May 29, 2012

こんな感じだったのね

照射中は、特殊なメッシュで固定されているので、自分がどんな状態なのか全然わからない。今日初めて写真をとってもらった。ちなみに全然苦痛はなく快適な空間。今日で54Gy終了。あと3回。

May 28, 2012

上り坂の先

化学療法と放射線療法も,お陰様であと一息。放射線治療の性質上、時間経過ととももに副作用のダメージが強くなる感じ。終盤、最後ゴールに向けて徐々に勾配がキツくなるコースのイメージ。でも大丈夫。自分がどこにいて、どこに向かっているか判っていれば、前に進む勇気が出る。

May 27, 2012

物理的メモリーの中の人生

メモランダム: 補足として 2008−3


http://sandgem.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html



物理的メモリーの中の人生

おぎゃーと生まれたときから、親が画像をビデオを撮影していて、その人の人生で起こった出来事を克明に記録していたとする。毎日データベースを画像や動画や音声やテクストとして残してゆく。実際出来るかどうかは別問題だけど、テクニカルには今の技術を持ってすればで十分可能だ。今後ITがさらに進めば、ごく自然に無理なく記録できるようになるだろう。その子供達が育って、自分で記録が出来るようになり、今度は親から引き継いで毎日毎日自分の経験したこと、学んだこと、感動したこと、楽しかったこと、哀しかったこと、怒ったこと・・・等々を記録する、とする。小児期・思春期(冬)>青年期(春)>中壮年期(夏)>老年期(そして秋)・・・。死ぬまで毎日毎日。60秒・24時間・365日。つまり、自分の人生を「物理的メモリー」の中に記録するのだ。その時代の人達にはどんなドラマがあるんだろう?・・・というのが今日の空想&妄想。ジムで泳いだ後、サウナに入っているときに閃いた。

プロット1:
男と女が出会って恋愛関係になった。結婚を考えた二人は、お互いのことをもっと知りたくて、それぞれの今まで歩んできた人生の「物理的メモリー」を開けるための「暗証番号」を交換する。そして・・・相手の「一番お気に入りのメモリー」を閲覧した二人は・・・?そのセグメントの中で、ふたりが選んだのは偶然にも「昨日と一昨日のデータ」。唖然とする男と女。喜悲劇&どんでん返しの結末。

プロット2:
どうしても消したい(忘れたい)過去の出来事というのは誰にでもある。とんでもなく恥ずかしい体験や、涙さえ出ないくらい哀しい出来事etc. しかし、そのデータベースは国家が管理していて、自分の一存では改変できないことになっている。犯罪者のその男には、どうしても消し去らなくてはいけないメモリーがあった。その男の消したい過去とは?そしてその顛末は?

プロット3:
死を前にしたその女にとって、自分の人生の「楽しかった場面」を繰り返し眺めるのが唯一の楽しみだった。しかし、そのプログラムには「ある仕掛け」があった。最後の場面に女が観たものは?

プロット4:
それぞれが持っている「人生記録メモリー」を希望通り変更するプログラムを基にしたビジネスを発明した企業があった。しかし、その企業にとって最大の問題は・・・?対象とする顧客のプロファイル。究極のビジネスモデルの行く末は??

プロット5:
生年月日の同じ二人の男がいた。大金持ちなのに孤独で不幸せな男と、ホームレスだけど酔い友達に囲まれて幸せな男。「メモリー」の暗証番号が酷似していて、たまたまその二人が同時にアクセスしてしまった。コンピュータのバグが数億万分の一の偶然を起こした。二人の人生の分岐点にあった共通のメモリーとは?

プロット6:
美しく生まれた女。小さい頃から可愛い、美しいとチヤホヤされて育った。今はトップモデルとして世界中を飛び回る。しかし、彼女にはどうしても消してしまいたい「あるメモリー」があった。そのメモリーとは?そして彼女は・・・。

でも、よく考えてみると、想い出は曖昧で自分勝手なものだからこそ、人は人生を進んでいけるものなのかも 以下略))

May 26, 2012

冬春夏秋

失うもの
2006-9-20
http://sandgem.blogspot.jp/2006/09/blog-post_20.html

再掲、未校正より: 
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

失うもの、喪うもの

外来でのUさんと会話。結腸癌の手術をして早いもので6年目になる僕の患者さんだ。

「鬱、というわけじゃないんでしょうが、最近気分が塞いでしまうことがあります。この歳になってもメランコリーな気分になるものなんですね。」

「はい。」

「歳をとるというのは、哀しいことです。先生はまだお若いから、わからないでしょうが。こういう気持ちは・・・」
「・・・はい。でもUさん、僕にも少しはわかる気もします。今年で僕は50歳になります。」

「そうですか。ええ、そうかもしれませんね・・・。私も、あなたの歳頃には、毎日毎日必死で仕事をしていましたな。」

「はい。」

「この歳になると、毎日毎日{失うもの}や{喪うもの}ばかりなのです」

「失う(喪う)もの、ばかりですか・・・。」

「病気の妻(彼の妻も末期ガンなのだ)を、喪う日のことを考えますと、真夜中に気が狂いそうになるほど寂しい気がします・・・例えが悪いかもしれませんが、二人で若い頃買った瀬戸物が、突然一昨日割れたりするし。先生もご存知でしょう、12年一緒に過ごしたロンが、、私たちの犬ですが、先月死にましたし・・・。学生時代の友人達の便りは、ご家族からの死亡通知ばかり。生き残っている自分達が、逆に特別な存在みたいで・・・」

「でも、失う(喪う)ものばかりではないでしょう?日々の生活では{いろんなこと}があるし。ああ、そういえば、末の息子さんのお子さんもこの春に生まれたし、お孫さんの成長は見ていてうれしいものでしょう。」

「ええ、もちろんです。でも私たちの日々の生活は、単純で淡々としたもので、先生のおっしゃるような{いろんなこと}っていうのは、そんなに多くはないんですよ。私と妻にとっては、残された、限られた人生の時間の中で、圧倒的に失うモノのほうが多いんです。」

「(頷きつつ)でも・・・」

「でもね、先生。こんな気持ちのよい秋を感じるに日は、少しは私も{救われた気持ち}にもなります。人間ってのは単純なものですね(微笑)」

「はい。」

「人生は・・・冬に始まり秋に終わるんだそうです。中国の古典ですが・・・。」

「収穫の秋っていう意味ですね?高校の漢文の先生から聞いたことがあります。」

「はい、冬を背負った秋は、本当に悲しくて、寂しくて、切ない・・・です。でも人生の終着駅というもんは、そんなものなんでしょうね。最後に{すべて}を失って、たった一人のマッサラの自分に戻り・・・。それを神様は(Uさんと奥さんは敬虔なクリスチャンなのだ)、生きながらえる人間達に、実り(収穫:ハーベスト)を与えてくださる。」

「Uさん。今考えたのですが・・・、あなたから見れば、こんな若造の言うことに気を悪くなさったらごめんなさい。逆に、{人生の中で失われないもの}って、あるんでしょうか?」

「は?どういう意味ですか?」

「僕は仏教徒です。特定の宗派ではありませんが。実は先日、夏休みを頂いて、高野山に行ってきました。奥の院に向かう森の中の、巨大な墓地の中で思ったんです。太く・短く生きた武将達や、歴史上の偉人達、大金持ち、軍人達、若き英霊達、その他の多くの、名もなき(僕みたいな)普通の人生を生きた人たち・・・そんな、いろんな人たちの墓と向かい合って、人生は終わってみれば、皆同じなんだ、ただ土に還るだけなんだ、と(いい言葉が見つからないんですが)僕はすごく{安心}したのです。」

「(はい)」と、静かにうなずくUさん。

「で、そう思ったら、なんだか吹っ切れた気がしたんです。実は、ここ2-3年、僕もずいぶん悩んでいて、折り返し地点は過ぎている自分の残りの人生をどうやって全うするべきか、って考える時がありました。{鬱}っていうほどはっきりしたものではないのですが、焦燥感とか不安感を感じることがありました。」

無言で僕を見つめるUさん。

般若心経は、厳然とした、決して動くことのない真理だと思います。諦念ではなくて・・・、どんな人も生きている限り、いつかは真正面から向かい合わなくてはならない、ものなのでしょう。宇宙の存在の中では、泡沫のような人の人生なのですから・・・青臭いかもしれませんが、雨の高野山を歩いていて、僕は確かにそう感じました。うまく言葉に出来ないのですが。」

「いい夏休みでしたね、先生」

「はい」

「私も先生の話を伺って、高野山をまた訪れたくなりました。前に旅行したのは60年前ですか・・・学徒出陣で一足先に逝った親友の墓があるのです。」

「そうだったんですか。Uさん・・・」

「こんな爺の話を真剣に聞いていただいて、ありがとうございました。」

「とんでもない、Uさん。僕こそ偉そうなことを言って失礼しました。それでは、来月お会いしましょう。お大事に・・・」

微笑してUさんは席を立った。

救われたのは、実はこの僕だった。

そんな秋。  2006年

May 25, 2012

全て繋がっている

今回のこともあって、今まで自分がいかに多くの人たちとのご縁で生きてきたのかを本当に痛感している。この55年の人生の中で、何一つとして例外なく「全て繋がっている」ものなのだ、と。

1977年カリフォルニア

K君が来てくれた。彼とは大学の同期。大学に入って初めての海外への旅だった。今日は彼とその頃の事を思い出しタイムスリップした。ああ、至福の時間。

その後の人生にかなり大きな影響を受けた2ヶ月だった。
1977年西海岸。僕らは確かに「あの時代」を共有した。

LAの友人宅のアパートに転がり込んでから、サンディエゴ(新興宗教の会合に拉致されそういなった/w)に行ったり、メキシコにも足を伸ばしてエンセナーダの海岸で絶品の海老を食べたり。フェニックスからグランドキャニオン、サンフランシスコ、カーメル、サンタバーバラ、LAとぐるりと約2ヶ月。UCLAでアメリカ(Sister Golden Hair!)のライブにも行った。たしかGuildのギターを買ったのもあの旅だった。見るもの聞くものが新鮮でどんどん吸収して力になったあの時代。まさに怖いもの知らず(笑)。

そして、なんと驚いたことに彼はその旅の様々なアイテムをほぼ完璧に保存してくれていた!行った店のパンフと使ったエアのチケットとか、ライブのチケットとか。。。もう懐かしさを通り過ぎて、言葉にならない。本当にそこに瞬間移動したみたいだった。感謝感激。

きっちゃん宝物をありがとう!!

高校時代のイギリスが大人の世界の入り口(の入り口)を見せてくれたものだとすれば、ここからが本番が始まった、というか。そんな旅だった。

May 24, 2012

アルコールの神様

アルコールを全く飲んでいない状態で、かれこれ6週間なんだって今日気がついた。もともとそんなにアルコールに強かったわけではないけれど、ここ20年はまあ「ふつうに好き」だった。ビールは水みたいなもんで連日だし、焼酎かウィスキーの適量が一日の〆だった。
キンキンに冷えたビールの美味しさも、美味しい料理と楽しむワインも、仲間と飲むお酒の楽しさも、ぜーんぶ無条件に認めるけれど、ああ、早く良くなって酒が飲みたい!って不思議なくらいに思わない。全く飲まなくても困らない(身体が欲していない)ってことに気がついた。そんなものだったんだ。

わりと新鮮な発見。(気づくの遅すぎw)
人生を豊かにしてくれたお酒の素晴らしさには、感謝しつつ自分としては卒業した感じか。

お陰様で順調です。皆様有難うございます。
このブログが毎日更新してなくてご心配なく。ぼちぼちやっていますので。

May 20, 2012

昔は病院の公衆電話で皆泣いていた

1970年代。男の子が女の子の声を聞くために(それだけのために!)真冬の夜の公園の電話ボックス(!)に向かって走ってたわけですね(笑)。なんという牧歌的な時代。この2006年の僕らの「携帯電話のなかった時代(ころ)」という曲の発想そのものがすでに、セピア色の思い出をエンハンスしてあってねえ。でもこの時代の価値観とか立ち位置、生き方みたいなものは僕らの世代の「根っこ」に在ると思う。

この件については別項にて軽めに。

さて今日書き始めたのは、コミュニケーションの観点からの入院生活について

入院生活を余儀なくされている患者にとって、外部とのコミュニケーション(簡単にいえは「繋がっている感覚」がどれほどは救いになっているのか?について、僕も自分が当事者にならなければこれほど痛切に感じることはなかったと思う。

ほんのちょっと前の話なんだけれど。昔の入院生活とはまったく違う。夢みたいな話だ。

病院内の公衆電話(!)がふつう、だったのだ。あの辛く長い夜を、どれだけの人達の涙がああったんだろうか。あの薄暗く暗く寂しい空間・底の見えない不安感に押しつぶられそそうな絶望感、寂しさ、悲しさ、後悔。。。それを思うだけで胸が張り裂けそうになる。

大切な人ひとことひとことを五感で噛み締める、そんなコミュニケーションの濃度、密度

昔は良かったって話ではない。全くの逆。
本当に素晴らしい。こういうのを本当にテクノロジー恩恵というんだろうな。

そう、だれとでもいつでも繋がれる(可能性がある)ということ、どれだけ救われるのか医療関係者はもっと認識するべき。反省自戒をこめて。

ちょっと閃いた、いい考えあるんだけどなあ。。。

May 19, 2012

メモランダム:Epitaph

Epitaph についての考察  2008.7.29
http://sandgem.blogspot.jp/2008/07/blog-post_29.html


墓碑Epitaphについての考察

墓碑Epitaphは、人が亡くなった時に、家族か友人が故人を偲んで書き記すものだ。古代の墓から出土したものにその時代の為政者の業績を記す墓碑があるように、古来から人間の営みのひとつとして自然なことだったんだろう。もちろん近代になって現代の形式の墓地のシステムが出来上がると、一般人であっても墓碑を作ることが可能になった。これは故人のためというより、主には遺された者たちのためのものであり、オフィシャルな(対社会的な意味での)グリーフGrief行為ともいえる。

以前、「物理的メモリーの中の人生」という文章をここにも書いた。
http://sandgem.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html

生まれてから死ぬまでの「人生」の記憶を、文章や画像や動画や音声のメモリーとして残したとしたら、これを誰がどう使うか?ということについて考察すると・・・っていうことだ。

前のログではSF的な短編ストーリーが浮かんだ訳だけど、以前から僕は「墓碑」として使えるんじゃないかと思っていた。「故人に関する遺された者からの言葉」を石に刻んだものだとすれば、僕の考えているものは、そのイメージから離れていて、適切なタームがない。「墓碑」とか「墓地」とか、どうしてもネガティブなイメージ。ま、ネガティブと言い切れないまでも、少なくとも明るいイメージではないし。

適切なタームを見つけなくては。

ITの進歩に伴い、物理メモリーの個人情報は飛躍的に増え続けている。たとえば、ブログはそもそも書いている本人のためでもあるけど、これはやはり社会にオープンな情報であるから、従来の日記とは違う。人の目を意識したものにならざる得ない。つまり人生の中で出会ってきた体験は、脳の中の記憶に記録されるけど(記憶)、そこにはある種の「フィルター」を通ったものだけが残される。人は都合の悪い記憶より都合のいい記憶のほうが優位に記録されるプログラムがあって、これは基本的な自己防御・生存本能だろう。だから、「物理的メモリーの中の人生」では、「消せない記録」と「消えない記憶」の葛藤がプロットになっているわけだ。

では「未来の墓碑」を作るとすればどんなものになるのだろう?

墓碑は、その人の人生の最高のサマリーであるべきだ。アーカイブのようなものも必要だろう。遺された家族や友人達にとって使いやすい機能があることが必要だし、不特定多数の人たちからのアクササビリティも担保されなくてはならないだろう。インターネット上で、世界中の人たちの「共同墓地」がある、というイメージ。

「最後の授業」のランディ・パウシェ教授が7月25日に膵臓がんの合併症で亡くなったそうだ。彼にとってあの授業は立派な「墓碑」となった、と思う。



物理的メモリーの中の人生  2008.3.10
http://sandgem.blogspot.com/2008/03/blog-post_10.html


「未来へ伝言」というタームも、今考えてみると暗示的ともいえる。

メモランダム:モリー先生との火曜日

http://sandgem.blogspot.jp/2012/02/blog-post_18.html
2012-2-18
別項、追補

抜粋
http://sandgem.blogspot.jp/2012/02/blog-post_18.html
NIftyserveの初期のころからの旧い知人であるYさん。CXのアナウンサーだった人で、偶然なんだけれど中学の5年後輩。彼が以前から一所懸命サポートしている音楽朗読劇のモリー先生との火曜日に行って来た。


原作ミッチ・アルボム。ALSに侵されたモリー先生(光枝明彦)の「人生の授業」。教え子であるスポーツライターであるミッチ(吉原光夫)と彼の妻のジャニーン(土居裕子)へ語りかける。生きているという事、人生、愛、友人、兄弟、老いる事、死への恐怖についてなどなど。音楽朗読劇なので、スペクタクルな場面はなく淡々と話は進む。進行とともに胸が締め付けられる感じなるのだけれど、最後は不思議にほっと安心できる感じというか。

「誰でもいつかは死ぬ事をわかっているのに、誰もそれを信じていない。」
「今日なのかい?小鳥さん。準備はいいか?真剣に生きているか?自分が好きか?後悔はないか?」
と肩に止まらせた鳥にむかって、毎日問いかける有名な台詞。

いつか死ぬ事を認めていつ死んでもいいように準備して真剣に生きる事。
どの世界どの時代の誰にとっても真理だ。今日あらためて心に響いた。

ALSという進行性の難病に蝕まれたモリー先生が、悲嘆していない訳がない。でも彼は前向きに人生の最後の時間を過ごしている。徐々に動かなくなる身体、様々な症状を「受容」し「離す」という台詞。これも僕の心に響いた。


「辛い」気持ちを辛いと正直に吐露し、その苦しみの中で「もう十分苦しんだ、だからもういい、それを離そう」


日本語だとtoleranceのニュアンスが伝わらないのだけれど、「苦難を認めて、自分の受難として受け入れ(神に許しを請う)」という感じか。
シュワルツという名前から想像するにドイツ系ユダヤ人であるモリー先生の人生哲学。

つまり、般若心経 なのだな。

涙ぼろぼろの舞台になるのかと、実は思っていたのだけれど、じわっと来たのはどれもストーリーとは全く関係ない台詞で感情移入したところばかりだった。
むしろ、「ふーーむ」とか「なるほど」とか、深く考え込まされる場面や台詞が鏤められている舞台。

May 18, 2012

Get back (to where you once belonged) !

奥沢に転院。戻ってきました。まさに歌詞の通り〜もとの場所に戻ってきた心境。

感無量。セカンドステージへ。
皆に会いたかった。これまで支えてくれた人たち、これからも支えてくれる人たちに対する感謝が後から後からこみ上げてくる。

闘いは現在進行形なのだ
薄ボンヤリとでも進む道筋が見えてくるだけで、人はこんなにも勇気づけられるものなのだね。

I’m on the way

May 17, 2012

第一関門通過

4月9日発見。12日に緊急入院してから、検査、手術、化学療法と放射線療法の導入、高圧酸素療法と怒涛の6週間でした。素晴らしい医療チーム(プロとして見て本当に素晴らしい!)と、応援して頂いた多くの方々たち、もちろん家族の支えがあり、まずは第一関門を通り抜けられそうです。明日から病院を移り、更に放射線療法と化学療法を継続する予定です。ありがとうございます!
ーーーーーーーーーー
以上が、FB上のオフィシャルなご報告。

実は今日の検査がひとつの大きな山だったのだ。この結果によっては今後の生活(QOL)に時間的な大きな違いがある。先週の状況から、(さらに)Bad newsである可能性も十分ありえた。

なんとか首の皮一枚で繋がった(ってあまりいい表現じゃないけど)か。

とにかく、この状況がいかに奇跡的な多くの幸運に支えられているのかは、ちゃんと記録しておかなくてはバチが当たる。ってか、ここでもバチが当たるかも、なんて表現をしている僕(w)。

明日転院。まだまだ治療は続きます。
元気です、凹んでません。
ちなみに、今回の検査結果を祝して、梅田先生と病院近くの、ふつうの中華屋さんの出前を尚子にリクエストして買ってきてもらい、チャーハンと焼きそば。うまうま。

May 16, 2012

猫目地蔵の路地裏

体調の波があるけれど、昨日午後から、おっ何か食べられそう!と。


さとなお君の魯肉飯イメージ攻撃はかなり強烈に有効だった(笑)。


http://www.satonao.com/archives/2012/05/post_3414.html


台湾いいなあ、行きたいなと思ったら急に元気が出た。午後から徐々に復活の気配。やはり食い気がバロメーター。わかりやすいヤツです(w).


画像は去年のじょうじ君と行った去年の台湾。こういうB級の普通の排骨麺が恋しい。
元気がでたってことですね。



May 14, 2012

耐える

昨夜から、どかーんと大波。午後までは頭を動かさないでただただ耐える。ブログで闘病記を公開するつもりはないのだけれど。じっと動かずじっと耐えてると弱音を吐きたくもなるか。

病気は病の気。医者として30年やってきて初めて病の時間の流れを辛さを知る。看護師の一言でどれだけ救われるのかも。

仕方がない自分で耐えるしかない

4時くらいからやっと効いてきたようで、ものすごく楽になった。ああ。
今はすごく楽。嘘みたいに楽。

文章入力は集中力が問題。
そろそろマジに音声認識と併記練習。
書けないし、読みにくい文章だ。歯がゆい。

May 13, 2012

アメリカ 1985-1988

週末で外泊中。
多くの病気は発症して手術とか急性期をすぎたら落ち着つく。ふつうはそうだから一般的には治療が順調ならどんどん楽になるだろうと思うんだろう。これが理解できないんだろうなあ。

経過手術も順調し元気もあるし、見た目じゃ不自由なところもなさそうに見えるけれど、実はいまが一番つらい。気持ち悪いのと倦怠感で、へろへろ。昨日は外泊でできて気分転換。こんな状態だとこれまでお見舞いに来た人も戸惑うだろうなあ。でも想定内のことなのでご心配なく。あと数日乗り越えた先が見えるだろう。

今日は尚子と様々な事を思い出したりして。今日はLA時代のこと。ワシントンD.C.でモハメドアリとあった事、東海岸への旅、スキー、ヨセミテ、ナパにも行ったなあ。ラスベガス。当時の僕は怖いもの知らずで学会やCCSG関連の会合にもたくさん行った。。。。懐かしいアメリカ。昔の事を思い出すと一瞬気持ち悪さを忘れられる。そんなこんなで、ぼーっとなりつつ懐かしい思い出に浸りつつ。うつらうつら、終日。

May 11, 2012

あと4回

一日中眠い。ダルさと嘔気。どーんと来た。じっと耐え忍ぶのみ。明日から2日中休み。自分で選択した道だ。弱音を吐くことはしない。

May 10, 2012

謎の上海焼きそば

できるだけ弱音を吐くことはしたくないけれど、放射線療法がボディブロウみたい効いて一日中ダラダラウ&トウウトと。午後夕方になって少し復活したけれど今から数日がキツそう。この気持ち悪さは未経験かも。一日中嘔気で全然食べられないだろうと思って諦めていたら、夜になってS君の持ってきてくれた上海焼きそばを美味しくぺろりと食べられて皆をあ然。さっきまで、うーー気持ち悪いって言ってたのに、あれは何かの魔法か(笑)。

May 9, 2012

1ヶ月という時間軸

一日中どんより眠い。今週になって急に来た感じ。ダルくてだらだらしていたらあっという間に夜になってしまった。夜になってやっと落ち着いた。ダルい辛いとかちょっと弱音をはいてる。でも大丈夫です。まだまだ僕は。

梅田先生に言われて気づいた。4/9に発見されてから、今日で1ヶ月なんだ!
なんという時間の流れ。あまりにも色んな事が起こりすぎて自分でも把握できていない。

4/8の日曜日には皆でソフトボール大会だった。皆で撮った写真をみても、その24時間後にまさかこんな運命が待っているなんて。すぐに検査、3日には入院、発見から1週間で手術。いろんなラッキーが重なりその後の経過も今に至るまで順調。そして1ヶ月。

人生と言うのは本当に一瞬先はわからない。
何か不思議な力と感じざるえないのだ。

人生は常に現在進行形だ
その瞬間から過去形になる

未来に続くものがあると
信じるからこそ
今のうちに
どうしても伝えておかなくてはならない事がある。 

May 8, 2012

一日中眠い

化学療法と放射線療法が進み、実は一昨日からヘロヘロ状態。急に来た。髪もごっそり抜けたし。まあもともとハゲてるから気にならないけど。とにかくダルくて一日中、眠い。船酔いってこんな感じなんだろろうなと、妙に冷静に。当分はこの苦しさをやり過ごすしかない。

May 7, 2012

日本という奇跡的に素晴らしい国について

今日のさとなお君の記事について。実は以前から書いておきたいと思っていた。とくに東日本大震災と原発問題に直面し、今まさに書かないと思っていたところでこんな事態になってしまった。なんというタイミングなんだろう。
http://www.satonao.com/archives/2012/05/post_3408.html

この世代に日本に生まれた世代として書き残して置かねばならないことがある。さらに次の世代に伝えなくてはいけないこともある。でも自分史的なものを書き残す時間は(実は20年くらいは生きているつもりだった)どうやらなさそうだ。

日本という国がいかに素晴らしい国なのかをということにについて、自信を持って欲しいと思う。
別項追補あり

May 6, 2012

眠いのだけが辛い

GW期間ということで、放射線療法と高圧酸素療法は休日バージョン。身体的にも精神的にもちょっと休めていいブレークになった。昼前にたまプラを散歩。気分転換ができた。最高の季節、気持ちいい天気だった。FM Salusの本番直前に突然スタジオに現れて、香月さん、まなさん、染谷君を驚かせてしまった(笑)。びっくりさせてごめんね。楽しかったです。たまプラを歩くだけで本当に幸せな気分。そんなこんなで、どこも痛い所もいし、元気だし食欲もあるんだけど、治療の影響で一日中眠い。

ワイナー先生

最近、アメリカでの生活のことを思い出すことが多い。
John M Weiner(ワイナー)先生と奥さんのGayle(ゲール)

初めてワイナー先生とあったのはUSC医学部のメインキャンパスだった。まだLA に来たばかりでSSCGの本部機能も小さな木造の建物だった。パソコンを初めてさわったのもこのころ。1985 年。BASICでMS-DOSではなくてL-DOSというTandy-Radioshakというマシンの時代。はじめはの仕事はたひたすらデータを入力すること。山のようなデータをトレイに運びただひたすら入力。2週間くらいして初めて口をきいてくれた。それまでは普通の挨拶程度。そろそろ焦れてきたかなというタイミングだった。

ここで初めて1時間ちかく面接があった。
たぶん彼は僕を試したんだと思う。質問の嵐の厳しい面接だったけれど、耐え抜いた。あとから聞いてみれば、笑い話なんだけれどかなり必死だった。
本当にものすごく厳しい人で、その後知る限りで正規のフェローとなった日本人はいない。そのくらい要求されるものも厳しいし、甘えは一切許されなかった。
厳しかったけれどパサデナでの研究所での生活は快適だった。そこそこ給料もでたことが大きい。CHLAと半々の感じだけれどプライベートでも本当に彼らにお世話になった。

ワイナー先生は本当に厳しい人なのだ。きちっとしている。まじめ。そして頑固。こっぴどく起こられた事も何回もある。でもけっして見捨てない。仕事が終わらずひとりでオフィスにのこっていてもさりげなく後でフォローしてくれる。どれだけ多くの事を学んだか。

仕事を離れると一転してプライベートな顔になる。一旦心を許した人にはこれ以上ないくらい親切をくれる。僕らもそれに応えるべく一所懸命になる。
そういう付き合いなのだ/ユダヤ人特有の温かさなのだ。一旦仲間にしてもらったら本当に心から歓迎してくれる。

奥さんのゲールにも尚子がお世話になった。生まれたばかりの赤ちゃんだった加南子を本当の孫のように可愛がってくれた。アメリカから日本と全く逆の立場で孫がいた両親にとっても嬉し偶然だったんだろう。息子と娘みたいに。食事に何回も連れて行ってもらったし、いろんな所に行った。彼らの自慢の馬を見せに行ってもらったり(素晴らしい馬)、親戚一同の集まるパーティに家族ぐるみでおつきあいをしてくれた。僕は多くの事を彼らに教えてもらい助けてもらった。有能な秘書のルーシー、PHD のグレンダも随分助けてもらった。当時学生だったラリーにもお世話になった。多くの人たちに感謝。

そしてアメリカを去る日が近くなった或る日。
Marc 話があるからオフィスに来なさい、と。
なんだろう?オフィスに行ってみたら。。。。

ワイナー先生がニコニコしている。
大きめの封筒を手渡された。

中にはLAから成田までのファーストクラスのチケットが入っていた!!
驚きと喜びで言葉が出ないほど。
彼らの優しさと心遣いが嬉しかった。
あのチケットは宝物だ。
LAでの生活、パサデナでの日々

その後、ゲールが病気に倒れてバッファローに転居してからは一回LAでお会いしたのが最後。消息不明になってしまった。その後僕らも横浜、ニュージーランド、転居などをしているうちに時間が経ってしまい連絡もできなくなってしまった。不義理をしているうちにお礼もちゃんと出来ないまま20年以上経ってしまった。本当に申し訳ない気持ちがする。

May 5, 2012

GWで救われた/絶妙の神様采配

先週末くらいに精神的なダメージがどーんと出てしまった。この何をやってもダメダメ状態はただひたすら時間の経過を待つしかない。暗く深い深海の底に沈んでいた。言葉を吐く事もつらい。人を会うのも苦痛。今までの人生のうちで最低のボトム近くまで落ちてたかもしれない。まるまる2日はダメダメ状態だった。丁度1週間前。

仕方ない、こんな気持ちにとことん浸ってどーんと落ちてサメザメと泣いてみるか?と(泣けないんだけど)自分にツッこみをいれてみたら、逆に笑えてきた。真っ暗闇ですっと光明が見えた様な気がしたきっかけは、何気ない尚子の言葉だった。こんな状況であっても、見方を変えればまだやれることもできることもたくさんあるじゃないか!と。ふとしたことでスイッチが入り、すーーと潮が引くように苦しさが去なせた。

どんなにのたうち回って苦しみ抜いても、そんなに享楽的な人生を送ろうというと、与えられた時間は同じ限られたものなのだ/時間軸の中自分として生きていられるのは限られている。だとすれば、時間を無駄には出来ない。これは僕が特別に強い人間だからってわけじゃない。人間の自然治癒力というか復元性って、放っておけば自然に物事は進み動くものなのだ。

この2日間は苦しんだ。このダメダメ状態の時にお見舞いに来てくれた方々、ご心配をかけました。この連休で小休止/リフレッシュできたし。

治療が順調で、手術後の予定通りの順調な経過に、みんな「どこが病気なの?。普通に話しているし元気だし。何でも美味しくバクバク食べてるし...と自分の幸運を今感じてる(現在進行形)。一般的にはわからなくて当然だろう。コレがどれだけ奇跡的にラッキーな事なのかはわからなくて当然だろう。ほとんど生活に普通の生活はできているし、疲れやすい事と集中力が散漫なので疲れるくらい。火曜日は神保町の「三香園」で梅田先生と中華をたらふく食べたり、翌日の昼はじょうじ君とキッチンカロリーで「メンチカツスタミナ焼き海老フライのせ」とかバクバク食べられた。みんな信じられないんだけれど、そのくらい首から下は元気です。治療は未だ今後も継続。というかある意味コレからが正念場。

そんなこんなで3日前からまた書き始めてます。ブログ更新は、非公開部分ペースを徐々に再開中。
散漫でで支離滅裂な分も多いんだけど、やれる範囲で進めます。ムリせず、です/

2010の記事(転載)

2010 紹介記事 転載 アーカイブとして保存
http://www.qlife.jp/square/professionals/story11844.html

May 3, 2012

聖書

クリスチャンのMちゃんから頂いた聖書の一節/
英語訳だと意味が曖昧なのだけれど、原文を読んでしみじみ響いた。

God
grant me the serenity
to accept the things I can not change,
the courage to change the things I can,
and the wisdom to know the difference.


変えられないものを受入れ、変えられるものを変える勇気。。。

真実の言葉の重さ。