助けあいジャパン

August 31, 2012

E-doctor より転載させていただきました


神津 仁 院長
神津 仁 院長
1999年 世田谷区医師会副会長就任
2000年 世田谷区医師会内科医会会長就任
2003年 日本臨床内科医会理事就任
2004年 日本医師会代議員就任
2006年 NPO法人全国在宅医療推進協会理事長就任
2009年 昭和大学客員教授就任


1950年 長野県生まれ、幼少より世田谷区在住。
1977年 日本大学医学部卒(学生時代はヨット部主将、
運動部主将会議議長、学生会会長)
第一内科入局後、1980年神経学教室へ。
医局長・病棟医長・教育医長を長年勤める。
1988年 米国留学(ハーネマン大学:フェロー、ルイジアナ州立大学:インストラクター)
1991年 特定医療法人 佐々木病院内科部長就任。
1993年 神津内科クリニック開業。
9

「夏にはいろいろなことが起きる~松村光芳先生とのこと~」

http://www.e-doctor.ne.jp/contents/kozu/1209/
 夏風邪といえば、プール熱に代表されるようなアデノウィルス感染が定番と思うのだが、今年の夏は「咽頭結膜熱」といわれるアデノウィルス感染の症状をあまり見なかった。2009年の夏には新型インフルエンザが流行した。暑い夏にマスクをするから、眼鏡が曇って困ったことを思い出す。その感覚があるから、高熱を出す患者を診ると、すわインフルエンザかと「インフルエンザ簡易テスト」をやってみるのだが、陽性になる患者はいない。時々見るのは「成人百日咳」で、まだまだ市中では流行っているようだ。長引く咳、咳き込んで夜も眠れない、という患者がいたら、是非百日咳抗体価を調べて欲しい。適切な指導と治療によって、感染の拡大を防ぐことが出来るからだ。国には、海外と同様に「青年用三種混合(Tdap)ワクチン」が早く使用出来るよう、さらに努力を重ねてもらいたいものだ。
 さて、8月3日から英国のHull York大学の5年生が3人研修に来た。世田谷区若手医師の会の幹事をしてくれている松村光芳先生が、ボランティアで海外の学生を日本に受け入れる窓口をしていて、その活動の一環である。当初から、松村先生の出身校である昭和大学と松村先生が院長をしている奥沢病院とがホストとなって学生を受け入れている。病院だけの実習では味気ないので、クリニックとして彼等を引き受けてもらえないか、と松村先生から頼まれた。松村先生はニュージーランドで小児外科のレジデントを経験し、とても親切にしてもらったから、その御礼にと海外の学生の地域医療実習を引き受けることにしたという。言葉で説明するのは簡単だが、実行するのは誰でもが出来ることではない。私もアメリカ留学で国際的な感覚を身につけていたし、言葉もそれほど不自由しないので、松村先生の依頼であれば、と毎年海外の学生を引き受けるようになった。私と同じようにアメリカでの暮らしが長く、英語が出来る外科医の島津盛一先生も研修生を引き受けてくれた。
 第一回の研修生受け入れは2003年、Manchester Universityの5年生のMark Ashton君だった。彼は柔道の有段者で、講道館で柔道をやるのが夢だったとのこと。とても優しい好青年だった。

 英国では、5年生が日本の6年生と同じ医学部の最終学年に該当する。この学年を終了すると医師になるのだが、卒後研修を受ける時に、病院勤務医になるのか、研究者になるのか、保健所などの公衆衛生の場で働くのか、あるいはcommunity doctorとして家庭医(general practitioner=GP)になるのかを決めなければならない。MarkはGPになることを決めていた。数年前に松村先生が彼の結婚式に呼ばれて英国に行ったと聞いた。今では立派なGPとして地域で活躍していることだろうと思う。
 第二回は2004年にカナダからPeter Pavlovich君が来た。

 大学はUniversity of British Columbia Medical Schoolで、やはり5年生。アメリカ、カナダでは、医学部のある大学に入る前にcollegeを出る。加えて社会的な活動をしたり、研究室の助手の経験をしたりすることが、医学部受験の時に有利な条件となる。Peterも物理系collegeを出ていて、学生の時にいろいろな奉仕活動をしていた。socialdanceが得意な好青年だ。彼は眼科志望だったが、カナダでは眼科医になるのは狭き門の様で、一年留年してまた翌年に日本に来ている。今は病理医としていろいろな病院で活躍していると聞いた。

 彼の日本贔屓は、愛車がNissan Skyline GTRというのでも分かる。一昨年久しぶりに日本に彼が来た時に旧交を温めることが出来た。私の愛艇に乗せて城ヶ島でマグロ寿司を食べたのは楽しい想い出だ。
 その後、香港の学生、フィリピンの学生、カップルで来たイギリスの学生、オーストラリアから来た学生など、様々な学生たちが来日して実習をしていった。このactivityが始まってから、もうそろそろ10年になる。最初のうちは松村先生のお知り合いの弁護士さんがhome stayの場を提供して下さって、そこから医療機関に通っていた。そのうちに昭和大学にある国際交流センターが受け皿になって、医学部構内から徒歩1分のstudent flatを宿泊施設として提供することが出来るようになった。本来、昭和大学の国際交流センターは、日本国外の他大学に昭和大学の学生を派遣して様々な経験をさせるということが目的の施設。ホームページの紹介文を見てみると「1年生には海外生活の体験と英語教育を中心に、2年生からはライフサイエンスのクラスに参加できるように、さらに高学年では臨床の現場で実習できるカリキュラムを組んでいます。2006年度より1年生に米国オレゴン州のポートランド州立大学での4週間のサマープログラムを提供しました。ホームステイは米国の生活を知る上で大きな意義があり、全学部から2006年23名、2007年13名が参加しました。専門科目の教育が本格化する2年生からは、長期休暇を利用して海外の提携校で基礎科目を中心としたライフサイエンスの勉強を学ぶ学生も増えています。ここでの海外生活体験記は、レポートとして毎年提出させています」とある。その逆に海外の学生を受け入れる、とは書いていないのだが、松村先生の趣旨に賛同して、支援をしてくれている。「理事会を通さないと…」などと、堅苦しいことは抜きにして協力してくれる昭和大学は素晴らしいパフォーマンスだ。今回も、国際交流センターの三浦さんがいろいろと準備を手伝ってくれた。
 実は、今回の英国のHull York大学の5年生3人の受け入れに関しては、いささか従来とは勝手が違った。というのも、いつもは松村先生が大方の準備をして、私と島津先生はclinicサイドとして学生を一日か二日預かればよかった。時には学生を飲みに連れて行ったり、家に呼んでうどんを食べさせたり、海に連れて行って船に乗せたりと、お互いに国際交流の機会を楽しめばよかった。しかし、今回は松村先生が病に倒れた。たまたま撮った頭部MRIに影があって、それが良くないものだった。手術をして放射線をかけ、化学療法をするのだが、脳機能の低下が時折起こるために、今までやっていたような全体をorganizeすることが出来なくなったのだ。「学生教育に慣れた先生に是非お願いしたい」と電話を頂いて、事情が事情だけに引き受けることにした。それから、学生たちとのメールのやり取り、昭和大学との連絡という、新しい仕事が出来た。大学側が必要な書類(CVやID作成用の顔写真の提供、ワクチン接種記録など)を用意するのに学生とメールで連絡を取るのだが、時差が8~9時間あるのでレスポンスが遅く、学生の方は4年生の期末試験で忙しくて連絡が取りづらい。まったくの初対面だから、最初はメールのやり取りも控えめになっていた。そのうち慣れてきて、割合と気持ちが通じる文面になって来た。その中で、何日のいつの便で来るのか、だれがどこに迎えに行くのか、など細かい打ち合わせが必要になって、何回もメールのやり取りをした。いくつかのメールを紹介しよう。
 そんなこんなで、8月3日、Jessicaから電話が入った。
「これからリムジンバスに乗ります。午後2時頃に着く予定です」
と。無事着いたのだ。
「私のwifeが迎えに行くから、セルリアンタワーホテルで降りて待っていなさい」
と電話口で伝えて、家内に迎えに行ってもらった。
 よく聞くと、この便で日本に着いたのは2人で、ポルトガル人のJulioは5日に来るとのことだった。イギリス人が二人、ポルトガル人が一人の三人が今回の実習生だ。クリニックには三人揃ったところで6日に来てもらった。午前中はクリニックのオリエンテーションをして、昼ご飯に三軒茶屋のキャロットタワーにある「三崎港」という回転寿しに連れて行った。このために「Sushi English」という、寿司ネタを英語で書いたネット上の資料を渡した。young yellowtailはハマチ、salmon roeはイクラ。イクラは初めて食べた、と喜んでいる。Julioが美味しいと言ったのはクジラだった。寿司の皿が色とりどりなのは、色や柄によって値段が違い、最後に皿の色と柄を揃えることで計算が簡単になるのだと説明すると、感心していた。

 実は、松村先生と私は彼らが日本に来る前に、どこを実習先にしようかと相談をしていた。7月の終わり、暑い日差しの中、松村先生を入院先の病室に訪ねたのだが、短パンにTシャツでリラックスした感じで私を迎えてくれて、思いのほか元気で安心した。昭和大学では連年通り小児外科病棟での見学をすることになっているとのこと。しかし、それ以上のmanagementは今の松村先生には難しいと分かった。「漢字が出て来なくて、変な文字になってしまうんです。英語はまったく問題ないんですが」と戸惑いを隠さない。それでは、八王子の永生病院と原宿の甲状腺疾患専門病院の伊藤病院にお願いをしてみましょう、とその場で永生病院の安藤高朗先生と伊藤病院の伊藤公一先生に電話を入れた。二人とも、一つ返事で快諾してくれた。永生病院は地域の中核的な医療・介護施設として、素晴らしい活動をしている。介護老人保険施設、認知症グループホーム、地域リハビリテーション支援センター、また一般救急対応まで、地域のニードに応じて展開する日本型の地域医療密着型病院を是非見て欲しいと思った。また、甲状腺疾患に特化した高機能型の市中病院が日本にあることを知って、彼らがどう考えるかも聞いてみたかった。
 さて、彼らはこの実習の間に京都へ行き、スカイツリーで買い物をし、富士山に登った。日本を楽しんで、日本の医療文化の一端に触れ、Fareastの国の人達を知ることによって、今後の医師の人生がそれまでと違ったものになったら、それはそれで良い経験なのだろうと思う。

 松村先生が作ったこんなに素晴らしい国際交流の場が、今年を最後に、なくなってしまうかもしれない。というのも、松村先生の病状がcriticalだからだ。この文を書いている今も、化学療法で叩かれて辛い思いをしているに違いない。しかし、そんな自分を医師の目で客観的に見ている、素晴らしいpersonalityがいる。松村先生の意思を、どのように繋いでいったら良いのだろうか。今こうしてHull York Universityの学生の面倒見ながらも思い悩んでいる。この夏、いろいろなことが起きて、空気は次第に秋の匂いを漂わせている。若い燃えるような命と引き換えに、終末に向かっていく命とその輝きを見つめながら。

 松村先生が、9月21日に講演会をすることになった。「めぐろパーシモンホール」だ。住所は東京都目黒区八雲1-1-1(TEL:03-5701-2924)。開場18時30分、開演は19時の予定だ。200人は入れるホールなので、読者が何人か来て頂いても大丈夫だと思う。以下、松村先生自身のアッピール文を載せておきたい。
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☆ 55歳、医師, ミュージシャン, ブロガー, marc の講演会です。
 生来健康で超元気。毎日を全速力で走っていた(はず)だった僕は、ある日突然脳腫瘍(神経膠芽腫)と診断され、自分の死と直面することになりました。
 近い将来の不可避な運命として、自分の死が迫ってきているとしたら、あなたはどうしますか?どんなことを考え、何をするでしょう?
 僕が今何を感じ、どんなことを考えているかを、できる限り自分の言葉で皆さんに伝えることが出来れば、と考えています。
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2012.09.01 掲載 (C)LinkStaff
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August 30, 2012

らーめんネタ:和光、ぴか一、万世麺店 など

高校半から浪人時代の、もうこれはマザーフードといっていいだろう。家のご飯を別にすると、週に2−3回、場合によってはそれ以上食べていたかもしれない。というか、当時はそんなにチョイスがなかったのだのだな。とにかくハマった。

まずは「和光」。
僕とじょうじ君の家の近くの文京区水道にあったいわゆる街の中華屋さん。ここは今思い出して本当に美味しかった。昼間の営業夜の営業。小柄で痩せていて、余計なことは一切言わない寡黙なご主人がカウンターのみで仕切っていたが、時々奥さんが手伝う。製版や印刷製本の会社が集まっているあの地域で、毎日21時くらいまでやっていたと思う。デフォルトのラーメンがしっかり美味しい。いわゆる東京ラーメン。サイドを固める軽めの餡がジューシーな餃子。でも、ここんちはなんといっても、焼肉定食(豚ばら肉)だ。今考えると、いわゆるサムギョプサル。ラードを熱した中華鍋に投入して塩コショウして仕上げはラーメンの醤油だれをジュジュっと入れる。千切りキャベツのてんこ盛りに乗せたお皿に油をじゅじゅっとのせる。それだけ。ご飯だけれ3杯食べられる(笑)。これに前述したラーメンか「野菜スープ」か定番だった。ラードの油膜が1ミリ位あって熱い(笑)。濃厚塩味。あとは野菜炒め、ソース焼きそば、たまにレバニラなど。おお、チャーハンも白眉だった。今でもいつでも恋しいあの味。

この店は、浪人時代は確かにあったが、僕が大学2年になって実家に戻ってきたらその頃はもうなかった。夜中のレコーディングをやっていた頃は、夜明け前の千駄ヶ谷のホープ軒だった。これはこれは懐かしい思い出で、ハックル的にはラーメンのイベント的には和光からのホープ軒に移行した感じか。ここも懐かしいがここ10年以上行ってない。当時の新しさがもうなくなってしまったのが残念。

万世麺の肉味噌排骨(パイコー)ラーメンは、1975年前後の僕の食事を考えると感謝を込めて書き留めておかねばならいけない。万世麺店に関しては、現存しているものの昔のものとは似て異なるものになってしまった。あのうどんのような超太麺、超大盛り、とんこつ鶏がら醤油味のスープ。万世麺店に関してもどこかで別稿に書いておこうね。

******
おまけとして神田駿河台下の「ピカいち」
今はスノボー屋さんになっている。昔はどこにでもあった感じの、いわゆる典型的な東京屋台ラーメンだった。逆に最近では絶滅してしまった感もあるシンプルな醤油ラーメンだった。
http://dondongi.cocolog-nifty.com/woodland_path/2007/01/post_6099.html
半地下に入っていく間口の小さなお店。固めに茹でた縮れの少ない麺。中細麺。スープは醤油濃い目透明。一番の特徴はねぎ油(たぶん)と生姜だと思う。あのころの定番でまず「耳かき」みたいな匙でチョコっと丼に味の素を入れて、その後にあの生姜の効いた鶏がらだしのスープを入れてた。チャーシュ(煮豚)は小さくメンマ少なめ、だったか?ご飯前なのに近くに行くと寄ってしまう麻薬的な(笑)味。「おやつ」的な雰囲気だったな、あの頃は。丼も小さめだった。1980年代に閉店したそうだ。色々探したけれど画像はない。ああ、懐かしい。[携帯]プロット。

食べれられることは素晴らしい!

今回のクールも無事終了。味覚嗅覚障害は殆ど無かっこととで、食欲が保たれていて本当に有難かった。吐き気や生欠伸はほとんどなし、嗄声に関しては様子見。概ね、今までで一番スムーズだったかも。お腹が減って普通にがっつり食べられることの有り難さ。改めて今回おいしく食べられることのことの大切さを感じる。午後からLAで公認会計士をしているきみちゃんが来院。彼とは幼稚園(!)以来の付き合い。ふつうはアリエナイこのお互いの驚くべき「ご縁」の深さに驚き感激する。夜は病院の同僚がお見舞いに遊びに来てくれたり、ハワイアンの素晴らしいレイを頂いたり…みんなの気持ちがうれしい。梅田先生とお祝いにトラジに遠征。細やかな幸せ!夕刻からは明らかに秋の風が吹いていた。奥沢神社の夕景。もうすぐ9月なのだ。

 

August 28, 2012

僕らの時代(追補変更、8/27)

55歳。1957年生まれ。太平洋戦争後の日本の復興期に生まれ、戦後の自由主義経済の恩恵を一番享受した世代。今考えてみれば、日本という国の様々なシステムが「完成形」に向けて恐ろしいスピードで進んだ時代だった。もちろん、その当時は高速で走っている自動車が自分の速度を意識しないように、イケイケで進んでいたのだけれど。

確かに日本の大量消費社会は成熟から爛熟へむかった超「熱苦しい」時代だった。その果実を実体験として持った世代なのだ。「僕らの時代」は。昭和40年からバブル崩壊。そしてその後の情報洪水の時代。この時代、本当に面白い激動の時代だったのだな。

あの昭和の時代、「ちゃんとした」「しっかりした」基本的構造は「どこか他のところ」で「自分以外のだれかが」しっかりとやってるはずだ、という根拠のない自信がどこかであった。そういう共同幻想があったんだと思う。

無我夢中で一所懸命やることの大切さ。つまりあの時代の一途な思いが日本があそこまで行く事ができた原動力になっているのは確かだ。情報の非対称ももちろんあるけけれど、流れる情報の量も質もその後は全く変わってしまったのだから。

昭和40年代の高度成長期
万博
どんどん豊かになる日本
バブル
バブル後
パソコン時代
ネットワーク

書き止めておきたいこと多数(だけど全然追いつかず/w)。

さとなおくん、ともPの二人の論客との対談2時間。個別の事例も面白かったし、気づきも多数。今日もいっぱいインスパイアしていただいた。ありがとう!

=====
追補(変更)
今夜(8・27)のニュースステーション。浅田次郎と古館キャスターの話。僕とほぼ同世代。我々は戦後資本主義社会の最も幸せ時代を生きた稀な世代であった事。これは前述したとおり。前項では「その先」については言及しきれていなかったと思う。

彼らの指摘通り、原発問題を経て僕ら(あの幸せな時代を享受した我々世代)には次に続く世代へ繋ぐ責任があるのだ、と。日本が世界に冠たる技術力をもって今こそやるべきであるのだ。その「変えるべき未来への舵取り」を託されたのが「我々の世代」のだと思う。責任は重大だ。

August 27, 2012

ああ憧れのFuka Lodge

北川先生がお見舞いに来てくれて、彼と3時間以上懐かしいアメリカ、ニュージランドでの生活の昔話。彼とは若い頃から医師として海外にキャリアを求めたという共通点があって、もう25年来のお付き合いだ。懐かしさとともに、自分が忘れかけていたあの頃の「熱さ」を感じて、今日は随分インスパイアしていただいた。

大学の医局を飛び出して、経済的に厳しい状況に自分を追い込んでまで海外で頑張った。そういうキャリア志向の根本にあったのは、何だったんだろう?当時でも外科医としていろんなチョイスがあったのに、僕らはとにかく海外へ向かった。あの時代(あの年頃?)の人生を動かすパッションとしか言えない「熱さ」。ミーハー的な単なる憧れだったのかもしれない。しかし、それがいくつかの人生の岐路であったことはたしかだ。

あの時代に本当に多くの経験があり、その後に繋がる多くの出会いがあった。大失敗も多くしたし、未熟だったことで遠回りをしたり失ったこともあったとは思う。でも、今考えてみると、多くのラッキーな出会いとご縁の賜物何だったと痛感する。

LAからあの後ネブラスカに移っていたら?デンヴァーに移っていたら?帰国してからKCMCに戻りそのまま残っていたら?大学に戻りそのまま大学病院にいたら?T大学に移っていたら?その後、NZウェリントンに移ったこと、そして帰国。大学を辞めるチョイス…。いろんなIfがあり、人生の岐路があった。しかしそれらの決断やチョイスに後悔はない。いろんな岐路があり、いろんな出会いがあり、タイミングがあり…つまり、それがすべてご縁でつながっているのだから。

ただ、尚子には苦労をかけたと思う。たまたま結婚した男がアメリカのライセンスを持っていて、自分では全然興味がないのにアメリカに連れて来れられて2人だけで出産子育て。彼女にとっては辛く心細いことも多かったはずだ。日本に帰ってからの引越しだけで横浜までに3回。まだ小さな子ども3人を抱えて大変な時期だった。僕は病院に入り浸っているし、呼だしは常にあるし海外での生活はストレスだったろう。その後にNZを2回往復の引越し、さらには帰国してから横浜で3回。今の家に決まるまでにさらに引越ししていることになる。まさに引越貧乏そのまま。今考えてみるとトンデモナイ生活を余儀なくさせてたのだねえ…。すまんすまん、ごめんごめん。

今日ニュージーランドのことを思い出していたら、やはりあの「ごく普通のNZ生活」がいかに至福の時間だったのかを痛感した。

本日の追加、憧れのFuka Lodge  http://www.hukalodge.co.nz/ 
現在入院中の今の僕の妄想として。

August 26, 2012

ケータイという言葉がなかった

James Blunt の1973のセンティメンタルに関しては、先日書いた。懐かしさと切なさ。あの歌とは偶然なのだけれど、僕らの青春時代の記憶の深いところに「あの時代」がある。僕らも2006に「携帯電話のなかった時代(ころ)」という曲を書いた。そのイメージをもとに、当時のことを1974年のイメージを中心に細切れ書きなぐった小説もどきを書いた。

1974〜1976くらいの渋谷、原宿、背伸びして六本木。シュンという高校生の男の子、タケルという親友、かおリとその親友の女の子(名前忘れた)、予備校の友達たち…実在のモデルは、いたりなかったりはしたけれど、本物とイメージはそうは離れていない。当時のどこにでもいた都内の高校生。リアルにイメージできる登場人物たち。もちろん自分とその分身たちもたくさんいる。

いつか完結へ話を進めようと思いつつ、もう6年以上経ってしまったのだ。昨夜、ふとしたことからこの書きかけのプロットのことを思い出した。それからがエンドレス。いろいろとイメージを膨らめていたらどんどん話がすすんだ(頭の中で)。おお、こんな所で随分長い間僕の知らない世界で自由に遊んでたのかい?久しぶりだね…という感覚。自分でイメージしつつ不思議な懐かしさがある。これから時間の許す限りリサーチと資料集めを楽しんでやってみよう。以前に試みて断念していた「縦書き」原稿も試してもるつもり。たぶん横書きで構想して、縦書きで書き出し(今までやってない)校正する作業になるのか?まあプロじゃないんだし、気楽に上機嫌で行こう!

August 25, 2012

紫煙の中にあったもの

たばこを止めてから数年経つ。みっともないのであまり大ぴらにカミングアウトできない話ではあるけれど。

たばこを吸い始めたのは高校2年、ロンドンのケンジントンのホテルの部屋だった。面白半分から常用するまでには時間はかからなかった。ヘビースモーカーだったオヤジの影響もあってオトナになればたばこを吸うもんだと信じていた。喫煙が自分や家族の健康にいいはずがないのは自明だし、その後も止める理由はいくらでもあったけれど、その後50歳くらいまではタバコを嗜んでいた。何よりタバコの煙を燻らす時間を愛していたし、あの一服のあとの「区切り感」が快感(依存)だった。

完全なニコチン依存症である。恥ずかしい話だ。海外での生活中は殆ど吸わない時期もあったし、仕事場(病院)では吸わなかったし、いつでも辞められると自分では思っていた。どうして止めることにしたかといえば、自分のためである。あ、家族からは随分前に三行半をつきつけられていたこともあるな。ベランダ蛍族。そんなこんなで、たばこを止めるメリットとデメリットを量ったのだ。ジムと週3−4回の水泳を初めて、あ、これは止めたほうが気持ちいいぞ、と。禁煙の圧勝(笑)。確信犯的喫煙歴うん十年だったわけだから、今更ながらまったくトホホの話だ。

結論を書くまでもなく、たばこを止めるほうがいいに決まっているし、タバコからの呪縛(呪い)から離れられて嬉しいのだけれど、最近になって自分の死を意識するようになって、少し考えが変わった。健康に生活するためにはたばこは吸わない方がいい。あたりまえだ。

でも、「健康的ではあるけれど不幸せに生きていること」と「不健康ではあるけれど幸せに生きていること」の差はどこあるんだろう?とも思う。人生は有限なのだ。

くわえタバコで海に出て一日を過ごし、漁から帰りビールとワイン、そしてシエスタ。夕方からは仲間と家族で海辺で歌を歌い踊る…
http://longtailworld.blogspot.jp/2009/04/enough.html?spref=fb
COPDも喘息も心筋梗塞も高血圧も、ソレがどうした?そんな人生くそくらえ!の価値観。この寓話のアメリカ人のビジネスマンに僕らはいつの間にかなっているんじゃないかと。あの未熟で若かった(不健康な)日々を後悔することは全くない。

あれ?何を書きたかったんだろう?
そうだ。タバコは健康に良くない。若い人は早く止めた方がいい(くどい)。
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