

2)
移り行く 季節の中
夢にさえ出てこない
部屋の片隅や
あちらこちらに
いつまでも残る
彼の切り抜き

ちょっとだけ
ワインを飲みたくなって
口に含んでみたら
苦笑いが
泣き顔になった

 私ってバカみたい
 小娘みたいに
 今日はなぜか
 センチメンタル

 私ってバカみたい
 小娘みたいに
 泣けたらどんなに
 いいでしょう?

<間奏>

彼の誕生日だけは
忘れられなくて
全てを置き去りにして
消えてしまったけど
今でも彼のこと 
気にしてる私の
心のどこかで
彼の切り抜き なぞっている

3)
今日は彼のバースデイ
まだ憶えてる 彼のバースデイ
春の嵐のあと
桜の散った
カフェテラス

ケーキでも食べようかと
思ったけれど
お腹が空たので
パスタにした

 私ってバカみたい
 小娘みたいに
 今日はなぜか
 センテメンタル

 私ってバカみたい
 小娘みたいに
 泣けたらどんなに
 いいでしょう

http://youtu.be/JQpCk_56_Tg


August 15, 2013

山王女坂を走れ

都立日比谷高校
なんちゃってサッカー部だった。

放課後よくこの坂を走った。
歴史的に由緒ある坂道
山王女坂
(注:調べてみると、微妙に場所が違うかも。要確認)
その他、皇居(1周5km)とか山王神社の石段などがコースだった。

ボールを使わない日には基礎トレーニングの日で、坂道ダッシュとインターバル走。
練習嫌いのヘタレだったが、あの頃身体を鍛えたのは、意味があったと思う。

この坂道(女坂)は勾配が二段になっていて、最後の最後が一番キツくなっている。
真夏の木漏れ日、セミの声とともに思いだす

真夏に走っていると、だんだん寒くなりガタガタ震えながら走った事がある。当時は運動をする時に給水しないのが普通だった。多分かなりの脱水だったんだろう。身体を苛めて鍛えるのが至上主義の時代だったから、それが当たり前だと思っていた。

地獄の坂道特訓が終わり、へろへろ&どろどろで校庭の方に登って行くと、華麗にテニスをやっている女子達が(男はどうでもいいw)が、天使に見えた。

中央公論 「東京坂道散歩」山王女坂
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